掃き溜めに蜜

 園内に立つポール時計は、既に十時を指し示している。
 公園を出ると、何事もなかったように帰路につく。足取りも普段と変わらず、ゆっくりと、急ぐこともない。
 辿り着いた自宅の窓に、明かりは一切灯っていなかった。そのことに、少年は何の不安もいだきはしない。これが彼にとっての日常だからだ。
 この家には、少年以外誰も暮らしていない。書類上は両親がいることになっているが、少年が高校に上がってからは、家の中でその顔を見ることはなくなった。毎月一日に決まった額が口座に振り込まれるだけで、彼の両親は少年の生活に一切関与しない。そのくせ、体面上息子の学歴だけは気にしているのか、勝手に塾や予備校に申し込むような真似はする。
 そんな機能不全な家庭に、少年は心底嫌気がさしていた。かといって、何もかも捨てて逃げ出すような度胸もなかった。ろくでもない親の金で生きていることも事実で、また思春期にありがちなあらゆる悩みに対して、余計な詮索をされることもないと考えると、現状に甘んじていることは、少年にとってさほど不都合のないようにも感じていた。
 そうして結局今日まで、少年は毎日誰もいない家から学校へ通い、誰もいない家へと帰る日々を繰り返していたのだった。
 玄関ドアの前に立ち、上着のポケットを漁る。鍵を取り出すと、それについて、紙切れが一枚地面に落ちる。
 拾い上げると、ノートの切れ端だということが分かった。紙片には、携帯電話の番号だけが走り書きされている。
 一体、誰の――。
 番号の記された紙を片手に思案した瞬間、少年の全身に、あらゆる感覚が蘇ってきた。
 口腔内を蹂躙する熱い舌。
 強く肌を吸われる軽い痛み。
 誰にも触れさせたことのない自身の性器を、他人の指に絡めとられる衝撃。
 そして、体内に受け入れた、男たちの欲望の硬さ。
 あれは、合意などではなかった。れっきとした犯罪だ。行為を思い返して、少年は思う。
 だが、
 ――才能あるね。
 ――上手だよ。
 ――かわいい、すごくかわいいよ。
 ……あのように、誰かに褒められたことが、これまであっただろうか。
 あれほど誰かに愛でられたのは、一体いつぶりのことだったか。
 そんな思いが胸に宿り、堪らなく苦しくなった。 そして、そんな子供じみた馬鹿馬鹿しい考えを持つ一方で、少年の下半身は、年相応の欲求をはっきりと熱く兆している。
 少年は、スクールバッグからスマートフォンを取り出した。紙片に記された番号を、震える指で入力していく。
 通話ボタンを押し、機体を耳に添えると、数回のコールののち、電話は繋がった。
『もしもし』
 聞こえてきたのは、三人目の男の声だ。 スピーカー越しのそれが、じわりと脳に染み込んでいく。
「あ、あの……僕……」
 少年は、自宅にそっと背を向けた。
 鍵を再びポケットにしまい込む。
 通話をしながら再び歩道へと戻る。
 骨の髄まで蕩けさせるような甘い蜜が、少年を誘っていた。
 彼が背を向けた暗いその家に、今夜、明かりが灯ることはない。

(了)

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