掃き溜めに蜜

 六月の夜の闇が、じっとりと影を踏む。
 午後八時、家路につく少年の足取りは酷く重い。ありもしないぬかるみに踏み入っている心地すらした。
 予備校から遠ざかっていくにつれ、歩道に面した建物が減っていく。さらに繁華街と反対方面ともなれば、人通りも多くない。
 少年の自宅までは、徒歩二十分ほどの距離だ。彼はいつもその道のりを、わざわざ三十分ほどかけて歩いている。
 広い児童公園のわきに差しかかった。存在こそ認知はしてはいるものの、特段用事があるはずもなく、当然ながら彼が足を踏み入れたことはない。
 この道を通るのは、既に子供たちが帰宅した夕暮れ時か、今のような時分だけ。公園に誰かがいるところを、彼はこれまで一度も見たことがなかった。
「すみません」
 俯き加減で歩を進めていると、不意に呼び止められる。咳混じりの掠れた男の声だった。
 ちらと視線をもたげる。
 一車線の狭い車道を挟んだ反対側に、黒いカーディガンを着た男がうずくまっていた。
 それを目にするなり、少年は安堵した﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅
車の往来も確認せぬまま男の元に駆け寄り、すぐそばに片膝をついてしゃがみ込む。細かいアスファルトのかけらが、スラックスの布越しに少年の膝を苛んだが、彼はそれに気づきもしなかった。
「大丈夫ですか? 救急車を呼びますか?」
 尋ねられた男は小さく頭を振り、
「――少し、吐き気が」
 口元を抑えて軽く咳き込んだ。
 これまでろくに運動もしてこなかった少年と比べて、随分と体格がいい男だ。とても自分ひとりで、どうこうできるとは思えなかった。周囲を見回すが、他に通行人の姿はない。
 気休めに男の背をさすりながら、視線を公園へと移す。その敷地の中ほどに、公衆トイレがあることに、少年は気がついた。
「歩けますか」
 男が頷いたのを確認して、少年はその右腕を取り、自らの肩に載せる。同時に脇にも手を回し、ゆっくりと起立を促した。ずっしりとかかる重さに何とか耐える。ふらつきながらも、男はようやくその場に立ち上がった。
 あっちです、とトイレの方を指し示す。男はじっと黙ったまま、頷きもせず、ゆっくり歩き始める。
 そのことに、少年が一切の疑問を抱くことはなかった。
 少年の頭の中を占めていているのは、今この瞬間に、自らの足が帰路から外れていく。ただその事実だけ。

 児童公園だけあって、トイレは段差のないバリアフリーな造りだった。防犯のためか、建物自体にドアはなく、代わりに目隠し用の壁が、入り口の前に建てられている。内部は個室がふたつきり。うちひとつは、便器周辺のスペースがやや広くとられており、壁に手すりなどもついていることから、多目的トイレであることが窺えた。
 広めの方の個室に入り、少年が便座を上げると、すぐに男がその場にしゃがみこみ、咳き込み始める。男の背をさすり、時折声をかけた。男は一言も発しない。アルコールの匂いはしないから、酔っているわけでもなさそうだ。吐けば楽になるかもしれないと少年は思ったが一向に嘔吐する様子はない。
「何か飲み物、買ってきます」
 公園の敷地内、あるいは予備校近くまで戻れば、自動販売機がどこかにはあるはずだ。もし戻ってくるまでに時間がかかったとして、その間に男が復調してこの場を去ってしまっても、少年にとって、それはさしたる問題ではない﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅
 男を残してひとり立ち上がり、個室のスライドドアに手をかける。
「どーも」
「ぇ、あ――」
 開いたドアの向こう側、少年の進路を塞ぐように、男がふたり、横並びになって立っていた。
 オーバーサイズのTシャツにダボついたデニムという出で立ちの二人組は、逆光で陰になった顔に下卑た笑いを浮かべながら、少年を見下ろしていた。
「君、高校生? かわいいね」
 そのうちのひとりが、少年の腕を掴む。口元にシルバーのボールピアスが見て取れる。
「あの、僕、急いでいて」
 振り解こうとするが、少年がどれだけ力を込めても男の拘束から逃れられない。それどころか、逆に掴まれる力が強まり、痛みに眉をひそめた。
 ぱ、と突然、腕を離される。
 瞬間、背中に触れる何かがあった。
 振り返る間もなく、少年の両脇から何かが伸びてきた。羽交い絞めにされ、ようやく気づく。それが黒いカーディガンの腕であることに。
「ちょーっと、俺らと遊んでくんないかなァ」
 少年のブレザーのボタンを雑に外していくのは、短髪をグレーに染めた男だ。下から覗き込むように少年を見つめるその目は、獲物を捕らえようとする野獣のそれだ。濡れた舌が、ちらと覗き唇を舐めるのが見えた。
 ぞう、と背筋が震えた。
 少年はゆっくりと首を捻って、背後を見やった。縋るような目で、自身を拘束している男に視線を向ける。
「あ、え、具合は……」
 恐る恐る尋ねたが、男は答えなかった。目も合わせようとしない。
「そいつ、俺らのツレなのよ」
 顎を掴まれ、再び前を向かせられる。薄く開いた口の奥、舌の上に唇と同じようなピアスが複数覗く。
 グレーの髪の男が、ブレザーの下のワイシャツにまでも手をかけ、
「ま、そーいうことだから」
 ふ、と鼻で笑う。
 思わず身を捩る。
「――暴れないで」
 耳元で、背後の男が囁いた。ボリュームが絞られ、さらに呼気を多く孕んだ低い声は、少年の意思とは全く無縁の脳内領域に作用し、その身体を甘く震わせる。
「おとなしくしてれば、気持ちいいだけだからさ」
 ボタンを外し、男はそのまま露わになった腹部に、軽く歯を立てた。
「ッん……、ふ、」
 普段衣服で覆い隠されている部分の皮膚は、少年が考えている以上に薄く、外部刺激に弱い。
 思わず鼻に抜けた声が漏れ、頬に朱がさした。
「学校にも親にも知らせないよ? 脅したりもしないし。そういうのはほら、合意﹅﹅って言わないから。ねェ?」
 ピアスの男が、がさついた手で頬を撫でてくる。ちり、と微かに肌を引っかかれるような感触。ささくれだった指が顎を掠め、身体がびくつく。
 体格の良い三人の男に囲まれ、到底逃げられるはずもない。少年は身体から力を抜いた。もはや抵抗したところで無駄なのだ。ならばいっそ、彼らのいうように、おとなしく従うのが得策だろう。そうすれば、いずれ解放されるのだから。
 ――本当に?
 そもそも、少年を騙してまで、こうした行為に及んでいるのだ。約束を本当に守る保証など、どこにもありはしない。
 もし反故にされたら――その時は?
 少年の胸は、不安、そして一抹の期待﹅﹅﹅﹅﹅に満ちていた。
 床に落ちた三人の男の陰影が、ゆらりと蠢き始める。

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