迷い犬を手懐ける方法

 暴力はすべてを支配する。

 酸漿ぬかづき仰生あおいは、暴力を信仰していた。

 彼が初めて他人に暴力を振るったのは、十二歳の時だった。

 仰生は両親の顔を知らない。物心つく前から施設で育ち、施設の職員からその場限りの情をかけられながら生きていた。

 小学校を卒業する直前だ。施設の所長に呼び出され、何もわからぬままソファに組み敷かれたのは。

 下卑た笑いを浮かべた所長の手が、衣服越しに仰生の幼いペニスを撫でた。黄ばんだ歯列の間から吐き出されたヤニ臭い息が首筋に触れ、生理的嫌悪で全身に鳥肌が立ったのを、仰生はきっと一生忘れることはない。

 散々に身体を弄られたあと、荒い息を吐きながら自らの股間を寛げ始めた所長を、仰生は殴った。間髪入れずに、何度も、何度も。それは衝動というより、動物的な生存本能だ。殺さなければならない。さもなければ、自らが食われてしまう。

 仰生を弱者と信じ切っていたその男は、顔面を腫らしながら、すっかり縮んだペニスを露出させたまま、床をのたうち回った。情けない悲鳴を上げて、許しを乞うた。十二歳の少年に、だ。

 哀れな男の姿に、仰生は、急激に世界が温度を失っていくのを感じていた。

 所長は、次の日施設に来なかった。さらに次の日、別の男が所長として現れた。新しい所長も、もともと愛想の良くなかった職員たちも、元所長の件以降、仰生に対してどこかおびえたように接してきた。その理由が、仰生にはすぐに理解できた。彼らは、暴力に屈したのだと。

 この世は腐っていて、生きていくには暴力しかない。

幼い仰生に信じ込ませるには、それは十分すぎる出来事だった。

 暴力で他人を支配することを覚えた仰生の中学生活は、はたから見れば散々なものだっただろう。施設育ちだなどと難癖をつけられれば、上級生や教師でも容赦なく拳を振るう。そんな状況で学校に通うのも馬鹿らしくなり、次第に足は遠のいた。

 素行が悪くなるにつれ、施設の職員は仰生との直接の関わりを避けていった。本来は職員が管理しなければならない小遣いは、毎月茶封筒に入れられて、いつの間にか仰生の部屋に置かれていた。

 自由にできる金銭が定期的に手に入るようになっても、仰生は施設から出ることはなかった。暴力に頼って数年間を過ごした彼に、もはや近づく者はいない。

「酸漿、仰生くん?」

 いつぶりだろか。名を呼ばれたのは。

 日が暮れてずいぶん経つ。薄暗い歩道で、施設に帰る仰生の重い足を止めたのは、見知らぬ男の声だった。

「アンタ、だれ」

 警戒心を隠しもしない、棘のある問い。

 男は仰生よりは年上のようだったが、しかし中年というには若い。垂れ気味の目尻が、表情を酷く柔らかく見せている。シャツにジャケット、それにスラックスを身に着けているが、ネクタイのない襟元は、ボタンがひとつ開いていた。

「私は児童福祉士の者です。少しお話いいかな」

 肩書きを聞き、仰生は眉を潜めた。

名刺を渡されたが、受け取ることはしなかった。

「話なんて――」

 言いかけて、口を噤む。関わるべきではない、という気がした。

 児童福祉士が、夜に、路上で、声をかけてくるなどあるはずがない。

 とっさに踵を返そうとするが、腕を引かれ、それを制される。手首に、男の五指が食い込み、僅かな痛みを与えられる。思わず舌打ちがもれた。

「きみがいる施設の元所長さんのことについて、と言った方がいいかな?」

 男の口元が、にた、といやらしい笑みを形作る。細められた垂れ目に宿る、得体のしれない不気味な色に、ぞ、と背が震えた。

「っ、……いまさら、何の話があるってんだよ」

 動揺を気取られないよう、強い口調で問う。

 元所長とのことは、もう四年も前の話だ。それに、施設の長という立場を利用した児童虐待であるのは明らかで、仰生はむしろ被害者である。もし、児童福祉士という肩書きが嘘でないとしても、被害者に対して聞き取りを行うなど、不自然極まりない。ろくに学校に通っていない仰生であっても、それくらいは判断できた。

「そのことも含めて、ここじゃあ少し不都合だよね。事務所で話したいのだけど、酸漿くん、時間は大丈夫だね」

 大丈夫だね。

 尋ねるでもなく、はっきりと言い切った。

 初対面のはずのこの男は、仰生の行動パターンを完全に把握しているのだ。

 殴れ、拳を振り上げろ。本能が、そう告げていた。しかし、どうしてか身体が動かない。腕を掴まれているが、本来なら振りほどけないほどの力ではない。異様な眼光で四肢を射貫かれたような気分だった。

 仰生は、操られたように頷くしかなかった。

「よかった。じゃあ行こうか」

 男が満足そうに口角を上げた。

 元から垂れた目は、とても笑っているようには見えなかった。

「ここ、は……?」

 酷い眩暈がする。ぼやけた視界に映っているのは、薄暗い天井だった。どうやらベッドのようなものの上で、仰向けに寝かされているらしいことを、背中や手の感触で察知する。

 記憶が繋がらず、仰生は酷く混乱した。

 施設に戻る途中で、児童福祉士と自称する男に会った。そこまでははっきりと覚えている。だが、その後のことを思い出せない。

 話がある、と男は告げた。場所を移すとも。

 少し眩暈が収まってきた。定まった焦点で捉えたのは、コンクリ剝き出しの天井。裸の蛍光灯がちらついている。

「ああ、目が覚めたかい。よく眠っていたね」

 すぐ横で、淡々とした声。あの男のものだと、瞬間に理解した。

 横目に視線を向けると、やはり男が立っていた。あの嫌な笑みを浮かべて。

 ――ここは、男の事務所だ。

 男の姿を目にして記憶が掘り起こされたのか、仰生は男と出会った後のことをようやく思い出した。

 男に連れられ、仰生が招き入れられたのは、寂れた商店街にある雑居ビル。エレベーターはなく、階段で上った三階が、彼の事務所だということだった。

 事務机に、書類棚。応接用のソファーセット。入り口から向かって左手の壁には隣室に続いているであろうドアがあった。

 特段問題はないように、仰生には見えた。だから、油断した。促されるままにソファにかけ、差し出されるままに、グラスに入った麦茶を口にした。――そこで記憶が飛んでいる。

 盛られた。

 それを認識した途端、一気に頭に血がのぼる。

 拳を握りながら、勢いよく身体を起こそうとする。しかし、それは叶わなかった。

 両手足を、ベルトのようなものでベッドの四隅に固定されていたからだ。特に両手はきつく拘束されているようで、ほとんど動かすことができない。

「な、んだよッ、これ! てめぇ、ぶっ殺してやる!」

 何とか拘束を緩めようと手足をばたつかせながら、仰生は吠えた。

 強い言葉とは裏腹に、仰生ができることと言ったらベッドを軋ませるぐらいだ。そんな仰生を細めた目で見下ろしながら、男は自身の顎を撫でた。

「仰生くん。きみは何か、勘違いをしているね」

 男が膝を折り、身を屈める。いやらしい笑みを崩さないその顔が、仰生の顔の間近に迫った。息がかかりそうな程の距離。

「……っ」

 異様な威圧感に、思わず息を呑む。

 暴力と共に生きてきた仰生にとって、互いの顔が近づくなどよくあることだ。だから本来それは、大したことではない。

 だが、この男に対してだけは違った。本能が、男のすべてを拒絶している。

「これまできみは、周りの人を暴力で抑えつけてきた。暴力がこの世界で最も有効な支配手段だとでも思っているだろう。――こどもの考えそうなことだ」

「なっ」

 ふん、と鼻で笑われ、思わず拳を振るいそうになる。当然、それは叶わない。

「きみは何かを手に入れたか? 失うばかりじゃなかったか?」

「……失う?」

 男に問われ、今度は反対に、仰生が鼻で笑う。

「そもそも俺には、最初から何も――」

「本当に?」

 吐き捨てた言葉を、男が強い口調で遮った。

 耳朶のそばで放たれた酷く冷たい声色は、仰生の背を、ぞ、と震えさせた。全身が酷く強ばり、身じろぎさえできない。

「僅かな、ほんの僅かな関係性すら、きみは持っていなかったか? 持っていなかったんじゃない。知らず知らずのうちに壊したんだ。暴力という手段で。その証拠に、今のきみに、帰る場所はあるのかい? きみを待つ人がいる、本当に帰るべき場所は」

 顔のすぐそばで捲し立てられたためか、男の声が頭の中を掻き混ぜていく心地がした。どろどろになった思考は、言葉を言葉として解さない。意味を成さない音が、行き場を失って消えていく。芯から脳が痺れたようだった。そんな状態で、状況を正常に判断することなど不可能だ。

「そん、な……こと」

 ましてや、世間一般的に正論でしかない男の言い分を、一体どうして仰生が否定することができただろう。

 男は、ぱ、と仰生から身体を離した。

「うん。いいんだ。認められないのも無理はない。何せ、あんなことがあったんだから」

「どこまで知ってんだ、アンタ……」

 仰生が元所長に襲われたことは、公になっていないはずだ。伝わっていたとしても、せいぜい、不祥事を起こして解雇されたという程度だろう。現に、仰生のもとに警察の聴取はこなかったし、児童相談所などの介入もなかった。職員たちの噂によれば、施設の経営者が国会議員と繋がりがあり、事件を揉み消したのだという。つまり、酸漿仰生という被害者は、この世のどこにもいないのだ。

 男が、ふ、と口元を緩めた。それまでのいやらしい笑みではなく、他意を感じさせない柔らかい微笑だった。

「どこまでだろうね? でも、そんなことはどうでもいいんだ。私はきみに、暴力以外の手段を教えてあげたいだけだからね」

 ベッドに縛りつけられた仰生の手を、男の手が包み込む。指先は酷く冷たい。

 氷のような五指が、手首を、腕を、ゆっくりと撫で伝っていく。

「暴力の先にあるのは支配じゃない。崩壊だよ。すべてを壊し、残るものは何もない。極めて稚拙で、野蛮で、愚かな手段だ」

 暴力が良い手段であるなどと、仰生とて思ってはいない。それでも、暴力だけが、仰生の救いだったのだ。虐げられる自分を守る、唯一の手段が暴力への信仰であっただけのこと。

 男の指先は、仰生が身に着けている薄手の長袖Tシャツの上を、腋へ、胸へ、腹へ、順になぞっていく。

 ぞわぞわと全身に鳥肌がたつ。それが嫌悪感によるものではないことは、仰生自身が理解していた。

 身体の感覚がおかしいのだ。布地越しに肌を擦られただけだというのに、その微かな感触の中に本来あってはならないものを、神経が拾い上げてくる。

「では、何を用いれば人を支配できるか?」

 金属の摩擦音。ベルトを外されているのだ。デニムパンツの下、もとより敏感なその部分が、仰生の意思とは裏腹に、勝手な期待を高め始めている。

 男の手が止まった。

 そうして、仰生の耳朶に顔を寄せてくる。熱い吐息が外耳をくすぐった。

「快楽、だよ」

 低音の囁きは、蜜のように、どろりと耳道に流れ込んだ。

 ずぶずぶと鼓膜を愛撫し、神経を犯し、脳を凌辱していく。

「かい、らく」

 唇が勝手に、甘美な四文字を紡いだ。

 酷く身体が熱かった。

 拘束された手足では、信仰する暴力にすら縋れない。

 自らの内に宿った正体不明の感覚を発散することができないまま、ぼんやりとした不明瞭な頭で、仰生はただ、男に身を任せることしかできなかった。

1頁 2頁

       
«

サイトトップ > 小説 > 同性愛 > 単発/読切 > 迷い犬を手懐ける方法