にわかぱんだ好きに興味ありません。(3)

 院生が主に利用するのは、校舎の南棟と呼ばれる部分。

 そこはほとんどの教室が研究室で占められているので、南棟よりも研究室棟という呼称のほうが実際はよく使われる。

 極稀に行われる院生用の講義は、校舎の中でもっとも面積の狭い東棟が使用されているようだ。

 本来は別棟で建てられることの多い大学院も、もともとの大学の規模が小さいため、ここでは同じ敷地内に併設されている。

 よって南棟と東棟を除く残りの部分は、すべて大学であり、院生はめったに足を踏み入れることはない。……普段ならば。

 そもそもこの大学の部分。ここは通称を中央棟といい、文字通り校舎の中央部分に位置する。つまり南棟から東棟へ移動する場合、また逆も然りだが、その時は中央棟を通過せざるをえないのだ。

 一般的な大学では、大学院との繋がりは殆どないに等しいが、ここはそういった意味で特殊な学校といえるだろう。

 研究室棟の一階には小さいながらも売店があるのだが、利用者が少ない夏季休校期間中は営業していない。篠沢が飲料を買い求めるためには、中央棟との廊下に設置してある自動販売機まで足を伸ばさねばならなかった。

 それでも喉の渇きは誤魔化せず、篠沢は額を伝い落ちる汗を拭いながらも、灼熱の道程を行く。

「つ、ついた」

 開け放たれた窓から流れ込む風が、頬を撫でる。コンクリートむき出しの床面は、スニーカー越しに判るほど冷たい。

 望めば飲み物も手に入る。この場所はまさに、砂漠を行く旅人のためのオアシスに違いない。

 命辛々辿り着いたというのに、このまま素直に目的を果たして帰るのも惜しい。篠沢は壁面を背に、その場にずるずると座り込んだ。

 蝉の声が耳に煩い。灼熱地獄と化した研究室を思い出すと、このまま直帰してしまいたい衝動に駆られる。しかしパソコンも大事な資料もあの中だ。今日は自宅に持ち帰って、少し論文を書こうと思っていたから、さすがにそれらを残したまま帰ることも出来ない。せめてもう少しだけ、ここで涼もう。

 ひとつ、大きな溜息。

 天井を大きく仰げば、

「……あの、具合でも悪いんですか?」

「う、うわぁあっ!」

 見知らぬ顔に見下ろされていたものだから、驚いた勢いで立ち上がってしまった。

 当然、

「ったぁ!」

 篠沢の頭頂部が、何者かの顎……と思しき部分に痛恨の一撃を食らわせる。

 周囲に響いた鈍い音に、蝉も思わず合唱をやめた。

ぐらぐらと世界が揺らぎ、篠沢はその場に崩れ落ちる。

 顎に痛手を食らった誰かは、勢いよく尻餅をついていたが、それほどダメージは大きくなかったらしい。篠沢にむかって大声で悪態をついている。

 しかしその対象である篠沢には、その声は全く届いていない。

 ぶつけた部分から激しい熱が広がり、篠沢の身体中を駆ける――。

 ……霞がかる視界の中、遠くに川が見えた。

 その反対岸には竹林があって、そこを背に、後ろ足二本で直立したパンダが篠沢に向かって手招きをしている。

 一匹だったパンダは徐々に数を増やしていき、たちまちに臥龍パンダ保護研究センターもびっくりの数のパンダたちが川沿いを埋め尽くしていく。

 ああ……、楽園はここにあったんだ! みんな、今行くから……僕を待っててッ!

 篠沢は川へ……いや、パンダの列に向かって駆け出した。

 川へと足を踏み入れると、意外と流れが速いことに気づく。けれど迷っている暇などない。そこにパンダがいる限り。

 水流に足を取られつつ、気合と根性で足を進める。篠沢の目には、もうパンダしか映っていなかった。

対岸までの距離が縮まっていく。川幅を三分の二ほど進んだところで、篠沢は川底を蹴った。パンダの胸をめがけての跳躍……否、もはやそれは飛翔といえる。拗れに拗れた愛によって、超インドア派の篠沢は鳥のごとく羽ばたいてた。

 それを見越したように、パンダが慈愛に満ちた表情で両手を広げる。

 ――ああ、もう死んでもいい。

 柔らかな毛並みが、篠沢の身体を受け止めた。獣が放つ独特のにおいを肺一杯に吸い込む。それはただただ幸福な時間だった。たとえこれが彼の妄想の中の、さらに一瞬の出来事だったとしても。

 ふと、パンダが篠沢の肩に手をのせた。

 篠沢がパンダを覗き込む。

 途端、篠沢の顔が青ざめた。いや、すでに血の気は失せて白い。

 篠沢を抱きしめているものは、パンダではなかった。身体は確かにパンダに違いない。しかし、図鑑や写真の中でしか毎日会えない、憧れのモノクロフェイクはそこになく、代わりにあったのは、毎日毎日同じ部屋で飽きるほど見ている、あの人の顔。

「さ、逆井しつちょ……」

 愕然とする篠沢を気にも止める様子もなく、逆井の顔をしたパンダ(のようなもの)は言った。

「ファイトォオオオ! イッパァアアアアツ!」

 同時に、低い位置からのボディブロウが繰り出されるのを、篠沢は見た。それが最後だった。

 夢だ。幸福な悪夢だったのだ、全ては。

 逆井の一撃を食らって、篠沢は意識を取り戻した。冷たいシーツの感触。救護室だ、とすぐに気づいた。

 ゆっくりと目を開けてみるものの、なかなか焦点が定まらない。ただ、頭と腹が、妙に痛いことだけは認識できた。

「お。生き返った」

「す、すごい。本当に目を覚ますとは……」

 逆井と、誰かがいる。

 誰かというのは、うっかり顎に打撃を食らわせてしまった、あの誰かだ。

「しまった。起こす前に悪戯してやればよかった」

「悪戯なんて生温いですよ。お婿にいけない身体にしちゃいますか?」

 二人が笑いながら物騒なことを言うものだから、

「……あのぅ、そういう相談は意識がない時にやってもらえると幸いなのですが」

 ささやかな抵抗を試みる。

 よいこらしょと年寄のような掛け声と共に、ゆっくりと上体を起こす。

 爺臭い、と逆井が笑ったが気にしなかった。

 鳩尾の辺りがぐっと刺すように痛んだ。その痛みと共に、篠沢はつい今しがた見た悪夢を思い出した。

「逆井室長」

「ん」

「腹部に激しい痛みが」

「それはきっと、気のせいだ」

 すました顔でしれっと答える。

「そうですか、気のせいですか。……って、んなわけあるかぁあああ!」

 夢に現れた偽パンダのように、鋭く拳を繰り出す。

 ズドン。

 打撃が腹にヒットし、ぐぅと唸りながら逆井がその場に崩れ落ちる。

「いいパンチだったぜ……」

「室長……」

 一方はベッドの上。もう一方は床の上。

 一昔前の青春漫画のように見つめあう。多分周囲にはキラキラと点描が浮かんでいる。

 その傍には、完全に置きざりにされた少女が一人。

 二人のやり取りを冷たい目で傍観していたが、暫くして重い口を開いた。

「……ここは漫才研究会ですか?」

 きっと、彼女にとっては心からの皮肉。

ううむ、と少し考え込んで、篠沢はそれに答える。

「あながち間違いじゃない、かな」

 クーラーから吐き出される涼しい風。それよりもさらに冷たい空気が、その場に流れた。

 太陽が、にわかに傾き始めている。

 それを見計らったかのように、蝉の合唱隊に、新たにひぐらしたちが加わった。

(続)

       
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