にわかぱんだ好きに興味ありません。(2)

 先日の一件以来、結局篠沢の白衣は、合わせをとめずにだらしなく開かれたままにされている。あの後、逆井が『とりあえずやればわかる』としつこく薦めてきたものだから、篠沢は半信半疑ながらも実行に移すことにしたのだ。そして一日経ち、三日経ち、丸一週間が過ぎようとしている今日。ついに篠沢は、どうやら逆井のいう『広告』とやらが、本当に効き目があるらしいことを実感するに至った。あれからというもの、篠沢は女性から声をかけられることはおろか、僅かな視線すら感じることがなかったのだ。

 同じ学部の友人たちには、

「見かけによらず可愛い趣味してるんだな」

 などと告げられ、満面の笑顔で肩を叩かれることもあった。しかし篠沢は、彼らのそんな言動を、今回の行動故に、彼らが自分のことをより一層理解してくれたからだろうと結論付け『我ながら素晴らしい友人を持ったものだ』と上機嫌だった。これで篠沢の純粋なる愛の障害となるものは、キャンパス内にひとつとしてなくなったわけである。

 キャンパスに立ち並ぶ木々から、蝉の合唱が大音量で流れている。それは開け放たれた窓から、じわりと熱気を孕んだ空気を伴って、篠沢の元まで届けられた。室内にいても、その鳴き声が耳に入るだけで、陽炎立つアスファルトの上で、じりじりと灼かれているような気分になる。ジュワジュワと枯れた声で夏をうたう様は、自然、篠沢の苛立ちを誘った。しかし、これもたった一週間の命の輝きなのだ。そう思うと、怒鳴りつけてやりたい気持ちも、広く青い空に溶けるように消えていった。

「室長」

 狭いところにデスクを無理矢理押し込めた、窮屈な室内。開け放した南向きの窓からは、真直ぐに日差しが差し込んでくる。

 背中合わせにそれぞれのデスクに向かう篠沢と逆井の間には、今朝から沈黙が続いていた。ふたりが口を閉ざしていることに、特段の理由などはない。単に各々の作業を淡々と行っているだけに過ぎず、沈黙はその結果発生した必然的なものである。しかし、作業開始から数時間経ち、意図せず生み出されたその空気にも、ついに限界が訪れた。それを訴えたのは篠沢だ。

 振り向きもせず、篠沢は背中合わせの相手に短く声をかけた。

「あ、お前喋ったから負けな」

「……もとから勝負なんてしてませんけど」

 篠沢の開口一番の呼びかけに、逆井は嬉々として冗談で返した。逆井も内心、沈黙に耐えかねていたのだろう。

「なんだ、ノリ悪いな。俺に冷たくしてもエアコンは直らんぞ」

 相変わらずの軽口に呆れる篠沢に、逆井は言って、壁に設置されたエアコンを顎で指した。

 二人が所属する辻研究室は、今年度に入って、大学院側から南棟四階の空き部屋を新しく割り当てられた。そこは長期間にわたって使用されておらず、足を踏み入れた研究室メンバーを手厚く迎えたのは、視界ゼロの埃のブリザード。勿論、こうして使用している現在は――主に篠沢一人の手によって――綺麗に掃除されており、塵ひとつ落ちていない。けれども、その溜まりに溜まった埃が原因で、大切なエアコンが壊れてしまっていことが、つい二週間前になって判明した。しかし、修理にはいまだ至っていない。

「エアコン、か……。教授、いつ帰ってくるんでしょうね」

 篠沢は、溜息をついて、天を仰いだ。その目は、静かに明後日を見つめている。

「現実逃避はよせ、篠沢。その希望の先に待っているのは絶望だぞ」

 この研究室は、教授である辻喜八郎が筆頭者だ。そして助手の蒔田耕作、そして篠沢と逆井他数名の院生が所属している。逆井が室長を名乗っているのは、留守がちの教授から研究室の代表代理を命じられているからだ。実際は代表代理といっても特段すべきこともなく、既に肩書きだけの存在に成り下がっているが。

 辻が不在がちなことは、今に始まったことではない。彼の研究は『熱帯雨林の生態系』を専門にしており、その筋の第一人者でもある。学会でも名の通った学者だ。その為、しょっちゅう研究室を留守にしては、世界中を(熱帯雨林限定だが)飛び回っている。

 そんな辻が、昨年結婚をした。当時四十五歳の辻に対し、訊けば相手は二十一歳になったばかりだという。逆井達も一度対面する機会があったのだが、どちらかといえば地味な部類に入る辻には勿体無いくらい可憐な女性だったことには、ふたりともが揃って驚愕した。しかしそれ以上に周囲を驚かせたのは、彼女の趣味だ。

 辻喜八郎の妻、由依子。趣味は、『原住民と友達になること』――喜八郎との出会いは、南米のとある密林だったという――

 そんな彼女との出会い以降、二人は連れ立って頻繁に海外へ行くようになった。そして今回の出発の際、喜八郎は言ったのだ。

「観光もすることを考えると、どうもね、荷物が多くなってしまって。すまないけど、蒔田君、これを運んでくれるかい? アフリカまで」

 由依子と喜八郎は、互いが果たす本来の目的のためだけに渡航しているのではなかった。いつの間にか、旅行も兼ねてのフライトになっていたのだ。旅行となれば、それだけ荷物も余計に多い。そして喜八郎は、今回ついに、助手の蒔田を荷物持ちとして強制連行してしまったのである。こうして辻研究室は現在、何の権限も持たない学生だけが残されていた。

 そうやって旅立ってしまった辻から、研究室に一枚の葉書が届いたのは、五日前だ。

 表面は何の変哲もない。大学の住所と研究室宛の旨が記されている。送り主の欄こそ「辻 イン ジャングル」などとふざけた内容になっていたが、それは今に始まったことではないので、誰もあえてそこには触れなかった。

 問題は裏面だ。ぺらりと指先でそれを捲ると、まず飛び込んでくるのが鬱蒼とした森林の深緑。次いで葉書の中央には、笑顔で寄り添う辻夫妻。そしてこれが原住民なのだろうか、夫妻を取り囲むようにして槍を構えたほぼ全裸の男たちが、その黒い肌によく映える白い歯をむき出しにして、満面の笑みを浮かべていた。

 葉書の端には、たった一言、

『しばらく帰りません』

 琥珀色の文字で、それだけが書かれていた。字に触れると、少しべったりとしていた。文字を書くのに、何故か樹液が用いられていたのだ。葉書が研究室に届くまでの間、多くの郵便物を汚してきただろうことは、想像に容易い。しかし、こんなものがよく検疫にひっかからずにきちんと届いたものだと、篠沢は内心ながら感心していたのだった。

 ここで、エアコンの問題が浮上する。研究室の設備は、基本的には教授の許可なく修理交換はできないことになっているのだ。つまり、葉書に書かれていたその一文により、エアコンの修理はしばらく叶わず、このまま夏の暑さを耐えねばならなくなったことを、研究室の面々は理解した。

 結果、ほとんどのメンバーがこの研究室に寄り付かなくなってしまったのである。そもそも論文を書くにも、特別この場所でなければならない理由はなく、そもそも実験室はこことは別の場所にあるから、わざわざエアコンの壊れた部屋に入り浸る必要はどこにもないのだ。だが、そんな中、篠沢と逆井だけは、研究室で作業を続けている。理由は『大量にある資料の移動が面倒だから』、まさしくその一点に尽きた。ふたりのデスクの隅には、山のように書籍やプリントが積まれている。引き出しの中も同様だ。

「……日本の気候は、パンダに優しくないです」

 篠沢が、ぽつりと漏らした。手にしたノートを左右に振って、顔面にぬるい風を送っている。ノートの表紙には、涼しげな顔で竹林をのっそりと歩くパンダの姿があった。

「それを言うならウサギにだって優しくねぇ」

 逆井が手扇で首元を仰ぎながら気怠げに言い返すと、ふたりの間に、再び沈黙が訪れた。

「…………そういえばウサギ、好きでしたね」

「……ああ」

 互いに背を向けたままでの応答。篠沢の白衣越しの背に、じわりと汗が滲んだ。

 篠沢のデスク上には、資料の山を避けるように、大小様々なパンダが並べられている。これは、彼の大切なコレクションのほんの一部だ。心が荒んだ時、これらを見ることで癒しを得るために、数多くのコレクションの中から選び抜かれたものが、こうして彼のデスクを飾っている。その中から、篠沢は陶器で作られた手のひらサイズのパンダを選び、手に取った。それをおもむろに裏返せば、パンダの無防備な白い腹部の辺りに、ゴム製の丸い蓋が――毛色に合わせて蓋自身も白いことが、これの最も優れた点であると篠沢は考えている――現れる。指先で蓋を摘まみ開けると、そこにぽっかりと穴が空く。そうしてパンダを元の四つん這いの姿勢に戻してやると、軽い金属音がして、数枚の硬貨が篠沢の掌に落ちた。

「ちょっと、飲み物でも買ってきます」

 小銭を握りしめ、篠沢は腰をあげた。そして、身に着けていた白衣をデスクチェアに掛けると、未だデスクに向かってペンを走らせている逆井に声をかけた。

「何か飲むなら、奢りますけど」

「篠沢……お前、良いやつだな。じゃあお言葉に甘えて――」

 篠沢の申し出に、逆井が喜色満面で、わざとらしく揉み手をしながら振り返った。

「ただし、種類は選べませんから。支払う僕が独断で決めますので」

 いつにもない爽やか笑顔で篠沢が告げると、途端に逆井は顔を青くした。それに気付きつつも、篠沢は何食わぬ顔で研究室のドアに手をかける。

「ちょ、え、余計に喉が乾くやつとかホットドリンクとか振って飲むゼリーとか買ってくるつもりならやめろよ! いや飲み物は欲しいけどでもそれはやめろ! やめてください! 頼む! お願いします! どうか御慈悲をー!」

 デスクチェアの背もたれを、やたらとガチャガチャさせながら、逆井が必死に訴えた。しかし、篠沢は見向きもしない。

 そして廊下に出、静かにドアを閉める瞬間、

「せめて冷たいやつを……」

 篠沢の背に向かって、逆井が蚊の鳴くような声で呟いた。それは、二十六歳成人男子の、心からの懇願だった。

 熱のこもる人通りのない廊下で、篠沢は思わず声を出して笑った。その笑い声も、どこからか流れ込んでくる蝉の合唱によって、端から飲み込まれていった。

(続)

       
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