にわかぱんだ好きに興味ありません。(4)
篠沢を顎でダウンさせた人物は、伊奈理沙子。
中国に留学していて、日本に戻ったのはつい先月のこと。
本日より篠沢たちの所属する辻研究室に入るのだという。
今年で二十三歳だというが、篠沢にはとてもそうは見えなかった。
彼女の大きくゆるやかに巻かれた髪は、まるで三つ編みを解いた小学生のようだったし、前髪を留めているキャラクターのくっついたヘアピンなんて、それこそ中高生が愛用しそうな代物だ。
お約束のように童顔で、化粧をしていないわけではないようだが、それでも顔だけ見れば高校生だと言われても驚かないだろう。
なにより、篠沢の横に立つと頭ふたつ分は背丈が違う。
背丈が小さいだけならまだしも、これだけの要素が重なってしまえば、いくら彼女が特注のスーツをスマートに着こなしているからといって、誰からも歳相応に見られることはないに違いない。
そこまで考えて、篠沢はうんうんと一人頷く。
「あの人、一人で何かぶつぶつ言ってますけど」
「大丈夫だ。いつものことだから」
篠沢の視界の端で、伊奈と逆井はこそこそと会話している。
逆井をちらと一瞥し、
「室長」
握った拳を白衣の袖から覗かせれば、
「すみませんでした」
逆井は綺麗に四十五度、頭を下げた。
救護室で拳を交えたあと、篠沢たち三人は研究室には戻らず、その足で渡り廊下の自動販売機前に移動し、そこに陣取っていた。
救護室にいればおそらく存分に涼めるのだろうが、篠沢と逆井が場所もわきまえずに騒いだものだから、救護員に怒鳴りつけられ、慌てて飛び出してきたのだ。無人の研究室は今頃きっと、ぐらぐらと煮たった鍋のようになっているだろうから、学内で一番涼しいであろう渡り廊下までやってきたというわけだ。
「ちょっとアナタ」
伊奈がずいと篠沢の顔を覗き込む。
それからじろじろと、品定めをするように、上へ下へ視線を走らせた。
「な、なに」
思わずたじろぐ。
女に言い寄られた経験なら、篠沢には何度もある。しかし彼女には、これまで篠沢が出会ったどの女にもない、えも言われぬ迫力があった。
頭の先から爪先まで、背伸びをしたり屈んだりしながら、彼女は篠沢を観察している。何度か屈伸運動のようなものを繰り返したあと、篠沢の周囲をぐるぐると三回回った。
「わん?」
篠沢は思わず言った。彼女が自分の周りを犬のようにくるくる回るものだから。
すぐさま伊奈のきつい視線が飛んでくる。
これはいかんとばかりに、すぐに篠沢は明後日の方向を向いて、吹けもしない口笛を吹いた――口でピーピーと言っているだけだが――それでも吹き続けた。
逆井は先程からの二人の様子に、腹を抱えてのたうちまわっている。他に人目がないとはいっても、26歳の男がごろごろと転げまわっている様は、彼の人生の前途多難ぶりを伺わせた。
「わん、じゃないわよ。このハゲちゃびん!」
「え」
篠沢は素早く頭頂部を手で撫でた。まさかこの歳で薄毛に悩まされることになるのかと一瞬心配したが、触ってみれば何のことはない、毛髪は十分に備わっていた。ほっと息をつく。
「ハゲてないじゃないか」
ささやかに抗議すれば、
「言葉のアヤに決まってるでしょう」
さらっと流された。
「それより、アナタ、まるでダメね」
人の身体を隅々まで舐めるように観察した挙句の言葉が、それか。無抵抗でいたことへの感謝の言葉が贈られてもいいだろうに。
そう思いはしたが、伊奈に食ってかかるのは立派な自殺行為であると、篠沢の脳が判断を下した。
出来るだけ彼女を刺激しないように恐る恐る、
「ダメって、一体何が」
聞き返す。悪事を働いたわけでもないのに、篠沢は酷く萎縮していた。それは伊奈の言動が予想の範疇を超えていて、次は一体何が起こるのかと、恐怖に打ち震えているからだ。
普段見ている類の、頭が悪そうで露出度の高い女であれば、それなりに対処の方法もあるし、篠沢自身の経験から、それを知っている。だが伊奈は違う。篠沢が知っている種類の女ではなかった。いってしまえば彼女は新種だ。例えば、パンダだらけの山の中から、ある日突然白黒逆のパンダが現れたような――そのようなパンダが現れたところで、篠沢にとっては普通のパンダと同じく愛でる対象でしかないのだろうが――とにかく篠沢にしてみれば、彼女はそれだけ不可思議で底が知れない女に見えているということだ。
伊奈はじとりとした目で篠沢を見やり、そして大きな溜息をついた。
「ひとつもグッズを持っていないじゃないの」
「へ? グッズ?」
予想外の言葉。
てっきりまた、ハゲだの何だのと妙ないいがかりをつけられるのだと思っていただけに、とんだ拍子抜けだった。しかしこの言葉の意図を瞬時に理解しろと言われれば、それは流石の篠沢でも無理だろうが。
「パンダ好きを名乗る者が、そんな身だしなみではダメよ。許されないわ!」
伊奈はそう言うと、勢いよく自らのスーツの襟を掴んだ。全く気付かなかったが、よく目を凝らせばパンダの形のピンバッチが付いていた。
「まずはこれ、ピンバッチ! いつでもパンダを愛してやまない私には相応しい代物よ! WWCの公式グッズでありながら非売品という貴重な一品になっているわ!」
実は篠沢も同じものを持っていて、自宅に大切に保管していることなど、とてもこの場では口に出せなかった。というより、彼女の勢いは、他者が横から口を挟めるような生ぬるいものではない。言わぬが吉。篠沢はしばらく口をつぐんでいることに決めた。
「次はヘアピン! これはすごい、何と職人が精魂込めた七宝焼きパンダつき! さらに次は――」
伊奈の勢いは留まるところを知らない。
篠沢と伊奈の様子を伺ってはケラケラと笑い転げていた逆井でさえも、彼女のパンダグッズウンチクに飽きてきたのか、自動販売機の前に立ち、飲物を選んでいる。そういえば、元々は飲物を買うために研究室を出たということを、篠沢は今さら思い出した。
白衣のポケットを探る。――ない。パンダ型貯金箱から持ち出したはずの小銭が。
篠沢は、自慢のパンダグッズについて夢中で語る伊奈を差し置き、視線を自動販売機の周囲に走らせた。伊奈とぶつかったのはこの場所だから、もし小銭を落としたとしたら、同じくこの周辺だと考えるのが妥当であろう。
ゴト、と何かが落ちる音がした。
床に這わせていた視線を上げる。篠沢の目に映ったのは、炭酸飲料の缶を手に小躍りしている逆井の姿だった。先程の音は、自動販売機から缶が吐き出される音だったのだ。
そこでふと、篠沢の中で、突然全てに合点がいった。
すでに他者など眼中になく、宙を見つめながらうっとりとした瞳でパンダについて語り始めている伊奈の傍をすりぬけ、篠沢は逆井の前へと歩み寄る。
逆井は慌てて目を逸す。それは悪さをした子供が誤魔化そうとする様に似ていた。
「逆井真之」
篠沢が普段より低めの声で呼べば、
「ごめんなさいもうしません」
あっさりと罪を認めた。
篠沢が失神している隙に、落ちていた小銭を――もちろん篠沢のものと知りながら――自らの懐にしまいこんだのであろう。
「そうですか、分かりました」
言いながら、逆井の手の中から炭酸飲料の缶を奪い取る。名残惜しげな顔をする逆井は気にも止めず、篠沢はまるでカウンターの中でシェイカーを振るバーテンダーのように、手に取った缶をシェイクした。
「ああ、なんてことを!」
逆井が悲観の声を上げた。
このまま缶を開ければどうなるか、子供でも分かることだ。
けれど逆井は、これから自分がどうなるのか、分かるはずもない。
篠沢は素早い動きで、逆井の顔に缶を向け、そしてプルタブを引いた。
傾きかけた太陽でオレンジ色に染まった校内に、逆井の断末魔が響きわたる。その声に反応して、遠くの方でカラスがカアカアと鳴いた。
「ちょっと、人の話聞いてるの?」
拗ねた口調で、伊奈が言う。仁王立ちになって、騒ぐ二人を睨んでいた。
逆井の白衣は、茶色くべたべたとした液体で汚れている。
篠沢は、いまだ缶を構えたまま。
「そういえば、僕のパンダ好きを彼女が何故知っているんです」
持っていた缶を、マイクの様に逆井の口元に向けた。
「俺が教えた」
間髪入れずに逆井が答えた。
思わず、偽マイクを握る手に力がこもる。乾いた音を立てて、それは潰れた。
「私の話を聞きなさーい!」
伊奈が吼える。
二人の男は視線を合わせた。
そして篠沢が、おもむろに白衣を脱ぐ。
今日白衣の下に身に付けているのはただのTシャツだが、それでもその中心には勿論、
「何これ可愛い! 私もこのシャツ欲しいよう!」
当然の如く現れたパンダのプリントTシャツ(自作)。それが視界に入るやいなや、流行のスイーツに飛びつく女子高生並のスピードで、伊奈が食いついてくる。少し大人しくなりはしたが、幾分うっとおしさが増したような感が、篠沢にはあった。
夕闇が迫り、三人の影が長く伸びている。
二人分の、大きな溜息が廊下に広がった。
篠沢は一人、心の中で呟く。
松虫が鳴き始めるまでに、帰宅できればいいのだが。