掌編
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「きみが壊したんだ」 かつて自分自身が立っていた場所を、その男は焦点の合わぬ目でぼうっと眺めていた。 僕はそんな彼の背後に静かに立ち、その耳元でそっと囁いた。 彼は振り向かなかった。ただ、背筋を…
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吹き上げてくる風が鉛のように重い。深く息を吸えば、どろりとした陰気な空気が肺を満たす。元より気怠かった体が、一層重鈍に感じられた。けれどそれとは裏腹に、膝から下は羽のように軽い。それだけが、今の私に…
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アスファルトの敷かれた道路の上で、カエルが死んでいた。情けなく手と足を広げた格好で、ぺしゃんこになっていた。車に轢かれたのであろう。口からはピンク色の内臓が飛び出していたが、それも体同様に潰れている…
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黒霧漂う地平線。そこから広がる空は、群青、茜色を挟み、突き抜ける青、そして目映い金色を同時に湛えている。 大地を覆う温かな土の上に走る濃緑。それは溜まった雨水が腐り果てた末に生じた色だ。双方の色が…
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私が初めて喫茶店というものに入ってみた時、そこの主人はあからさまに嫌そうな顔をして「イヤホーンは外してくれないか」と告げた。 その言葉に、自然と眉根が寄った。 「イヤホーンなんて、してませんよ」 …
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錆びついた鉄扉の鍵穴に、同じく錆びつき今にも折れそうな鍵を差し込み、素早く回した。かちゃりと軽い音がし、作業服の男はノブを回して手前へ引く。 「うわっ」 開いた扉と一緒に、真っ赤な塊がごろりと転が…
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大事な大事な私の人形。 大きく大きくお口を開けて。 小さな小さな胡桃を咥えて。 そぉれ、いちにいの。 さん。 * * * 小さな町の、秋の夕暮れ。傾きゆく真っ赤な太陽が、少女の影を大きく映しだす。恐…
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今年の夏、妻と離婚した。役所に届けを出したのは、丁度結婚十年目の記念日のことだった。 原因は明らかに僕にあった。毎日、毎日、仕事のことだけを考え、家庭のことなど省みたこともなかったのだ。ただ、妻と…
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しんと冷えた夜の空気が、開け放った窓から流れ込み、私の体を包んだ。肺の奥まで凍えるような外気は、ぬるま湯に浸かったようにぼんやりと浮かれ現実感を失っていた私の脳を、すぐに覚醒させてくれた。覚醒すれば…
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七月七日、七夕の夜。 空に眩く輝く天の川に祈れば、願いが叶うという。 幾多の星が帯状に並び、そうして成された大河を眼前に望みながら、織姫は大きく溜息を吐いた。 織機の椅子に腰掛け、細く白い足をぶ…