仕事

 錆びついた鉄扉の鍵穴に、同じく錆びつき今にも折れそうな鍵を差し込み、素早く回した。かちゃりと軽い音がし、作業服の男はノブを回して手前へ引く。

「うわっ」

 開いた扉と一緒に、真っ赤な塊がごろりと転がり、作業服の男が思わず声をあげる。血の臭いに吐き気が込み上げたのか、堪えるように腕で口を抑えた。

「――二〇七号、死亡確認」

 その後ろで、白衣の男が事務的に呟き、手にしていたノートに何かを書き記した。ちらと室内の状況を確認し、作業服の男の肩を叩いた。

「後は任せる。私はこれで」

 それだけ言い残すと、白衣の男は一人で立ち去っていった。残された男は、まじかよ、と小さな声で漏らし溜息をついた。

 男は掃除屋として雇われているが、一体ここが何の施設で、二○七号と呼ばれたこのモノが何なのかさえ知らされていない。男自身、深入りしないことが条件で高給を受け取っている立場なので、尋ねようとも思わなかった。ただ、今日のように時折任される死体の処理のことを考えると、法律でどうこうできない、極めてアンダーグラウンドな施設であることは男にも予想がついた。

 男は、足元に転がっているものに仕方なしに視線を落とした。

「任せるって言われても……ね」

 酷い有様だ、と男は思った。二〇七号は、扉にぶつけて自ら頭を割ったのだ。扉の内側にもそれを証明するようにべっとりと血が付着している。濃密な鉄錆臭に紛れて、鼻につく饐えた臭いが漂う。これは不衛生な室内全体に染みついた臭いだった。部屋の真ん中に敷かれた布団の周辺に、丸まったティッシュペーパーがいくつも転がっている。

「はっ、ますます最悪な現場だな」

 言って男は肩をすくめた。

 血を避けて、床にひざをつく。薄いゴム手袋をはめた手で心の無い合掌をしてから、血だらけのそれに手をかけた。

「よっ……ん? こいつ……」

 僅かばかり持ち上がったその死体に、男は違和感を覚えた。何かがおかしかった。あるべきものが、この死体にはない。

「あ……」

 足りないものに、男はすぐに気が付いた。

(脳味噌か)

 二○七号のざくろのように割れた頭蓋の中からは、血は溢れているものの、本来そこに収まっているべきものが出ていない。抱え上げかけた死体を一旦床に戻し、男は部屋の中を覗いた。

 探しものは、すぐに見付かった。扉からもっとも遠い部屋の隅に、それは落ちていた。男の遠目からでもピンク色の白子のようだと感じた。 

 男は二○七号と広がった血の海を飛び越え、室内に入った。排泄物の臭いと血の臭いが混じった酷い悪臭が男を襲う。堪えきれず、男はその場に嘔吐した。吐瀉物がびちゃびちゃと床を汚す。逆流した胃液で喉が痛んだ。作業着の裾で口元を拭う。これすらも自分で片付けなければならないことに辟易としながら、男は目的のものへと歩み寄った。

 ねっとりとした粘液をしたたらせながら、それはいた。いたのだ。確かにいた。蠕いている。艶かしいほどのピンク色をしたそれの表面に張り巡らされた細い血管に血液が循環しているのを、男は見た。見てしまった。それ以上体は動かなかった。声も出せなかった。いや、恐怖で出すことができなかった。

 男の目の前で、それは跳んだ。男に向かって、跳び上がった。男は思わず固く目を閉じた。殺される、と直観した。手も足もない脳味噌に殺されると思ったのだ。

 べちょ、と何かが潰れた音がした。

 男がまぶたを開けると、目の前にはノートがあった。何の変哲もない大学ノートだ。そしてノートを持つ手。それを目線で追った先には、いつの間にか白衣の男が立っていた。

「これしきのことで、手を煩わせないで頂きたい。……では」

 何事もなかったかのように涼しい顔で白衣の男は言い、ノートを床に放り投げると、すぐに部屋を出て行った。

 体から力が抜け、作業着の男はその場にへたり込む。目の前の床には先ほどの脳味噌が落ちていた。見る影もなく潰れている。子供に魚の白子を与えたら箸で弄んでこんな風にぐちゃぐちゃにしてしまうだろうな、と男はぼんやりと思う。放られたノートの裏表紙には、ピンク色の粘液が付着していた。

「これも、仕事かよ」

 溜息混じりの男の呟きは、もう誰にも聞こえていなかった。

(了)

       
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