有意義な怠惰

 海田の暮らすアパートまでは、徒歩十分ほどだった。大学からもさほど離れていないから、学生が住むには好立地の物件といえる。その外見はやや古びていて、白い壁が排気ガスのせいで灰色に燻んでいた。三階建てのその建物まで、海田に先導されるように、真木は歩いた。常時付きまとう気怠さのため、のったりとしか動けない彼に、海田が歩調を合わせていたせいなのか、さほど遅れをとることなくアパートに到着した。

 アパートの前で少し立ち止まった海田は、真木をちらと振り返り「三階なんです」と言って肩をすくめる。さすがに真木も、階段では平地のようにはいかず、彼が住む部屋の前に辿り着くために、随分と時間を費してしまうはめになった。先に階段を昇りきった海田は真木に手を貸すこともなく、真木の到着を部屋の前で待っていた。

「どうぞ」

 ようやく追い付いた真木を、海田は部屋の扉を開け、先に入るように促した。疲れきっていた真木は、指示されるままに部屋へと入る。

「奥へ」

 玄関スペースの前には簡易なキッチン設備がある。その右手には、六畳ほどの洋室。中央には木製のローテーブル。奥の壁際にはベッドが置かれていた。台所から向かって正面の壁には窓があるが、カーテンがひかれている。少しだけ開いたその隙間から、僅かに光が漏れていた。

 真木は言われた通り、靴を脱いで奥へ進む。しかし、フローリング敷きの六畳間に入ると、すぐに立ち止まった。座るべきなのか、このまま立っているべきかを悩んだのだ。

「座っていいですよ。床……は、だめかな。ベッドにでもかけてください。今コーヒーを淹れますから」

 背後から海田に言われ、その通りに真木はベッドの上に腰をおろした。途端、唇の隙間から深い溜息が勝手にこぼれる。

 真木のいる位置からでは台所の方はよく見えないが、海田が言葉通りコーヒーを淹れる準備をしているのだろう。棚を開ける音や、食器の音が聞こえた。

 真木は、うろうろと部屋を見回した。初めて来る場所は、どうしても落ち着かない。自分の居場所とは違う匂いがするからだ。

 正面の壁際に、二段のチェストがあった。その上に衣類が乱雑に積み重なっている。テレビはないようだ。代わりとばかりに、部屋の角にはコンポが置かれていて、そこに接続されたヘッドフォンが無造作に床に転がっている。コンポの隣には、山積みされたCD。ローテーブルには、教科書の類が重ねられていた。ベッドから見て右手の壁には、もうひとつ扉がある。浴室やトイレであろう。

 男の部屋だ。ごく当たり前の感想を、真木は抱いた。真木の部屋と、さほど変わりはしない。敢えて違いをあげるとすれば、真木の部屋はもっと乱雑だった。悪く言えば荒れている。

 そういえば、大学に入ってからろくに片付けもしたことがない。そんなことを思い出す。けれどきっと、片付けることなどないだろう。部屋に帰れば、いつも泥のような眠りに落ちるだけだ。そして目を覚ませば、タバコを吸ってまた部屋を出る。部屋の外でやることといえば、講義の受講と、バイトに、サークルの飲み会。あとは、そこで知り合った女と戯れにするセックスぐらいだ。ただ周囲に流され、怠惰に浸る。大学に入ってから、ずっとそんな生活を続けていた。

「くそ」

 海田に聞こえないように、忌々しげな呟きを漏らす。明確な対象を持たない苛立ちが、真木の胸中にせり上がってくる。

 ジーンズのポケットからタバコを取り出し、そこから一本抜き出した。それを元の場所にねじ込み、代わりにライターを摘む。タバコを口に咥える。それだけで、少し落ち着いた。火をつけずとも僅かに漂う慣れた匂いこそが、真木にとっては鎮静剤であった。

 ライターを擦る。舌打ちに似た音がした。しかしなかなか点火しない。見ればオイルが少なくなっていた。躍起になって、指を動かす。何度かそうしているうちに、ようやく火が点る。金属部品にあいた穴の上で揺らぐ小さな火を確認すると、肩からどっと力が抜けた。そこにタバコを近付ける。火はすぐにタバコへと移り、たちまちに細く紫煙が立ちのぼった。

 深く吸う。体内に、脳内に、じわりと広がっていく灰色。すべてが塗り潰されていくその感覚は、安堵に似ていた。

 舌を刺激する心地よい苦みに、うっとりと目を伏せる。

 しかしすぐに、

「真木先輩」

 彼を呼ぶ低い声が、真木を現実へと引き戻す。

 洋間の入口に、海田は立っていた。手には縞柄の入ったカップを持っている。そこからうっすらと湯気が上っていた。その中身は、きっと褐色の液体だ。

 狭い部屋の中で、ゆっくりと海田がベッドへと歩み寄る。その姿から、真木は目をそらすことができない。否「目をそらすことは許されない」と感じた。海田の目が――獰猛さを秘めたあの獣の目が――そう語っていた。

 タバコを吸っているにもかかわらず、指が震えていた。

 海田がテーブルにカップを置いた。カップとテーブル面が接触した際、こん、と軽い音が鳴る。その音に、真木の心臓が一際大きく脈打った。

 カップから離れた海田の手が、そのまま真木の口元に伸びていく。そうして指先でタバコを摘むと、真木からそれをそっと奪った。真木は身じろぐことすらできなかった。

 海田は真木から奪ったタバコを、徐に咥えた。その瞬間海田の目が、昏い輝きを宿す。その奥に、物憂げな色が揺らいでいる。カーテンの隙間から射し込む陽光で、その肌の白さが、額にかかる栗色の髪が、タバコの火の赤が、それぞれ強調されて真木の視界に映り込んだ。

 すう、と微かな呼吸音。しかしすぐに海田は摘んだタバコを口から離し、真木に届かない方向へと紫煙を吐き出した。それでもふわりと鼻をかすめる、心身に馴染んでいるはずの匂いが、何故か少しだけ、違うもののように感じられる。

「禁煙、ですよ」

 窓の方を向いたまま、海田は横目で真木を捉えた。そして意味ありげな微笑を、その口元に浮かべる。彼の目の奥に潜んでいた憂いの色は、すでに消えうせていた。

 タバコを摘んだ海田の指先が、不意に動かされる。真木の視線が無意識にそれを追った。

「あ……」

 そしてその行く末を目撃し、思わず声が漏れた。

 タバコはテーブルへと押しつけられて、じ、という短い音とともに潰れてしまった。焦げ臭さが僅かに漂う。まだ半分も減っていなかったタバコは、ひしゃげて小さくなってしまった。

 テーブルの上で転がるタバコの吸殻に、真木の視線は注がれていた。だから気付けなかった。迫る、その気配に。

 左の手首を、強く掴まれていた。声を出す暇も与えられなかった。僅かに眉をひそめた、その瞬間だった。

 視線がぶつかる。

 獣がすぐそこに迫っていた。

 ゆっくりとその目が伏せられる。

 彼がタバコをくゆらせた時のそれと、よく似ていた。

 唇に、柔らかな感触。

 タバコの匂いに混じる僅かな違和感に、体の芯が戦慄く。

「同じ味」

 離れていく唇が、吐息のように囁く。耳朶をうつ粘度の高いそれは、真木の頬を羞恥に染めあげた。

「ふ、ざけん――っ」

 真木があげた抗議の声は、すぐに飲み込まれる。そして再び真木の唇は、同じ男の唇によって塞がれていた。今度は軽く触れるだけではなく、もっと深く。歯列をなぞるようにして差し入れられた、まるでそれ自体が意思を持ったかのようにうごめく舌が、真木の口腔内を侵略する。たまらず真木はきつく目を閉じた。

 その侵略者の持つ圧倒的な熱を、真木は自身の内部でつぶさに感じていた。からめとられた自身の舌が、口腔壁が、蜜のように甘く溶けていくような感覚。視覚を断ったが故の鋭敏さが誘い込んだ官能の迷宮へと、自身ではそうと気付かぬうちに、真木は足を踏み入れてしまっていた。

 その証拠に、掴まれていた手首は既に開放されているというのに、真木の頭にはもはや抵抗しようなどいう考えは一切浮かばないのである。

 海田が、体重をかけてくる。海田の腕が真木の腰を支えるような形で、ふたりは唇を重ねたまま、ゆっくりとベッドに倒れ込んだ。

 首筋に、冷たいシーツの感触を感じる。そこから、知らない匂いがした。タバコの匂いの奥に混じっていた違和感と同じものだった。

 唐突に、何の余韻もなく唇が離れていく。真木の舌が、無意識にそれを追おうとしていた。薄目を開けると、海田が赤い舌でその唇を拭っているのが見えた。

「良かった。ヘビースモーカーみたいだから、心配してたんですよ」

 海田はベッドに横たわった真木を見下ろしながら言う。真木はそれを、何の気なしに聞いた。視界が少しぼやけている。

「な、ちょ……っと………っ」

 ジーンズ越しに下半身に施された刺激に、真木の腰が僅かに浮き上がる。

「それどころか――敏感なぐらいですね」

 海田が触れたそこが、真木の知らぬうちに、少しばかり熱を帯びていた。くすくすと揶揄するかのような笑い声が、真木の耳に届く。

「三千円で参加する飲み会より、もっと有意義なこと、しましょう」

「なに……って……」

 今の真木が、海田の言葉を理解できるはずがない。海田によって蹂躙され尽くした口腔が、酷く熱かった。そこから生じた甘い痺れが、毒のように、真木の全身を駆け巡っている。

「先輩もきっと気に入りますよ。下らないサークル活動なんかより、ずっと、ね」

 海田は真木の耳元に唇を寄せ、囁いた。脳に直接舌を這わされているような錯覚に陥る。遠くで、じじじ、と鈍い音。ジッパーを下ろされているのだと真木が認識しないうちに、直接的な刺激が、下腹で息づく甘い熱を捉えた。

「ぅ、ふ……ぁ」

 先程タバコを摘んでいた指先が、タバコとは比較できないほどの質量を持ったそれを挟み込み、ゆるゆると擦りあげた。自分自身や、行きずりで寝た女がそこに触れる時とはまるで違う、痺れを伴う蕩けるような快楽が込みあげてくる。そこが徐々に硬度を増していくのが、嫌でも分かった。

「ぁ、なん……で――、っは、こん、な……っ」

 男であれば誰しも抗いがたいその感覚に、真木はあえて反抗したかったわけではない。ただ、理由が欲しかっただけだ。新たな惰性に身を委ねる理由が。海田なら、それを教えてくれるような気がしていた。

 快感によって溢れ出す形にならない声で紡ぐ真木の言葉は、もはや嬌声と変わりない。

「知りたくなりました? 僕のこと。さっきまでは、興味なさそうだったのに」

 顔にかかる海田の息が燃えるような温度を真木に伝えた。ふたりの唇から漏れた吐息が互いの間で混じり合い、渦を巻き、そこだけが熱帯の気候を擁しているようだ。海田の唇が、真木の上気した頬に、目尻に、軽く落とされる。

「――僕、真木先輩のことが好きなんです」

「ぅあ……っ、ぁ、っく……」

 海田は淡々とした告白をしながら、真木の胸元へと、その顔ごと視線を移す。左手の指先で膨張する欲塊をなじり、そして真木がジャケットの下に身に着けていたTシャツを、右手で捲りあげる。

「一目惚れってやつですね」

 言いながら、しかし海田は真木の顔を見ない。筋肉の薄い胸から腹にかけて、ぞろりと舌が這う。

「へ、え……、っぁ――」

 真木が捻り出した素っ気ないその返事をどう感じたのか、海田はまたくすくすと笑った。息づかいが腹部に触れるその感覚すら、即座に官能へと変換される。

「あ、……んぅ……ふ、ぁあっ」

 下腹の熱塊を弄ぶ動きが淫猥さを増し、真木は女のように嬌声をあげた。

 流されている。この男に、支配されていく。霞がかかったような頭で、真木は朧ろげながら思考する。

 潤んだ視界の端、ベッドサイドに置かれたローテーブルが、カーテンの隙間から射し込んだ午後の陽光によって柔らかく照らされていた。目を閉じれば、微かなタバコの匂いに混じって、コーヒーの香りがふわりと感じられる。

 テーブルは、焦げてしまったのだろうか。 

 コーヒーは、もう冷めてしまっただろうか。

 僅かほど残された正気で、真木はそんな些細なことを思った。

 そしてそれを最後に、欲望の衝動に心身を委ねる。

 ――海田との熱帯夜に似た交合から真木が解放されたのは、西陽で部屋が茜色に染まってからだった。

 次の日、真木は一日中落ち着かなかった。

 午前中、アパートの自室にいてもなんとなく居心地が悪く、珍しく室内を少し片付けた。午後からは受けるべき講義が二コマほどあり、大学を訪れた。講義の前も、その合間にも、真木はあの薄暗い日陰の喫煙所に足を運ばなかった。そもそも、あんなに手放せなかったタバコを、今日はどうしてか部屋に忘れてきていたのだ。その口寂しさを、自動販売機で購入した缶コーヒーで埋めようと試みたものの、しかし真木が求めたような充足感は結局得られなかった。

 講義が終わってから、校舎を出るなり、真木は携帯電話を確認した。着信が一件。所属する話術研究会の会長からだった。表示されている時刻は、ほんの数分前。リダイヤルボタンを押すと、受話口から単調な呼び出し音がすぐに聞え始める。そして、それは二三回で鳴りやんだ。

『あんた、連絡くらいしなさいよ。飲み会の件、ちゃんとやったんでしょうね!?

 耳が痛むような、ヒステリックな女の金切り声。それが厭らしいほど赤く塗られたあの唇から発せられているのだと思うと、それだけで胃の奥がむかむかとした。

『ちょっと聞いてるの、ねえ――』

「俺、サークル辞めます」

 真木は吐き捨てるようにそれだけ言うと、

『は? 何言って』

 彼女の言葉を全て聞き終わらない内に通話を終了させた。そのまま電源を落とす。途端に肩が軽くなる。

 携帯電話をジーンズのポケットにねじこむと、唐突に、コーヒーの香りが欲しくなった。真木の足は、すぐにその目的の下に動き始める。

「いらっしゃいませ」

 目的の場所に入るなり、昨日と同じ店員が、真木に声をかけてきた。周囲を見渡す。もう夕方ということもあり、少しばかり客はいるが、それでも昨日ほどの混み具合ではない。ちらほら空席もある。時間帯のせいか、学生よりも家族連れが多い印象だった。

「喫煙席と禁煙席、ございますが」

 店員が真木に尋ねた。「禁煙」と真木は答える。けれどその視線は、行くべき場所を既に捉えていた。

「ではこちらの――お客様?」

 席へ案内しようとする店員をまたも無視し、そこへと向かう。店内の奥、隅の禁煙席へ。

 昨日と同じテーブル。そこには昨日と同じように、コーヒーが注がれたカップがひとつ置かれている。そこに座っていた彼は、ちらと真木を見て、カップを手に取り、コーヒーを啜った。教科書の類は、今日はテーブルの上にない。彼は午前中の講義しかないのだと言っていた。真木もまた彼に、今日は午後だけなのだと伝えている。けれどここで会う約束など、ふたりは交わしていなかった。

 香ばしいコーヒーの匂いが、真木の鼻腔をくすぐった。たったそれだけのことで、体の芯が、じん、と痺れる。頭の中がどろりと蕩け、蜜のようなそれらが思考をからめとり、そして鈍らせていく。

「真木先輩」

 テーブルのそばで呆けたように立ち尽くしていた真木に、彼は声をかけた。ゆっくりと、その目を見る。獣の色が、そこに既に宿っていた。真木は、彼の目が、虚ろに揺らぐ瞬間を想像する。ぞう、と背筋を駆け抜けるものがあった。

「それじゃあ今日も、有意義な時間を過ごしましょうか」

 彼はそう言って、席を立つ。

 真木は、自身に向けられた彼の言葉に、喉を鳴らして唾を飲み込んだ。

 返事はしない。ただ、彼の目を見て、真木は小さく頷いて見せた。

(了)

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