有意義な怠惰

 この場所には、いつだって陽が当たらない。真木が訪れる度、ここは四階建てコンクリート造りの校舎が作り出す、長い影で覆い隠されていた。

 歩道の脇には芝生が植えられていて、五月ということで花壇にはちらほら花も咲いているが、しかし陽光とはほとほと縁遠いこの裏庭の植物からは、活力をほとんど感じられない。艶のないそれらは、ただ惰性でそこにあるだけなのだと誰の目にも明らかであった。

 この陰気な場所を訪れるのは他でもない、禁煙志向が高まった今日では肩身の狭い思いを強いられる喫煙者たちだ。かつては何カ所もあった大学内の喫煙所は今はほとんど撤去され、そこにあった多人数用のスタンド灰皿は半分ほどが廃棄。そして残りの半分が、ここに集められていた。

 喫煙者は、この場所にすっかり染み付いたタバコの匂いに安堵しつつ、しかし日光が当たらないが故に胸中に浮かぶ、それぞれの苛立ちや不安、焦燥感によって、みな揃って芝や花と同じようにうなだれる。それは、この真木という男にとっても、例外ではなかった。

「じゃあ、一年生への声かけはあんた頼むわね。会費は三千円。先払いで徴収しといて」

 木製のベンチに腰を下ろしたその女は、自身の前でタバコをふかす真木にちらとも目をやらず、代わりに派手なつけ爪をした指先を滑らせるようにして、スマートフォンを操作していた。その合間に気怠げな動作で、きつく巻かれた不自然に茶色い髪をかきあげる。彼女が足を組み替える度に、明らかに男に媚びた丈のスカートから下着が見えそうになっていたが、真木はあえて何も告げなかった。この安っぽい行為すべてが、彼女にとっては男を釣るための常套手段に過ぎないことを、彼は既に嫌というほど知っていたのだ。

「りょーかいっす」

 紫煙を吐き出しながら、こちらもまた気の抜けた調子で返事をした。同じようなやりとりを、これまでもう何度となく繰り返している。真木はただ彼女に言われた通りに動けばよかった。そうしておけば、何回かに一回くらいの割合で、そこそこの女をあてがってもらえるからだ。

 彼女は、話術研究会というサークルの会長だった。真木もそのサークルの一員だ。入学式の日に、たまたま最初に声をかけてきたのが勧誘中の彼女だっただけで、特段このサークルに興味をもったわけではなかった。やりたいことはこれから大学に通ううちに見つかるだろうと、怠惰ともいえる受動的さで構えていた真木が、他人を使うことに慣れた異性の、その巧みな話術に抗えるはずもなかった。結局真木は彼女に誘われるまま、話術研究会に籍を置くことになったのである。

 話術研究会は、大学非公認のサークルだ。従って部室はない。「円滑な人間関係を形成するためのTPOに合った話術研究」がサークルの活動目的とされているが、その実はただコンパを繰り返すだけの、研究会などとは名ばかりの存在であった。入会後に実態を知った真木は、初めは軽い嫌悪を覚えることもあったが、しかしだからといって「辞める」などと言い出すのも面倒で、結局三年生になる今まで在籍し続けている。

「そうだ、あの子は絶対連れてきなさいよ」

 横に置かれていたハンドバッグに、無造作にスマートフォンを投げ込んで、ふと思い出したように女がそう口にした。赤い唇が、にい、と歪み、その企みをあからさまに臭わせる。

「あの子?」

 ちら、とその顔を一見して聞き返す。醜い、と真木は思った。気付かれないように眉根をしかめる。そばの灰皿に、吸いさしのタバコを乱暴に押し付けた。火の消えた先端が潰れ、茶色い内容物が鈍く汚れた銀色の上に散る。

「あんたが連れてきた一年生よ。確か……海田くん」

「ああ」

 言われ、合点する。

 海田は、真木が勧誘した一年生だ。勧誘――と表現すると、語弊があるかもしれない。正確には、真木が海田を誘ったのではなく、海田から、サークル勧誘中の真木に声をかけてきたのだ。

『すみません、あなたの話を聞かせてください』

 四月一日。校門近くで、真木がサークルのビラを手にして新入生を物色していたところに、海田はそう言って近付いてきた。彼が身に着けていた真新しい濃いグレーのスーツから、入学式を終えたばかりの新入生であることは真木にもすぐ察しがついた。

 話術研究会の新入生勧誘には、ノルマが課せられていた。最低三人は入会をとりつけるように言いつけられていたのだ。だから真木は、自分に似た新入生を探していた。入学式当日にもかかわらず、揺らぎと淀みをその目に湛え、流動的かつ受動的に行動しそうな人物。

 しかし海田は、真木が望んだ人物像とはまるで正反対の男だった。能動的で、社交的。強い光が灯ったようなその目からは、真木が求めた浮き草のような危うさは微塵も感じられなかった。

 その男に、頭から足の爪先まで、流すような視線を向ける。はっきりした目鼻立ち、やや色素が薄いと見える肌や目の色から、ハーフかもしれないな、という印象を真木は抱いた。しかし輪郭を描く線の細さとは裏腹に、スーツに隠された上半身は、やや張ったように映る。それは明らかに筋肉の張りだった。それを踏まえて手足の裾丈を確認するが、スーツのサイズが合っていないようには見えなかった。身長は、真木よりずっと高い。

『ああ、説明? うちのサークル、話術研究会ってんだけど――』

 もう一度、その男の顔を確認した後、手にしていたチラシを差し出しながら、そこに目を落とす。狙った人物像の学生ではないにしろ、それ以上に、真木にとってはどれだけ苦労せずにノルマを達成するかの方が重要だった。

 説明の甲斐あってか、海田は話術研究会に入会することになった。ノルマの残りは、元々考えていた通りの学生を捕まえることで、適当にこなした。

 その海田を、この女は次のターゲットに選んだらしい。先走る妄想で今にも舌なめずりしそうな表情をして、彼女は真木にようやく視線をやった。欲望の対象は自分ではないと理解しながらも、彼女を直視することは憚られた。それとなく目をそらす。それに気付いたのか、女は、ふん、と鼻を鳴らした。

「他は別にどうでもいいわ。でも彼だけは必ず連れてきなさい。いいわね?」

「はあ、ええ」

 真木の至極投げやりな返事もろくに聞かぬまま、ハンドバッグを下げ、彼女はさっさと日の当たる場所へと去っていった。

 彼女の姿が視界から消え去ってから、真木は小さく溜め息を吐く。そして新しいタバコを一本取り出してから、安っぽいライターで火をつける。口に咥え、吸う。じじ、と微かな音をたて、見えない火がほんの僅かだけ口元へと近付いた。

頭に、胸に、もやがかかったようになる。すべての感覚の上に灰色のペンキをぶちまけられたようなこの不明瞭さが、真木にとってはかえって心地よかった。

「あー……」

 天を仰いで、青い空に向かって煙を吹きつける。それに続いて間延びした声が漏れた。

 この日陰には、真木の他にもちらほらと人の姿がある。しかし誰も真木の方を見ようともしない。そしてまたその誰もが例外なく、どことなく疲れたような表情を浮かべているのだった。

 真木は、先程まであの女が座っていたベンチに腰を下ろした。そしてジャケットのポケットから取り出した、あちこちメッキが剥がれた折り畳み式携帯電話を開く。

 サークル会員の電話番号は、大体この中に登録されている。メンバーの召集などの面倒な仕事を彼がやっているためだ。

 のったりとした動作で、キーを押す。電話帳で呼び出した「か行」の一番上に、その名前はあった。

『海田大輝』

 機械的に、選択。通話ボタンを押す。呼び出し音を確認して、再びタバコをふかす。ざらつくような苦みが舌に広がっていく。

『――はい』

 五回目のコールの後、海田の声が真木の耳をうった。電話の向こう側が、やけに騒がしい。

「あー、俺。分かる? 同じサークルの真木だけど」

 自分の電話番号だって教えているのだから、海田だって誰からの電話かぐらい当然分かるはずだ。けれど、これが真木の癖だった。誰に電話をかける時もそうだ。必ず名乗る。「自分のことなどどうせ忘れられているだろうから」と思ううちに、自然と身についた習慣だった。

『勿論、分かりますよ。真木先輩。――今日は、何か?』

 落ち着いた調子で、海田が応えた。

「ああ、実は……」

 真木は、飲み会に参加して欲しい旨を手短に伝える。

 飲み会への参加は、決して強制ではない。バイトや所用で参加できないメンバーだっている。しかし親睦を深めるための飲み会というより、実質は合コンに近いので、事前に顔ぶれを決めておかなくてはいけない。サークルメンバー以外の参加者は、会長がよその大学から集めてくることになっていた。

『そうですか』

「つーわけで、よろしく頼むわ」

 指先に挟んだタバコの先で、ふらふらと灰が揺れている。

『先輩には申し訳ないですが、嫌です』

 ぽとん、と、地面にタバコの灰が落ちた。

「……はあ?」

 予想外の返答だった。海田は断るはずがないと思っていたからだ。何しろ、このサークルに進んで入ってきた人間だ。それに、既に新入生歓迎会は済ませていて、このサークルの実態だって彼はきっと気付いているはずだと、真木は見ていた。

「なんでそうなるわけ? 金がねえの?」

 真木の問いに、

『まあ、そんなところです』

 海田は曖昧に答えた。

 タバコを地面に落とし、靴底で踏みつける。

「そんなところ、じゃねえよ。たった三千円でいいんだって」

 思わず立ち上がっていた。面倒なことになった。そう思っていた。

『それでも、行きません。それに――――ですから』

 下品な笑いが、電話口の向こうから聞こえてくる。それに混じって、かちゃかちゃと金属が触れ合う音。よほど周囲が騒がしいのか、それとも電話の相手の声が小さいのか、ともかく海田の声はかき消され、よく聞き取れない。

「あーもう、聞こえねーっての!」

 段々と苛立ちが募ってくる。万事つつがなくといかなくとも、適当に面倒なく物事をこなしたいだけの真木にとっては、これは最大の誤算だ。彼を説得せねばならなくなっただけでも煩わしいことなのに、その説得のための通信手段さえ満足ではない。

「もういい、そっち行くし。今どこだよ」

『そうですか。わかりました。場所は――』

 電話での説得を諦めて、真木が尋ねると、海田は明瞭な声で自らの居場所を答えた。先程までの雑音は、確かにまだ彼の背後にある。しかし彼の声は、それらより「はっきりと大きく聞こえた」のだ。

「くそ、何なんだよ……っ」

 それは海田の嫌がらせとしか思えなかった。理由は分からない。分かるはずもない。通話を終えた携帯電話を折り畳んで、力を込めてそれを握り締める。それだけでは発散しきれなかった怒りを、地面の上で潰れたタバコを更に踏みつけることで、何とか押し殺す。

 この場所に来て三本目になるタバコを、真木は取り出した。指先が震えていた。ライターを擦る。百円で売られている、ちゃちな作りのライターだ。タバコに火がつくと、真木は急いで吸い口を唇に挟む。

 足を、ふいと動かした。そこには靴底に二度潰されたタバコの残骸がある。それにまた、苛立った。

 真木は咥えタバコのまま、その場にしゃがんで潰れたタバコを指先で摘んだ。そしてスタンド灰皿にそれを投げ入れる。

 そしてようやく、咥えたタバコを深く吸った。不明瞭で彩度の低いもやが、真木の体を侵食していく。そうすれば、彼の震えはたちまちぴたりと治まるのだった。

 海田がいたのは、大学近くのファミレスだった。入口で、制服を着た女店員が「ただいま混み合っておりまして」と頭を下げたが、それを無視して真木は店内に視線を巡らせた。

 広い店内の一番奥、隅の禁煙席に目的の顔を見つけ、そこへと足を向ける。客は多いが、相席をしなければいけないほどではないらしい。四人掛けと思われるその席に、海田はひとり座っていた。テーブルの上にはコーヒーカップと、テキストのようなものが数冊置かれている。

「ああ、先輩。遅かったですね。大学にいたんじゃ?」

 テーブルを挟んで海田の対面に、真木は腰をおろした。自身に向けてかけられた言葉に、内心むっとする。

 電話を終えてからこの場所に赴こうとするまでに、真木は結局さらに二本もタバコを吸ってしまっていた。大学の敷地内のどこにいたって、ここに来るために、真木のように一時間も要することはない。

「うっせえよ」

 ぼそりと呟いて、真木はタバコを取り出そうとする。そこでテーブルの上に灰皿がないことに気付いて、舌打ちをした。その時に丁度、店員がオーダーを訊きに来たものだから、真木は不機嫌さを押し出した声色で、素っ気なくあしらった。店員は、冷水だけを真木の前に置いて、逃げ出すように去っていく。その様子がまた真木の不愉快を掻き立てるが、しかしタバコを吸うわけにもいかず、しかたなしに運ばれてきた水を一気に飲み干した。

「つーか、さ」

 空になったグラスをテーブルに置く。思いのほか力がこもってしまい、大きな音がして、隣の席の女客が肩を震わせたのが真木にも分かった。

「金」

「はい」

「あるじゃん」

 少なくとも、ファミレスに来る程度には。

 電話をしたのは昼過ぎだった。昼どきにファミレスに来て、食事をせずコーヒーだけ飲んでいたとも、真木には思えなかった。

「ええ」

 悪びれる様子もなく、逆ににっこりと笑顔を作りながら海田は答えた。あまりに率直に答えるものだから、真木は咄嗟の言葉すら紡げない。

 真木が唖然として、ただ海田を見ることしかできないでいると、

「もう、サークルの飲み会に出るメリットは僕にありませんから」

 海田は「もう」と言うが、彼がサークルの集まりに顔を出したのは、まだ新入生歓迎会の一回きりだった。飲み会が計画されるのは月に一度程度で、まだ五月になったばかりなのだから、それは当然のことである。しかしそのたった一回の参加で、三年間も在籍し続けているサークルの活動を否定されると、じゃあそこに三年間在籍している自分は一体何なんだ、という疑問と不快感とが湧きあがり、それと同時に、自分自身すら否定されている心地すらした。

 無性にタバコを吸いたかった。それができずに、また舌打ちをする。

「それでも、真木先輩。僕は――」

「失礼だと思わねえのかよ」

 海田の発言を遮り、語気荒く捻りだす。

「金があるのに、嘘ついてまで飲み会に来ねえとかさ。それって、俺たちと話すのに、三千円の価値もないって言ってるのと同じだろ」

 それは、主にサークルの上級生が、後輩を飲み会に無理矢理連れ出す際に使う常套句だった。飲み会の招集を命じた会長から「絶対」とか「必ず」といった言葉を使われる度に、サークル伝統のこの文句を振りかざして、真木はメンバーを集めていた。これがただの脅しであることなんて、真木は百も承知だ。それでも真木がこれまで通りの受動的かつ怠惰的な生活を円滑に進めるためには、必要なものであることには違いない。

 ふと、真木は自身が肩で息をしていることに気付いた。喫煙のせいか、普段から些細なことで息が切れるようになっていた。それを「鬱陶しい」と思いながらも、タバコを止めることはずっとできないでいる。彼とて、こんな体の不調に気付く度「止めなければ」とは思っていた。けれど、震える指が、いつのまにかタバコを摘んでいるのだ。もしそれを、病気だ、と誰かに指摘されても、真木には言い返しようがないのだった。

 タバコを吸いたくても吸えないせいか、この席に座ってから、真木はどうにも落ち着けないでいる。視線がテーブルの上をうろうろと泳いでいた。強い口調で海田に迫りながらも、肝心の海田を見ることはできなかった。この後輩は、これまでサークルに入会してきた他の後輩とはまったく違う種類の人間であると、真木は感じ始めていた。それは初対面の時に感じた『能動的かつ社交的』という印象とは、また別のものだ。真木の正面に姿勢良く座っている彼の目は、じっとそらされることなく、真木を見つめていた。値踏みされているようで、酷く居心地が悪い。

「真木先輩。最後まで聞いてください。……僕は、別に三千円が惜しいわけじゃありませんよ」

「は……あ?」

 急に毒気を抜かれたようになる。反射的に、視線を少しだけあげた。海田の胸元を中心に見る。紺のカーディガンの下に、白いTシャツが覗いていた。ゆったりとした服装からは、入学式の日に目にしたような、筋肉の僅かな隆起も伺えない。視界の端に、海田の頬が、鼻梁が、そして両口角の少し上がった口元が映っている。

「むしろ、場合によっては、喜んで三千円払ってもいいぐらいです」

「なんだよ。結局、参加したいんじゃねえか」

 真木はほっと胸をなでおろした。指の震えが、少し治まっていた。けれど、それも束の間のことだった。

「いいえ、参加しません」

 すぐにきっぱりと否定され、真木はわざとらしく強調した気怠さで、はあ、と息を吐いた。もはやお手あげ状態だ。これ以上、この後輩をどう扱っていいか、真木には見当もつかない。彼を飲み会に参加させねばならないことに、さらにはその飲み会自体にすらも、段々と嫌気がさしてくる始末だった。

「あー、もうさ、結局何なの?」

 真木は、投げやりな口調で尋ねる。そしてテーブルの上に突っ伏した。虚ろな目で、海田の方に視線をやる。勿論、目は見ない。

「……では、はっきり言わせてもらいますけど」

 テーブルの上に、海田の右手が載った。自分よりも太くて長い指だな、とぼうっとした頭で真木は思った。何か運動でもしていたのだろうか、とも。

「この飲み会に参加しても、真木先輩は僕とだけ話をしてくれるわけじゃないですし、僕だけを見てくれるわけじゃないでしょう。先輩ともっとお話をしたいのは山々なのですが、先輩が知らない女に目を向けて、話をするのを見るのはもう嫌なので、飲み会には絶対に行きません。――以上です」

 海田は長々と、そしてゆっくりと子供に言い聞かせるような調子で語った。しかしそれも虚しく、海田の言葉は、霧がかかったような真木の頭では理解されなかった。突っ伏しているせいか、かえって体がだるく感じる。

「意味わかんね……」

 真木が呟くと、海田が小さく笑った気配がした。

「そうですか。なら、いいですよ」

 テーブルに載せられた海田の手が、真木にはじわりと滲んで見えた。肌色のそれが動き、視界の端へと出て行った。目線でそれを追う。彼の指先は、コーヒーカップと思しき白い物を捉えた。それが浮き上がり、海田の顔の方へと運ばれていく。そしてゆっくりと傾いた後、再び元の場所へと戻された。テーブルとカップがぶつかる音が、微かな振動を伴って真木の耳に届いた。

 海田の手は、また先程と同じ位置へと戻った。しかし一時もおかず、それはテーブルの上を這うようにして、真木へと迫ってくる。視覚でそれを認識しながらも、避けようなどという思考には至らない。ただひたすらに気怠い。

 海田の指先が、真木の手に触れた。それはただの接触に過ぎない。肌と肌がたまたまぶつかっただけのことだというのに、海田が触れた部分が、タバコを押しつけられたように、ぴり、と発熱を伴って痛んだ気がした。

「――っ、何」

 真木は反射的に、テーブルに伏せていた上体を起こした。痛みを感じた手の甲を、訝しげな視線でもって確認する。傷がついたり赤くなったりというようなことはない。異常がないことに安堵しながらも、真木は思う。それなら今のは一体なんだったというのか?

 答えを求めるように、自然と海田へ視線を向けた。そこで真木は初めて海田の目を見た。真木と視線が交わると、海田は口元を僅かに綻ばせた。整った、日本人離れした彼の顔の作りは、たったそれだけの動作にもかかわらず、甘い花の香りを漂わせているかのようだ。誘惑の芳香に惑わされた蝶のように、ぐらり、と真木の頭が揺らぐ。しかしすぐにハッと我に返り、その幻想を振り払うように慌てて頭を振った。そんな真木の様子を、海田は目を細めて観察していた。

「重ねて言いますが」

 表情を崩さないまま、海田が言う。先程よりは、少し低めのトーンで。

「飲み会には、行きません。でも、僕はもっと、先輩と話をしたいんです。だからこれから――」

 痛い、とは思わなかったが、やはりそこは熱かった。海田が、指を食い込ませるように強く、真木の左の二の腕を掴んでいた。

「僕の部屋に、来てください」

 海田は嬉しそうに笑っていた。けれどその、黒よりは薄く、茶より濃い目の奥には、獲物を追い詰めた獣のような獰猛さが覗いていた。

 真木は、自身の背中に嫌な感触の汗が流れるのを感じた。

 沈黙。そして場を支配する雑音。

 店員を呼ぶ電子ベル。

 学生のふざけあう声。

 あちらこちらで食器が擦れ合う。

 店内にひしめき合う全ての音が、真木と海田への無関心を貫いた。この喧しい場所において、真木は密室に閉じ込められたのと同様な焦りを感じていた。

「僕の部屋で、ふたりきりで、ゆっくり話をしましょう? 先輩の説得次第では、僕の決意も揺らぐかもしれませんよ」

 嘘だ、と真木は思う。今更彼が意思を曲げるなんて、そんな戯言、誰が信じるというのか。

 けれど、真木は操られたかのように頷くしかなかった。

 獣と同じ色の欲望を湛えた海田の目が、真木にそうさせていた。

 今この時ほど、タバコを吸いたくて堪らない時はなかった。

 海田はそれを満足そうに、黙って見つめていた。

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