有意義な支配―或いは依存―

 ただ、そばにいて欲しいと思った。海田の胸にそんな想いが湧いたのは、大学の入学式当日。キャンパス内でビラ配りをしていた真木に、海田は思わず声をかけていた。

 愛情に飢えていたわけではない。両親にはそれなりに愛されて育った実感も、彼にはあった。

 それでは、この想いは一体何なのかと考えた末、海田はひとつの結論に達した。

 ――これは、恋なのだ。

 そして、その相手の身の振りようが、あまりに惰性的であると気付いたのは、海田が衝動的に彼をベッドの上に組み敷いた後のことだ。

「風邪、ひきますよ。真木先輩」

 ガスコンロの火を切ってから、海田がそう声をかける。キッチンスペースから覗いた八畳ほどのフローリング床に、真木は死んだように身体を横たえていた。その身には何も纏っていない。首筋に、胸元に、腹に、太股に、複数の小さく赤い鬱血が見える。海田が施した愛撫の痕跡だ。たった数十分前まで、ふたりはそこで(海田の一方的な主導の下で)性行為に及んでいた。ベッドでそれを行わなかったのは、海田の単なる気まぐれだ。

 海田の誘いを、真木は拒否しなかった。ただ少し、不愉快そうに眉根を寄せただけだ。海田が床の上に彼の身体を無理矢理に押さえつけなくとも、真木の全身からは自然と力が抜けていくため、行為そのものは円滑に進み、海田にとっては楽ではあったのだが、『時には多少抵抗してくれてもいいのに』とも、彼は思った。しかしそれは自分の我儘でしかないことも理解していた。流されることでしか生きられない――真木はそういった性質の、極めて怠惰的な人間なのだから。

「……ああ」

 気怠そうな返事を寄越して、床の上で真木は僅かに身じろぐ。だがそれだけだ。起き上がって服を着るという様子もない。ベッドから掛け布団を引きずり降ろして身体を覆うということすらしない。視線の焦点がどこにも合っていなかった。その虚ろな目の淀んだ色を、海田は捉えた。今、真木の目は、誰も、何も、見ていない。そのことが、海田の背筋を震わせた。

 海田は、視線を真木から逸らす。先程火を止めたガスコンロには、銀色のコーヒーポット。その口から、湯気がゆらりと立ちのぼっていた。脇に置いたコーヒーサーバーには、既にペーパーフィルターを敷いたドリッパーがセットされており、そこに細かな粒状に挽かれたコーヒー豆が入っている。そこへ少量の湯をポットから細く注ぎ、蒸らす。じわ、と香りが立つ。焙煎物特有の華やかに広がる香ばしさが、海田の鼻腔をくすぐった。

 そこで再び、彼は真木をちらと見やる。相変わらず動こうとしないその姿を改めて確認すると、海田は胸の奥から熱が湧き上がるのを感じた。情事を終えた後にコーヒーを淹れるのは、海田自らわざと習慣付けたことだった。真木の姿がある部屋でコーヒーの香りに包まれると『僕は間違いなく彼を愛しているのだ』と、海田は自分の心を再認識し、それだけで無上の幸福を覚えるのである。

 ふたりは恋人同士などという甘い関係では決してない。海田が真木の怠惰につけ込んで支配し、また、真木は海田の恋慕心を、自身が怠惰的に生きるための理由として採用した。つまり、互いの利害関係が一致しただけに過ぎない。

 海田は、それでも構わなかった。真木が自分に対してどんな感情を持っていたとしても(或いはどんな感情も持っていなかったとしても)現実に真木は海田の下に身を寄せているのだから。海田にとっては、その事実だけあれば充分なのである。

 透明なガラス製のサーバーに、褐色の液体が満ちていく。ひとり分より多いその量を目視して、海田は僅かに頬を緩めた。それだけの湯を自ら注いだのだから当然だというのに、そんな些細なことからすらも、真木の存在を感じられることが、堪らなく嬉しいのだ。

 サーバーから、並べた二つのカップにコーヒーを注ぐ。湯気とともに豊かな香りがふわりとキッチンスペース全体に拡散していく。一人暮らしを始めたばかりで、自分用のコーヒーカップの他には、予備として用意していた、柄も大きさも違うカップしか備えがない。並んだ二つが揃いでないことだけが、いつも少し残念に思えた。

(揃いにしたら、真木先輩は怒るかな)

 そう考えてから、それがあまりに女性じみた思考であったことに気付き、苦笑する。

 束縛は、海田の望むところではない。あくまでもこの状況は、真木自身が選んでの結果でなくてはならなかった。強要による支配の終着点には破滅しかないのだと、海田は考えている。さらに、もし真木を強制的支配下においた際、そうして生み出された関係に対し、間違いなく自分自身が、蜜に浸かるほど甘い、快楽にも似た愉悦を覚えるはずだとも予想していた。海田には、それに抗える自信がない。手段さえ選ばず、真木を誰の目にも触れない場所へ隠しておきたいという暗い欲が、少なからず海田の中にあるからだ。

 左右に頭を振る。何も考えるな、と自分に言い聞かせた。感情を色濃く表出させてはならない。真木は他に利用価値のある相手を見つければ、すぐにでも自分の下を去っていくかもしれない。三年間所属した話術研究会をあっさりと辞めたように。

 そういったことから、真木は蝶に似ていると、海田は思っていた。ふらふらと危うげに、花から花へと蜜を求めて飛ぶ蝶のようだと。

 ぎ、とフローリングが軋んだ。真木がようやく身体を起こしたのだろう。海田は自分がいまだコーヒーサーバーを手にしたままだったことに気付く。それを置き、代わりに二つのカップを両手に持ち、何食わぬ顔で真木の前へ出た。

 真木は身体を起こし、変わらぬ虚ろな目でローテーブルの上辺りで視線を彷徨わせている。衣服は身に着けていない。その代わり、ベッドから降ろした掛け布団を肩からかけていた。

 海田はローテーブルの、真木の視界に入るであろう場所にカップを置く。陶製のそれが、こん、とテーブルを叩く。その軽い音に、ふ、と真木の焦点が合う。二つ並んだカップを見、そしてゆっくりと顔を上げ、そばに立つ海田に視線を向けた。呆けたように小さく口が開いている。

 向けられた視線に、海田は微笑する。真木の目が、自分を映している。他の誰も見ていない。今だけは、彼を独占しているのだと感じることができた。

「コーヒー、どうぞ。冷めないうちに」

 言って海田も床に腰を下ろす。しかし真木に密着はしない。ベッドを背にした真木の正面にあるローテーブルの、右側面に向かって座る。浴室と繋がる安っぽいアルミ製扉に、海田は身体を預ける。シャツ越しにその冷たさが背中に伝わった。

 先にカップに手を伸ばしたのは海田だ。ず、と一口啜る。ちらと真木を見る。『飲んでいい』という合図だ。こうするか、言葉でもって「飲め」と言われない限り、真木がカップに口をつけることはない。彼にはほとんど意思がなかった。あれをしたい、これを見たいなどという、大なり小なりほぼ全ての欲求が人に比べて希薄なのである。恐らく、本人もそれを認知している。だから彼は、他人に流されることでしか生きていくことができない。客観的に見れば酷く怠惰な日常から、彼は決して逃げられないのだった。

 そして、ふたりが出会った頃からすれば、それは随分酷くなっている。サークル活動をしていた頃は、真木にそれほど細かく指示を与える人間はいなかったのだろう。しかし現在では海田がこうして、コーヒーを飲むというたったそれだけの行動にすらも指示を与えるようになってしまっていた。

 だが、それにもかかわらず、真木はカップに手を伸ばそうとしない。もう一口コーヒーを飲んでから「飲んでいいんですよ」と声をかける。聞こえてはいるらしく、真木は小さく頷いた。けれどやはりその手は動かない。カップをじっと見つめていたかと思うと、ふと右手を口元にやり、唇に触れた。どことなく落ち着かない様子に、海田はようやく合点した。

 真木は、タバコを吸いたがっているのだ。無理もない。海田とこういった関係になるまで、彼はヘビースモーカーだったのである。それがぱたりと喫煙をやめてしまった。本人が『吸いたくない』と思ったところで、身体が勝手に求めるのも仕方のないことだろう。

 海田は、カップの中のコーヒーを半分ほど残して立ち上がる。そしてキッチンスペースにほど近い壁際にあるチェストへと歩み寄った。チェストのそばには、海田と真木のバッグが置かれている。海田は自分のバッグを開け、中を探った。目的のものが、すぐに姿を現す。

 それを手に取り、小さく肩をすくめた。自身の行動の愚かしさ、女々しさ、子供っぽさを、その小さな箱からありありと感じ、そこから生み出された羞恥心が海田を苛む。

 手の中にあるのは、真木が好んだ銘柄のタバコ。サークルの新入生歓迎会からの帰り道、アパート近くのコンビニで海田はこれを買った。海田は喫煙者ではない。故にパッケージは未開封だ。バッグに忍ばせておいて、擬似的に真木と過ごす幸福を味わうことだけを目的として購入したのである。――後になって、購入に際して年齢確認をされなかった偶然に気付いた。その時ばかりは、コンビニ店員の職務怠慢に、海田はただ感謝した――その当時は、まさか真木とこんな関係になるなんて、海田は思ってもみなかったのだ。

 タバコを手にテーブルのそばに戻ると、テーブルの上の、真木のカップの横に、海田はそれを並べて置いた。視界に飛び込んできたものに、真木はハッと我に返り、海田の方を向いた。驚きの表情を浮かべたその瞳に、先程まではなかった微かな光が灯っている。やはり、と海田は思う。ちくりと針を刺したように胸が痛む。

「……これ、お前の?」

 青い色をした小さな箱を指さし、真木が尋ねた。

「ええ、まあ」

 曖昧に答える。ばつが悪かった。真木にとってみれば、喫煙者でもない男が、自分が吸っていたものと同じ銘柄のタバコを持っているのだから。

「ふうん」

 しかし、海田の不安に反して、真木は素っ気ない返事を寄越すだけだ。彼がこれをどう見、どう感じたかは海田には分からなかったが、ただ、そこに言及されなかったことだけが救いだった。

「――吸っていいですよ」

 安堵に胸をなでおろしたことを気取られないように、冷静を装って海田は言った。

 真木は、その言葉に眉をひそめる。そして真意を探るように、海田の表情を伺った。何か言おうとしたのか、唇が僅かに開いたが、それもすぐに噤まれる。そこに、再び右手があてがわれた。さするように、指先が唇の上をゆっくりと往復する。海田から視線が逸れ、彼はまた、どこでもない場所を見た。その目が、どろりと淀む。光の届かない沼の底のような目。彼がまだタバコを吸っていた頃と同じだった。

 真木は、以前の生活に未練があるのだろうか。彼が見せた目に、海田はそう思わずにはいられなかった。真木と肉体的な関係を持つようになって、ひと月半。些細なきっかけから、真木が自分の元を去ってしまうのではないかと考えては、恐ろしくなる。真木が『そういう性質の人間』だと理解しながらも、喪失の恐怖は海田につきまとい、苦しめた。

「禁煙じゃねえの、ここ」

 真木がぽつりと呟いた。海田は、彼を最初にこの部屋に誘った日のことを思い出す。海田がコーヒーを淹れている隙にタバコを吸った真木に、海田は言ったのだ。『禁煙ですよ』と。そして僅かの怒りに任せてタバコをローテーブルに押し付けて消し、そして――。

 ちら、と海田はテーブルに目をやった。隅に黒く焦げた跡がある。それを改めて視認すれば、今更のように後悔の念が頭を過った。彼のことを束縛したくはないし、そうするつもりもない。けれどそんなことは建前にすぎず、同意なしに行為に及んでしまってからは、海田はその肉体的な関係でもって、真木を縛っている。それは、決して海田が認めたくはない、しかし嫌でも認めざるを得ない、確かな現実であった。

「禁煙……ですけど。今日は、構いません」

 自身の支離滅裂な言動に、無理やり浮かべた笑みがひきつるのを感じた。この場を繕う適当な言葉が見付からなかったのである。海田は、すべてが空回りしている気がしてならなかった。

 そんな海田の胸中など知るはずもない真木は、しばらくテーブルに置かれたタバコを見つめていた。そうした後、海田を一瞥し、

「……いや、いい」

「え?」

「要らない」

 予想外の返答に困惑する海田を尻目に、真木はそれだけ言うと、徐にコーヒーカップに手を伸ばした。

 それを口に運び、傾ける。薄く瞼を伏せ、一口、飲み下す。喉が上下する。

 身に纏っていた薄い掛け布団のすき間から、胸元が覗いた。鎖骨の下には、花弁のように赤く小さな跡。

 カップが離れていく。唇が濡れ、艶めいている。そこにキスをしたい、と海田は思った。

 真木の虚ろな目は、この時、誰も、何も、見ていなかった。にもかかわらず、海田はそれに、形容しがたい充足感を覚える。同時に、心臓をきつく縛られたような息苦しさがあった。

 カップの底が、テーブルを叩く。

「苦……」

 不服そうな色を帯びた声を、真木がもらす。

 海田は横から、彼の身体を抱き締めた。その肩口に、顔をうずめる。酷い顔をしている自覚があった。こんな顔を真木に見られるのはごめんだと思った。

「何だよ」

 呆れたような、嘆息混じりの言葉。けれど、この腕は振り払われないという確信があった。振り払うことは、もう彼にはできないのだと。

「好きです、真木先輩。本当に、あなたのことが――」

 悲痛な色を滲ませたその告白に、真木は何も言わなかった。きっと今も、真木は海田を見ていない。

 応えなくてもいいと、海田は思う。けれどそんな想いとは裏腹に、引き裂かれたように、胸が痛んだ。

(了)

       
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