おじさん、マフラーを買う

 ふと目を奪われたその鮮やかな色を、私は『黄緑』としか表現できない。

 立ち止まってそれをじっと見ていたら、彼が気付いて「綺麗なライムグリーンだね」と言った。こんな些細なことでさえ、ふたりの間に確かな隔たりを感じてしまうのは、少し悲しい。けれどそれも仕方のないことだと、自分に言い聞かせる。

「おじさん、ああいう色が好きなの?」

 彼は、私が見ていた商品を指さした。

 特別欲しいものがあったわけではない。若者が集う華やかな街と今私たちがいる百貨店では、扱われている商品はまるで違うだろう。けれど、もしかすると、ここにだって彼の気に入るものがあるかもしれない。そう思って、ファッションフロアを一通り見て回っている最中だった。だから、通路に面した売り場の棚に、それを見つけたのは偶然だ。

 季節柄なのか、売り場は黒や白、灰色や茶色など、比較的暗い色合いの商品が多く並んでいる。だから、余計に鮮やかなその色が、私の目に留まったのだろう。

 私の視線の先にあるのは、マフラーだ。黄緑色の(彼の言葉を借りるならライムグリーンの)それは、くるくると巻かれ、展示されていた。

「好き……? うーん、何となく気になったというか……」

「まー、マフラーにしては、珍しい色だしね。気になるなら手にとってみたら?」

 促され、私は棚の上のマフラーに恐る恐る手を伸ばす。しかし指先が触れかけて、ふと考える。この形を崩してしまったら、とても自分では元に戻せない気がしたのだ。

「心配しなくても、俺が元通りに直しとくよ」

 私の挙動から当惑していることを察したのか、彼はそう口にした。アパレル店に勤めている彼が元通りにしてくれるというのであれば、安心だ。彼の言葉に胸をなで下ろし、私は改めてマフラーを手に取った。

「う、わ……柔らかい」

 そのふっくらとした手触りは、まるで小動物でも撫でているようだ。そして非常に軽く、それなのに暖かい。私が持っているマフラー(会社近くの衣料量販店で千円で買ったもの)は、もっとごわごわとしていたし、これほど暖かくもなかった。

「あー、これ、パシュミナじゃん」

「ぱ、ぱし……何?」

 彼が横からマフラーに触れ、謎の単語を口にした。聞き慣れぬその言葉の意味が分からず、聞き返したが「パシュミナだよ」と繰り返される。二度聞いても、やはり何が何だかよく分からない。

「カシミアを紡いだ糸で織られてんの。最近ちょっと流行ってるやつ」

 まるで理解できていない様子の私に、彼がそう解説してくれた。なるほど、と私は呟く。カシミアならば聞いたことがある。確か、動物の毛だったはずだ。だけど何の動物かというところまでは、やっぱり知らないのだけれど。

「じゃあこれはカシミアのマフラーなんだね」

 言って、私はマフラーを撫でた。

 毛織物なのに、僅かに光沢感がある。ナイロンでもあるまいし、一体どうなっているんだろう。

「カシミアだけど、パシュミナだよ」

 生地の質感に感心していると、彼はそう口にして、私の手からマフラーを奪い取った。

「カシミアじゃないの」

「カシミアだよ」

「カシミアなのに、ぱ、ぱすみな?」

 ……慣れない横文字はなかなかうまく発音できないのが悲しい。これも歳のせいだろうか。

「……ねえ、それ、わざとやってんの?」

 彼は言いながら、ライムグリーンのマフラーを首の前に当て、近くにあった全身鏡を覗き込んだ。

「わざと出来たら、良かったんだけど」

「ふーん」

 また彼を怒らせてしまったのかと思った。しかし、声の調子は、それほど不機嫌な色を帯びてはいなかったことにすぐに気付く。鏡越しに、彼と目が合った。その表情からも、怒りは感じない。その代わり、顔が少しだけ赤かった。

「それで、マフラーどうすんの? おじさんも、ちょっと当ててみる?」

「あ、っと……」

 鏡越しに訊かれ、口ごもる。別に私自身は、そのマフラーが欲しいというわけではないのだ。ただ、綺麗な色だと思っただけ。それに、このマフラーはきっと自分には似合わないだろう。良さそうなものだということだけは分かるが、素材についての理解もまるでないような私の持ち物とするには、あまりに不釣り合いであるような気がしたのだ。

「私は、いい……かな。それより」

 彼の首もとに当てられた明るい色味のマフラー。シックな色調で纏められた今日の彼の服装にはよく映えていた。

(うーん、格好良いなあ……)

 背が高く細身の彼は、何を身に着けても様になる。

「……おじさん?」

「ああ、ごめん、見とれてた」

「は? 何に?」

 マフラーを首元から外しながら、彼は訝しげに私を見た。

「きみにだよ」

 言って私は、商品棚にマフラーを戻そうとする彼の手を制した。そしてすぐに、近くにいた店員を呼ぶ。

「すみません、これください」

 笑顔で近付いてきた上品な女性店員に向かって告げ、彼の手の中にあるマフラーを指さした。

「ありがとうございます。贈答用の包装はどうされますか?」

「あ、お願いします」

「畏まりました」

 彼の手から、店員がマフラーを受け取る。そして、裏返った値札を捲った。

「それではお会計、二万六千二百五十円です」

「えーっと、二万と……いちにーさん……あー、六枚ないなあ」

「ちょ、っと! おじさん!」

 開いた財布から札を取り出そうとすると、彼が慌てて私の腕を掴んだ。

「まさか、そのマフラー……」

「うん。きみにプレゼントしようかと思って」

 困ったような、焦ったような表情。普段は冷静で、年上の私に怯むことなんてない彼がこうやって取り乱す様を、珍しく目にすることができて、何となく得をしたような気分だった。

「ば……っ、そんなの、だめに決まって……!」

「まあまあ、いいじゃないか。あ、店員さん、はい、三万円からで」

 彼は、あまり力は強くない。だから彼の制止を振り切ることなど私には造作もないことだった。私の手から三枚の紙幣を受け取ると、店員は「少々お待ちください」と言い残して、売り場を出て行った。

 彼はすっかり俯いてしまって、こちらを見ようともしない。

「……ムカつく」

「うん、ごめん」

「また大人ぶって」

「ごめんね」

「俺が買わせたみたいじゃん」

「そんなことないよ」

「高かったのに」

「……でも、きみによく似合ってたから」

 店内放送にかき消されそうなほどの、小声でのやりとり。

 周辺の売り場を、買い物客が歩く気配。

 それらに向かって、店員が機械のように同じ挨拶を繰り返している。

 彼の声色からは、いつもの余裕などすっかり消え失せていた。こういう姿を見れば、年齢相応で、可愛いとも思う。けれど、私がそう思うことも、彼はきっと気に入らないだろう。

「その……買い物、一緒に楽しめたから。そのお礼っていうことじゃ、だめかなあ」

 本当はただ、鮮やかなライムグリーンのマフラーが、彼に似合っていたから。たったそれだけの理由なのだけど、そんなことを口にしてしまったら、きっとまた彼は「大人ぶっている」と憤慨するだろうから、言わないでおく。年上然としているつもりはないけれど、彼がそう受け取るのであれば、やはりそこは気を付けなければいけないなと思う。彼を不快にさせるのは、私にとっても不本意なことだ。

「ごめんね。怒ったよね」

 俯いた彼の表情を伺おうとすると、彼はふっと顔を上げた。やはり不機嫌な色を帯びた表情を浮かべている。

「……可愛くない」

「うう、ごめん」

 今日一日で、何度彼の機嫌を損ねただろう。失敗から学習しない、本当に駄目な人間だと、我ながら思う。自然、体が縮こまる。その肩を、彼が叩いた。

「でも、まあ――」

 腰に腕を回され、身を引き寄せられる。見下ろされるように、彼の視線が私へと注がれた。突然のことに、言葉もでない。そんな私の様子を見て、今までの不機嫌さはどこへやら、彼はにやりと不敵に笑ってみせた。

「おじさんが楽しんでるなら、いっか。今日のところはね」

「な、な……」

 一体、この変わり身の速さはなんなのだろう。まさか、演技だったとでも? いや、彼に限ってそんなことをするはずないとは思うのだが。

「マジでこういう時は可愛いんだよねー、おじさんって」

「ちょ、ちょっと、ここ、百貨店だから……!」

 彼が更に顔を寄せてくるその意図を察し、私は慌てて体を引く。しかしそれは彼の腕によって阻止された。

「今更。さっきも電車の中でしたじゃん」

「あ、あれは不意打ちで――」

「あの……お客様……?」

「ひぃ! すみません!」

 戻ってきた店員に声を掛けられ、反射的に彼から離れようとしても、やはりそれは叶わない。

「お先に、三千七百五十円とレシートのお返しです。お確かめください」

 女性店員は、親子や友人にしては異様に密着している私たちを見ても、営業スマイルを崩さずに、お釣りの入ったキャッシュトレイを差し出してきた。

 ちら、と彼を見る。今日一番と言っていいほど、楽しそうな顔をしていた。どうやら、しばらく解放されそうにない。

 私は渋々そのまま、お釣りを受け取って財布にしまった。

「それでは、こちら、商品です」

 差し出されたのは小さな紙袋だ。側面に、百貨店のシンボルマークが描かれている。

「あ、はい――」

「どーも」

 紙袋を手にしようとすると、横から彼が奪う。

「ちょ、ちょっと」

「ありがとうございました」

 彼の突飛な行動にも、店員はやはり動じない。さすが、接客のプロだけはある。

「ねえ、店員さん」

「はい」

「コレさ、恋人が俺にプレゼントしてくれたんだよね」

 彼の言葉に、私は思わず吹き出した。私が店員の態度に感心していた隙に、何てことを言うのだ、彼は。確かに体の密着度合からすれば、誰が見ても恋人に見えるだろうが、だからといって、何も恋人宣言する必要はないんじゃないか。

「ちょ、ちょっと! 何言って――」

「左様ですか」

 彼をたしなめようとした私の言葉を遮ったのは、女性店員だった。

「それでは末永く、お幸せに」

 彼女は、そう口にして、私たちに向かって深く一礼した。変わらぬ上品な微笑を口元に浮かべて。

「言われなくても」

 そんな彼女に、彼は一言だけ返した。そして呆気にとられる私の手をひいて、売り場を後にする。私はただ、黙って彼の背中についていくことしかできなかった。

 店員の手前、とっさに体裁を繕おうとしたことが、彼に対して酷く申し訳ないことのような気がしていた。

 立ち止まって、彼が私を振り返った時、何て言えばいいだろう。手を引かれ、彼の背中を追いながら、私はずっとそんなことを考えていた。

(了)

       
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