おじさん、東京へゆく
『連休が取れたから一緒にどこか行こうか』
『じゃあ、東京いこ。服欲しいから』
『いいよ。上野とか、有楽町とか? それとも銀座かな?』
『えっ、そこ百貨店しかないじゃん』
『えっ、上京して買い物するなら百貨店じゃないの?』
『や、ほら、表参道とか』
『……参道に服屋があるの?』
そんな会話が交わされたのは、一週間ほど前だ。
東京の知識なんて殆んどない私は、今回の一泊旅行を提案しておきながら、東京駅で新幹線を降りてから、ずっと彼に先導されるように、ここ、表参道までやって来た。
東京はとにかく人が多く、彼の背中を追うのがやっとで、はぐれずに目的地まで辿り着けて良かったと思いつつ、年下の彼がいないと電車すら乗り換えられない自分が少し恥ずかしくもあった。
小綺麗な幅広の歩道、そのそばに立ち並ぶケヤキの街路樹。歩道に面して、洒落た飲食店や洋服屋などが軒を連ねていた。私の少し前を歩く彼の背中は、普段よりどこか楽しげで、それを見るだけで、彼が本当にこの場所に来たかったのだということが伝わってくる。
周囲を見渡す。行き交う人の多くが若者だ。
「最近の子は、みんなお洒落だなあ」
私はぽつりと呟いた。それは着飾っているためなのか、この街の雰囲気に溶け込んでいるためなのか、あるいはそのどちらともであるのか、それは私にはわからない。
私は歩きながら、自分の着ているものをちらと見た。グレーのセーター、ジーンズ、スニーカー。たったそれだけ。地味で、飾り気のないこの格好では、とてもこの街との融和ははかれそうにない。格好だけでなく、年齢的にも、若者の中に混じるにはやや厳しいかもしれない。
その点、彼は私とは違う。今は服の販売員をしている彼は、色の違うカットソーを重ね、その上に象牙色のブルゾンを身に着け、下はカーゴパンツにショートブーツ(出がけに「スニーカーじゃないの?」と言ったら怒られた)といういでたちだ。それに、まだ二十歳になったばかりで、彼は充分この街に相応しいように思える。
きっと、あちこち行きたい店があるのだろう。彼はそわそわと、ウィンドウ越しに店内を覗いている。
「行きたい店があったら行っておいで。欲しいものがあれば、買ってあげる」
「んー」
私が声をかけると、彼は歩みを遅くして、私の隣に並んだ。
「おじさん」
「うん」
彼はいつも私を『おじさん』と呼ぶ。それほど年齢が離れているのだから仕方ない。私と彼が、血縁関係でもないのに一緒に暮らすような仲であっても、その事実は変えようがないのだ。彼と出会った頃、私は、彼が真っ当に働いて生きてくれさえすればそれだけでいいと思っていた。だのに、彼はその後、自らの意思で、二十以上も年上の、地味で、何の面白みもない私と一緒に暮らすことを選んでくれた。それだけで、私はもう充分だった。彼が一生、私の名を呼ばなかったとしても、それは極めて些細なことで、取るに足らない問題なのだ。
「おじさんは、楽しいの?」
彼は俯きがちに、そう漏らした。
「きみが楽しければ、私も楽しいよ」
「……何それ」
私が言うと、彼はじっとりとした目で私を見た。
「ムカつく」
そして漏らすそのせりふは、彼の口癖のようなものだ。いや、彼だけでなく、今の若い子はみんなこうなのかもしれないけれど。ともかく、気に入らないことがあると、彼は一言、そう口にする。そして私は、いつだって、彼が一体何に対して不服に感じているのか、察することができない。だからそういう時は「ごめん」と謝ることにしている。
いつものように謝罪を口にすると、彼はしばらく黙っていた。そのうちに、ぴたりと足を止めたかと思うと、私のセーターの裾を引っ張り、踵を返した。そして今し方歩いてきた道を戻り出す。
「あ、え、どこ行くの?」
引きずられるように後をついていく。彼は何も答えない。
地下鉄の駅に着くと、彼は券売機で切符を二枚買った。その一枚を私に持たせ、改札をくぐる。そのまま階段を使ってホームに下りると、目の前に到着してい た電車にそのまま乗り込んだ。見計らったようにドアが閉じる。ゴトンと電車が揺れた。向かい側の窓の外で、薄汚れたコンクリート壁がゆっくりと動き出す。ホームの灯りが遠ざかっていく。
彼はようやく私のセーターから手を離した。そして、手近な座席に腰をおろす。日曜だが、昼時だからか車内は比較的空いている。
「どうしたの、急に」
小声でそう尋ねながら、私は彼の隣に掛けた。
「…………上野に行く」
彼はぼそりと一言、呟いた。
「え、上野?」
思わず聞き返す。
彼は「上野にあるのは百貨店ぐらいじゃないか」と言って嫌がっていた。彼が欲しいものは、先ほどまで歩いていた表参道にあるのであって、上野にはないはずだ。それなのに、どうして上野に移動する必要があるのか、私には解からなかった。
「どうして? きみが行きたいところで、きみが見たいものを見ればいいんだよ」
一向にこちらに目を向けようとしない彼の顔を覗き込む。そこに浮かんでいる表情は、怒りとも悲しみともつかない複雑なものだ。
「そーいうの」
「ん?」
「すげームカつく」
「……ごめん」
どうして私はこうなのだろう。いつまで経っても、彼の気持ちを何ひとつ察することができない。決して短いとはいえない人生の大半を、仕事に費してきた結果がこれなのか。それとも、彼と年齢が離れているせいで理解できないだけなのか。どちらにしろ、私が不甲斐ないことには変わりない。若い子が、パートナーとして年上の人間を選ぶメリットなんて『知識が豊富で頼りがいがあること』ぐらいなものだろうに、よりによって私はどちらにも当てはまらないのだから。さすがの彼も、こんな私にそろそろ嫌気が差してきたのかもしれない。
「その……本当に、ごめん」
だけどやっぱり、私にできることといったら、謝ることぐらいなものだった。
「…………別に、怒ってないし」
彼はそう言うけれど、その声はどこか不機嫌そうだ。私は居たたまれない気分になり、彼の表情を確認する気にもなれず、項垂れた。
電車が停車する。アナウンスで駅の名前が流れるが、聞いたこともない、一体どこかも分からないような駅名だった。ドアが開き、ひとり、ふたりと降車していく。近くの入口からは、誰も乗車してこなかった。ドアが閉じると、電車は再び走り出した。
上野までは、あとどれくらいで到着するのだろう。彼との間に漂う、ぎくしゃくした空気が辛かった。
三つ、四つと、駅を過ぎていく。その間、会話はない。
『次は、神田、神田』
しばらくして、そんなアナウンスが車内に流れる。地下鉄に乗ってから、もう十分以上は経っただろうか。
「もうすぐ着くから」
彼がようやく口を開いた。
「そう」
まだ少し気まずくて、私は短く返事をすることしかできなかった。しかし、返事をしてから、彼と口をきく折角のチャンスを、自ら潰してしまったことに気がつく。何食わぬ顔をして、会話を続ければよかったのに。私は一体何をやっているんだ。我ながら悲しくなって、小さく溜息をついた。
「あの、さ」
「……うん――っ?」
彼の指先が、不意に私の手に触れた。突然のことに、心臓が大きく跳ねる。慌てて周囲に視線を巡らせる。数の少ない他の乗客は、それぞれ携帯電話を操作していたり、音楽を聴いていたりと、誰ひとりとして私たちのことなど見ていなかった。それを確認して、安堵する。
「ど、どうしたの、見られるよ?」
私は彼にそっと耳打ちした。
「見られたら嫌なの」
「いや、私は気にしないけど……きみが嫌かと思って」
私みたいな地味なおじさんと彼は、やはり不釣り合いだ。先ほどお洒落な街をふたりで歩いていて、私はそれを痛いほどに感じた。生きる場所がもともと違うのだ。彼には華やかな街がよく似合う。私がいても違和感のない場所といったら、スーパーの惣菜売り場ぐらいのものだろう。
私が答えると、今度は彼が大きく溜息をついた。
「嫌なら、一緒に旅行したりしないって。ていうか、変に大人ぶるのやめてくんない? マジでムカつくから」
「う、ごめ――」
「謝るの禁止」
言葉が先か、それが先だったか。判らないほどに、一瞬のできごとだった。
彼が顔を近づけたと思ったら、唇に柔らかな感触。
「……おじさんが楽しくなきゃ、俺も楽しくないし」
彼の指が、重ねた私の手指を絡めとる。
顔が熱い。車内の暖房が効きすぎているんじゃないだろうか。
きっと真っ赤になっているであろう顔を、恥ずかしさのあまり、私は空いた左手で覆った。
「百貨店なら色々あるから、一緒に楽しめるでしょ」
声が近い。息がかかる。ああ、これってもしかして、からかわれているんじゃないだろうか。彼の声が、どこか悪戯めいていて、そんな風に感じられた。
「それで……上野?」
彼の気遣いは嬉しかった。しかし、そんな彼の顔を、とてもじゃないけど見ることができない。居たたまれなさからではなく、羞恥から。
「そうだよ。時間が余ったら動物園にも行けるし。こうやって手を繋いで、さ」
絡められた指に力が篭る。それを感じて、私の体はふるりと震えた。くすくすと彼が笑う。
「恥ずかしいんだ? おじさん、かわいー。いつもこうならいいのに」
そして彼は「冗談だよ」と続けた。
なんて不甲斐ないのだろう。年下の彼に、気を遣わせたうえ、こうしてからかわれて。年上としての矜持なんて、もはやすっかり打ち崩されてしまっている。けれど、そうした方が、彼が喜ぶのであれば、もうそれでもいいかとも思ってしまう。甘えてはいけない立場なのに、甘えてしまいそうだった。
「折角来たんだから、東京、ふたりで一緒に楽しもうよ」
私は、ちらと彼の顔を覗き見た。無邪気な笑みを浮かべる彼は、年齢より僅かに幼く映る。
私は返事をせず、ただ何度も頷いた。
『次は、上野、上野――』
車内アナウンスが目的地への到着を告げる。
その音声を打ち消してしまいそうなほどに、鼓動がうるさい。
「それじゃあ、仕切り直しってことで」
電車が速度を落とすと同時に、彼が立ち上がる。絡めた指は、自然と離れた。指先が、彼を追いそうになる。それを、ぐっと堪えた。
「……そう、だね」
年上としての私の僅かばかりの抵抗を、彼に気付かれないように、名残惜しげな左手を、私はそっとジーンズのポケットに押し込んだ。
(了)