おじさん、責任をとる
「おじさん、ちょっと書いて欲しいものがあるんだけど」
朝からひとりで出かけていた彼は、夕方帰宅するなり、リビングのソファで寛ぐ私の前に数枚の紙を差し出してきた。
「いいけど……これ、何?」
「転入届とか、色々」
「転入届」
「そ。今んとこ仕事も順調だし、しばらくはここから動く予定もないし、住所移しといたほうが何かと都合がいいでしょ」
「そっか。……うん、そうだね」
淡々と告げながら、彼はテーブルの上に書類を並べていく。その姿と言葉に、思わず頬が緩む。とにかく、嬉しくてしかたなかった。
私を『おじさん』と呼ぶ彼とは歳が二十以上も離れているが、一応恋人という関係だ。まだ若い彼のことだから、きっと私のような冴えないおじさんのことなんて、すぐに飽きてしまうだろうと思っていたが、それでもこの部屋に一緒に住み始めてもう一年以上が経つ。それだけでも嬉しいことなのに、彼の先程の発言から察するに、私たちの生活はもうしばらく安泰らしい。これを喜ばずして一体何を喜べというのだろう。
「……で、こことここに……って、何にやにやしてんの。ちゃんと聞いててよ」
「あっ、ごめん」
むっとした表情で覗きこまれ、思わず謝ってしまう。
間近に迫った彼と目が合う。長い睫毛の下で光を反射する涼しげな目は、何度見てもどきりとさせられる。きっと、この黒い瞳の中に、欲が滲む瞬間を知っているからだ。
「ど、どこに何を書けばいいのかな?」
意識すると急に気恥ずかしくなって、慌てて書類に目を落とす。そしてそばに置かれたボールペンを手に取ったものの――肝心の書類の字がまったく見えない。罫線すらぼやけている。悲しきかな、老眼のせいだった。近頃また酷くなった気がする。きっと彼には、この書類に書かれていることがくっきりはっきり見えているのだろうなと思うと、年の差を突きつけられているようで少し辛い。
「……ちょっと、待ってて」
足早に寝室に向かって、机の引き出しから眼鏡ケースを取り出してリビングに戻る。再びソファに腰を下ろし、ケースから取り出した老眼鏡をかけた。書類の罫線は、もうぼやけていない。しっかりとした直線だ。
「よし、いいよ。何でも書くよ」
ボールペン握ったまま、彼に向かってガッツポーズをしてみせる。が、彼は真顔のまま動かない。
……しまった。もしかすると、ガッツポーズって最近はしないものなのかもしれない。年寄りくさいと思われたのだろうか。
「あの……えっと……とりあえず書くよ?」
どうしてよいかわからず、とりあえず書類に目を落とす。どこに何を書くのか、正直よく聞いていなかったが、役所の書類ならば目を通せば大体わかるだろう。
「氏名……ここかな。えーっと、『夫になる人』……『妻』……って、これ婚姻届って書いてあるんだけど間違いじゃ……――っ!?」
突然横から腕を引かれ、フローリングに倒れ込む。
「な、なに」
起き上がった瞬間、唇に温かなものが掠めた。
「おじさん」
両肩を強く掴まれる。彼の目の色が、明らかに先程までとは変わっていた。
「その眼鏡、何? ヤバい」
「ヤバい」
おうむ返しするが、意味するところはわからない。若者のいう『ヤバい』はあまりに広義すぎて、私にはなかなか馴染めない言葉だった。
「マジでヤバい。反則。責任とってよ」
「せ、責任って……うわっ」
あっという間にフローリングの上に押し倒される。
「責任とって、俺と結婚だよ、おじさん」
瞳に欲をちらつかせた彼が、にい、と笑った。
先程の書類が間違いでも何でもなかったのだと知り、嬉しいような恥ずかしいような、何ともむず痒い気持ちになる。
生まれてこのかた、ここまで誰かに求められたことなんてなかった。私自身も、相手の要求をすべて受け入れたいと思うのは彼がはじめてだった。
「ま、とりあえず先に初夜かな」
「し」
「眼鏡かけたおじさんがエロいから悪い」
初夜っていっても、することはいつもと変わらないけどね?
随分と年下の恋人に耳元で囁かれた。
上気した頬からは沸き上がる情欲が見てとれ、その興奮は熱い吐息を通じてこちらに伝わってくる。思わず生唾を飲み込んだ。
「せ……責任とって、がんばります」
――一体何をがんばるんだ。口に出してしまってから、内心自分にツッコミを入れる。
彼は真顔になってしばらく動きを止めた。見る間に顔に赤みが差していく。全身の力が抜けたように、彼の体が私の上に崩れ落ちた。
「ど、どうしたの」
俯せるその表情を窺おうとするが、私の服に埋まってしまってかなわなかった。
「……いいよ、おじさんは。何も分からないままで……」
明確な答えが得られずに、頭の中にハテナが浮かぶ。とりあえず、今の私にできるのは、愛しい背中に腕を回すことだけだった。
(了)