暗褐色の海
少年を店の板間に座らせ、東雲は立ち上がった。庭にある井戸に向かい――ここでは雲の中から水を直接汲み出している――木桶を落とし水を汲む。そしてそこから柄杓に水を注ぎ、少年の元に舞い戻った。それを少年に差し出すと、礼を言いながら一気に水を飲み干した。慌てたのか、少し咳き込む。東雲はその背を摩ってやった。東雲より一回りほど小さな身体だった。
「すまない、俺としたことが、むきになってしまったようだ」
「いえ、いいんです。オレこそ、失礼なことを言ってしまって。……あの、東雲さん、これ」
少年は握った手を、東雲に差し出した。ゆっくりと開かれた掌の上には、見覚えのある丸い石がちょこんとのっていた。それは間違いなく、父から託された留め石だった。袖口に入れていたはずだが、手を入れて確かめても、勿論そこにあるはずがない。先ほど立ち上がった時に落としてしまったのだろうか。
「ああ、拾ってくれたのか。 これは留め石という、持ち主の記憶にある景色を記録する石なんだ。恐らく母の物だと思う」
「景色を記録というと、写真みたいなものですか。ルリエさん……だから天空街にはない海が映ってるんですね」
――空と海が映し出された石は深い青に輝く。
ふと、書物に書かれた一説が脳裏に浮かぶ。
地上からきたこの少年は、この事実をどう捉えるだろうか。解決策が見つかればなんて、そんな甘いことを考えているわけではなかった。ただ、そう、興味があったのだ。
「海や空が記録された石には、青い輝きが宿るんだ」
「青く……。でもこの石は」
石に視線を落としたまま、少年は呟く。
「セピア色、ですね」
掌の上で小さな海が転がる。少年は石を凝視したまま、黙り込んでしまった。
本当に不思議な少年だ。東雲は思った。年相応のあどけない表情を見せたかと思えば、次の瞬間には聖人じみた顔を垣間見せる。
元々このような性質の子であるのか。それとも彼が出会ったという門番が、何か特別な力を与えたもうたか。
少し考えて、止めた。苦笑が漏れる。思案に暮れても仕方がないことだ。それを考えるのは少年自身なのであって、東雲がどうこう出来るものではない。
「東雲さんは」
少年が顔をあげる。
「この石、本当にお母さんの……ルリエさんの物だと思いますか?」
「はあ」
突拍子もない言葉に、東雲の口から出たのは何とも間抜けな音だった。
「本当も何も、海が映っているのに、母以外の誰の物だって言うんだ」
「これは海じゃありません」
「海じゃない……?」
「正確には、本物の海ではない、ですね。これは海の絵ですよ、東雲さん」
――白い砂浜の向こうに《海》が広がっているの。ざざん、ざざんと寄せては返すのは波。《海》は綺麗な青色で……海の端は、そう、まるで空と繋がっているみたい。
母の声が耳の奥に蘇る。懐かしい、優しい声。
――そうだ、祐司。《海》を描いてあげる。《海》は広いわよ。この空と同じくらいに。
一体何故、忘れてしまったのだろう。こんなに大切な記憶を。
東雲は立ち上がり、店の奥で埃を被っていた箪笥を下から一段一段開けていく。母が死ぬ間際、指さしていた箪笥だ。三段目、四段目と開けていく。
一番上の引き出しを引いた瞬間だった。ざざざ、と波の音がした。海を目にしたこともない東雲にも、それは確かに打ち寄せる波の音だと分かった。引き出しの中を覗く。そこには海があった。母が描いた青い空と海。音を立てていたのは、大量の朝顔の種だ。引き出しを開けた瞬間に種が互いにぶつかり合い、波の音を奏でる仕組みになっていた。――紛れもなく、これは海だった。母が作り出した、ささやかな海。
――わあ、すごい! これがうみなの?
――そうよ、祐司。でも本物の海はもっともっとすごいんだから。いつか行こうね、父さんも一緒に。三人で。
(俺は本当に、馬鹿だ)
留め石に映る暗褐色の海の正体は、母の見た海ではなく、東雲が見た、この小さな海だったのだ。
それなのに勝手にすべてを忘れ、母を不憫だ不幸だと決めつけ、モヤモヤと鬱屈した思考を抱えたまま、ぬるま湯に浸かるように堕落した。
(ごめん、母さん。ごめん)
引き出しの海に、温かい雫が一粒、落ちた。
東雲の涙が止まるまで、少年はじっと黙ったまま東雲の背を見ていた。何を思っていたのかは、東雲には分からない。けれど、随分と年下の同性に涙を流す様を見られていたというのに、温かな掌に包まれているような不思議な安心感があった。
そして少し落ち着いた頃、少年は道具屋を訪れた本来の目的をぽつりと漏らした。
「実は、これを売りたいんです」
言いながら少年が差し出したのは朱色の羽根だった。それが羽根魚の羽根だと、すぐに判別できなかった。羽根魚の羽根には普通、色はついていないからだ。色付きの羽根は貴重なため、高額で取引されていると聞く。東雲も目にするのは初めてだった。
少年には店にある金のほとんどを手渡した。
羽根の現在の相場は分からないので、ほとんど礼のつもりだった。それに『越後』に今、金は必要ないと思ったからだ。これからは店を守ってこの場所で静かに暮らすより、母がもっと望んでいたことを成したい。その為に必要なのは金ではなく、自ら一歩踏み出す勇気だ。
「わざわざ訪ねてくれたのに、迷惑をかけてしまって、本当になんと詫びればいいか」
店先に立ち、東雲は少年を見送っていた。
少年は東雲の言葉に慌てて両手を振る。
「いえ、オレのほうこそ出しゃばっちゃって。それに、こんなに大金を頂いて……本当にいいんですか?」
「気にしなくていいさ。君には本当に助けてもらったから。感謝してるよ、ありがとう」
「助けたなんて、オレは何も」
「まあ、君は分からなくてもいいさ」
ははは、と東雲は声を出して笑った。こうして心から笑うのは、母が死んで以来初めてだ。
少年には大きな布袋と、草履――彼は何故か裸足だったので――を持たせた。布袋には勿論紙幣が詰まっている。彼はそれを背負い、重さにふらふらとしつつ東雲に深く頭を下げた。
「東雲さん、お世話になりました。どこかで、また」
「俺のほうこそ世話になった。……そうだな、またどこかで」
少年は東雲に背を向け、街への道を歩き始めた。その姿が消えるまで、じっと見送る。最後まで少年が振り返ることはなかった。それでいい、と東雲は思う。次に彼の顔を見る時は、ここではなく別の『どこかで』だ。
行き交う者のない白い雲の大地を、優しい風が吹き抜ける。しっとりと肌を撫ぜる、懐かしい、別れの感触。
* * *
「さて、これで全部か」
飾り棚や木彫りの小箱などの細々とした商品が、手押し車の荷台の上でひしめきあっている。行商の準備だ。
東雲は道具屋『越後』の店先に立ち、ゆっくりとその佇まいを見上げた。
木で作られた看板。思い起こせば、この木をどこからか削りだしてきたのは父だった。『越後』という文字は母の作だ。墨をつけ、大きな筆で懸命に書いた。出来上がった看板を、梯子を使って屋根に設置したのは東雲だ。家族三人で、作り上げた店だった。
東雲は懐から、小さな布袋を取り出した。あの日父に渡された布袋。十年間、開けることのなかったそれを掌の上で逆さに返す。じゃらじゃらと数個の石が零れ落ちた。石はどれも親指の先ほどに小さいが、それらは確かに留め石だ。その中のひとつに映っていたのは、東雲の母・ルリエだった。大輪の花のような笑みを浮かべ、その腕には赤子を抱いている。まだ生まれたばかりの東雲の姿だった。別の石には、父も映っていた。父は幼い東雲を肩に乗せ、母が横でそれを見ている。――小さな石たちに留められた光景は、どれも幸せな家族の肖像だった。東雲の記憶からは欠落していた、幸福な母の姿がそこにあった。
(母さんは、不幸なんかじゃなかった)
――死して尚これほどまで想われる人が、生前幸せでなかったはずがないでしょう。
少年の言葉を思い出す。彼の言う通りだった。こんなに華やかな笑顔を作ることができる人が、不幸であるものか。
これまでの自身の記憶の混乱は腑に落ちるものではなかったが、今の東雲には、『不幸な母』という存在は自ら作り出した幻影であったという事実だけが、すべてだった。
袋の中からひらり、朱色の羽根が落ちる。金と引き換えに少年から受け取った羽根魚の羽根。それを掌の上の石と共にまた袋の中へ戻し、口を縛って荷台に移す。潰れてしまわないように、そっと荷物同士の隙間に差し入れた。
店の入口に『出張中』の張り紙が揺れる。
しばらくこの店に戻ってくるつもりはなかった。
母が東雲に見せたいと言っていた――そしてその母が還っていったであろう海を、この目に映すまでは。
きっと、父は東雲を待っているはずだ。伴侶が愛した海を見ながら、自らの意志でその場所を探り当てて来るであろう息子を。
もしかすると、この不可解な記憶の混濁は、試練として父が東雲に与えたものなのかもしれない。
父は言った。「お前自身で決めろ」と。
ふっ、と思わず笑みがこぼれた。
手押し車の持ち手を掴み、ぐっと力を加える。車輪が回り、それはゆっくりと進み始めた。前へ、前へ。暗褐色ではなく、深い青に輝く、遥かなる海を目指して。
――遠く小さくなっていく『越後』の裏庭で、色とりどりの朝顔が風に吹かれ、別れを告げるかのように蔓を揺らしていた。
(了)