朱色の午睡

 目が眩むような夕暮れ色に包まれて目を覚ます。ぼんやりとだが、はっきりとした意識がある。〈それ〉に形があるのかと問われれば否だが、形がないことは決して存在しないということではない。形の有無は些細な問題だ。重要なのは〈それ〉が確かにあるということである。

 ゆらゆら。〈それ〉を包み込むこの空間はまるで大きな揺りかごだ。揺りかごは、その一歩外に出ると朱色の巨大な鳥居として存在している。揺りかごの外の世界は『天空街』というが、そこに住む住人はこの鳥居を『天空門』と呼んでいた。〈それ〉を『門番』と呼び始めたのも同様だ。かくして〈それ〉は『門番』となった。自らの意志を一切表すことなく。

 

 *

 

 朱色の巨大鳥居――天空門の下に、青年は立っていた。表情を出さず、一文字に結んだ口元は知的だがほのかな気難しさを感じさせる。腕を組んで鋭い目つきで門を睨みつける青年の頭髪は茶色とわずかな白が混じり、その中から獣の毛で覆われた短い耳が顔を出していた。それは彼が知恵ウサギであることを示している。

 知恵ウサギは人とほとんど変わらぬ姿だ。ただし人にはない獣の耳と尾が生えている。そしてそのほとんどが、人以上の高い知能を持つ。一説によれば、神から知恵を盗み、その知恵を以って天空街を作り上げたウサギの末裔が知恵ウサギなのだという。しかしそれも言い伝えにすぎず、今も信じているのは知恵ウサギの中でもほんの一部だ。

 門の下に立つ青年、知恵ウサギのアコも、くだらない噂話だと考えていた。

 アコはおもむろに、目の前に佇む朱色の柱を掌で二度叩いた。ぺちぺちと音がする。触れたそこは人肌ほどに温かい。柱の表面がわずかに波打った。

「門番、見てるんだろう。早く出て来い」

 鳥居を見上げ、静かに呼びかける。柱がさらにうねった。アコが眉間にシワを寄せる。眼光の鋭さが更に増す。

「壊すぞ」

 その言葉に、鳥居全体が縮みあがる。この鳥居を壊すことなど決して不可能なのだが、普段冗談など言わない彼の恫喝は〈それ〉にとって発せられるだけで恐怖だ。

 すぐに〈それ〉が姿を現した。柱の裏側に隠れるようにして立っている。鳥居と同じ朱丹色の長い髪が、身につけた黒い着物によく映える。その髪がそよ風に揺られ日光に煌く様は、溜息さえこぼれるほどだ。しかしアコに言わせると、そのすべてがだらしないのだという。感嘆ではなく落胆の溜息をつくのは、天空街でも彼ぐらいであろう。

「出てきたから、壊さないでよ」

 低く曇りのない声色でそう言いながら、柱の陰から〈それ〉は出てきた。着流した濡羽色の着物は、同色の帯でゆるりと締められている。はだけた胸元から覗くのは、ふくよかな乳房だ。

 アコは途端に顔を赤くして、目を背けた。

「ど、どういうつもりだ、門番!」

 驚くのも無理はない。アコの知る門番は男の姿だ。それなのに、同じ顔の女が――しかも胸の谷間を大きく露出させて――現れたのだから。

「どうもこうもないよ。僕が男だとか女だとか、関係ないでしょ。重要なのは僕が門番という存在であり続けることだよ、アコ。君だって、解ってるくせに」

 門番はヘラヘラと笑った。

 元々〈それ〉、つまり門番は、この天空門そのものだ。否、そのもの、と言い切ってしまえば語弊があるかもしれない。門番は門に宿る思念であり、本来形を持たず、この大鳥居の内に留まっている。形がなくとも、この天空街では『ある』ということが重要な要素だ。天空門を守る門番という存在があれば、その姿形はさほど問題ではない。問題があるとすれば、それは門番を見る者の主観的なものであろう。

「ええい、やりにくいったらないぞ。とにかく、早く元の姿に戻れ」

「元の姿というと僕は消えてしまうけど」

「揚げ足を取るな、馬鹿者が。男になれと言っているんだ」

 ひょうひょうとした門番の態度に、アコは声を荒げた。

 門番は叱られた子供のようにぺろりと舌を見せると、身を翻して柱の裏に隠れた。そして柱を一周回るようにして戻ってきた時には、アコのよく知る姿になっていた。胸元はだらしなく開いたままだが、そこにはもう豊かなふくらみはない。

 

 普段と同じ門番の姿を確認し、アコは安堵の溜息を零した。そしてまた眼光鋭く門番を見据える。

「ようやく姿を見せたと思えば、まったくお前ときたらどうせ昼寝でもしていたんだろう。仕事もせずにな。私は忙しいんだぞ。次の予定も詰まっているし。最近はリルもカイも私の言うことを聞きやしないし、そうまるでお前みたいだ」

 アコの小言はほぼ毎日の日課だ。くどくどと耳にタコが出来るほど同じ事を繰り返され、最近では門番も慣れた様子で黙って聞いていた。ほとんどが下らない愚痴なのだ、これは。それはアコ自身にも分かっていた。知恵ウサギの中でもアコはより賢く、自尊心も高い。それ故に周囲からは避けられがちな存在だ。こうして愚痴を零すことのできる相手もいない。

「言うことを聞かないといえば、お前はまた仕事をしなかったようだな。あれほど私が言って聞かせたというのに」

 それは昨日のことだった。天空門をくぐってやってきた人間が、江戸地区でさ迷っていたのだ。それをアコが見つけ、宿まで案内した。

 本来であれば、街に入る前に知恵ウサギが案内役として人間につくことになっている。けれど知恵ウサギは多忙だ。毎回毎回、すぐに駆けつけられるわけではない。そうなると門番が必要となる。知恵ウサギが現れるまで、訪れた人間を天空門の下に留めておくのだ。留めておきながらも街の案内はしない。それは知恵ウサギの役割だからだ。

 つまりは門番が役割を果たさなかったがために、人がひとり、迷子になったということである。

「私が見つけたから大事に至らなかったものの、もしおかしげな輩にでも捕まったりしたらどうなっていたことか……」

 アコは再び深い溜息をついた。眉間には更に深いシワが刻まれる。

 門番の頬が、ぷうと膨れた。つんとそっぽを向いて、柱に背を預ける。

「そうやっていじけても、許さないからな。私は怒っているんだぞ」

 言って門番との距離を詰めた。詰めたはずだった。二人の距離はまた少し開いた。アコは動いていない。門番も動いてはいない。しかし門番の身体が後ろ半分、朱色の柱に埋まっていた。

「怒ればいいじゃないか。どうせ僕なんて役立たずさ」

 ふて腐れた表情のまま、門番は呟いた。

「僕に気安く触ってくる人間なんて相手にしたくないよ。昨日の女の子なんて、僕を蹴ったんだよ。酷いでしょ。アコはそんな奴の相手出来るのかい? 僕は出来ないね。たまにこっちから声をかけたりしたって、自分のことばかり喋って僕の話なんてぜーんぜん聞いてくれやしないし。そもそも僕ってほら、照れ屋だからさ。口数も少ないし。だから知らない人とあまり喋りたくないんだよね」

 羽虫の飛ぶ音ほどにか細い声でぶつぶつと零しながら、門番は背後に一歩下がった。ぬるりと柱の中へと身体が溶ける。長い髪を垂らし、うなだれた頭だけが、柱から生えているような状態だ。

「ああ、もう」

 アコは右手でぐしゃぐしゃと頭を掻いた。小さな獣の耳が揺れる。

「わかった、怒らないから」

 すぐにアコが折れる。このままでは埒があかないと踏んだのだ。柱から飛び出た頭を両手で掴み、そして引っ張る。黒い着物を身に着けた門番の身体が、吐き出されるように排出された。そのままの勢いで、門番が石畳の上に転がる。あっ、と思わず声を上げ、アコは慌てて門番の身体を抱え起こした。双方とも図体は大人だというのに、まるで親と子供だ。

 門番の顔を覗き込めば、つい先ほどまで消えてなくなりそうな雰囲気すら醸し出していたというのに、したり顔でニマニマと笑みを浮かべていた。

「世話焼きめ。――あ痛っ」

 門番は再び放り出され、尻餅をついた。抗議の声を上げるが、アコに氷のような視線を向けられ、すぐに口をつぐんだ。

 

「つまらない話ならいくらでも口は動くというのに、人見知りだって? お前は門番だろう。そんなこと言っている場合か」

 強い口調で言う。門番がまた目を逸らした。このままでは先ほどと同様の事態になりかねない。アコにはこれからの予定が詰まっているのだ。ここでこれ以上時間を食うことだけは避けたい。けれど厳しく忠告したところで、門番が言うことを聞くとも思えなかった。

 アコは大きく深呼吸をした。深く息を吐く様は、まるで今日幾度目かの溜息をついているようにも見える。そうであれば、それは諦めの嘆息だ。

「いいか、とにかく門番である以上、門番としての役割を果たさなければいけない。けれど少しだけ、大目にみよう。ほんの少しだけだぞ」

 ゆっくりと言い聞かせるように、棘のない言葉を選ぶ。アコの言葉はさらに続く。

「とにかく来訪者を見ていること。見ているだけでいい。案内はすべて私たち知恵ウサギがやる。ただし、困っている人間にだけは声をかけること。門の下に待たせておけば、できるだけ急いで私が駆けつけるから。いいか、案内はしなくていいんだぞ」

 そして沈黙。門番はじっとアコの目を見つめている。暫しそうした後、門番がおもむろに立ち上がった。裾についたほこりを掌で払う。そのまま歩き出し、柱の周囲をぐるぐると回り始めた。

「しないよ、街の案内なんて。だって僕は門番だし、知恵ウサギの仕事に関わったらリルやカイにまた悪戯されるじゃないか」

 リルとカイは、アコと同じ知恵ウサギだ。まだ若く――知恵ウサギは外見以上に歳を重ねているので、立派な成人なのだが――アコは二人の扱いに手を焼いている。

「それに、ここを見てよアコ。あいつら僕の身体に落書きしてくれちゃって。あとが怖いから何も言わなかったけどさあ」

 門番は柱の根元を指差した。そこにはマルだのバツだの他愛もないことが、よりにもよって墨で描かれている。あとで二人を厳しく叱っておかなくては。アコは頭の中にある予定帳に、一筆書き入れた。

「それに僕は人見知りじゃなくて照れ屋だよ、照れ屋。照れ隠しで喋ってるの。だって喋らないと間が持たないでしょ」

 門番は得意げにそう言って、胸を張ってみせる。照れ隠しでペラペラと喋ることができるなら、それは果たして照れ屋と呼べるのだろうか。アコは疑問を感じたが、言わずにおいた。

「話が終わったなら、僕はもう戻るよ」

 門番が告げ、くるりと踵を返した。ゆるく結った夕暮れ色の長い髪が大きく揺れる。

 アコに背を向けたまま、ひらひらと手を振って、そのまま門番は柱へと溶け込んでいく。完全に姿が消える瞬間、またね、と聞こえた気がした。柱の表面は波紋を描き、それもすぐに消えた。

 天空門の下に一人残され、アコは佇む。その口元に浮かぶのは呆れ笑いだ。

 日はまだ高い。

 午後の仕事の前に、やらなければいけないことができてしまった。

「まったく、手を焼かせてくれるな」

 アコの呟きは誰にも届くことなく、そよ風によってかき消された。

 

 *

 

 ぬるま湯に全身を浸したようだ。心地よくもどこか気だるい。意識だけの存在である〈それ〉がその唯一を手放すことはないが、これは確かに午睡だ。

 どろりと蜜のように濃密で穏やかな時の流れ。

 ふと、意識の端をくすぐられるような感覚があった。

 外側からもたらされているものだと、すぐに気付いた。朱丹一色の世界から薄い膜を通すようにして、それを確認する。鳥居の下で、アコが門柱を布で拭っていた。その布は黒く汚れている。

(お節介なやつ)

〈それ〉はくすくすと笑った。

 夕焼け雲に包まれたかの如き朱に染まったまどろみの中に、その意識を浮かべながら。

(了)

       
« »

サイトトップ > 小説 > ファンタジー > 天空街 > 朱色の午睡