暗褐色の海

 

 ――留め石。持ち主の鮮烈な記憶を留める石。空及び海が映し出された石は深い青に輝く。ひとつの石につき、刻まれる光景もまたひとつ。

 去り際に父が残した言葉の通り、母の本棚からは留め石に関して記された書物が出てきた。とはいっても、図鑑のほんの片隅に載っていたこともあり、探し当てるまでに相当の時間を要したのだが。

 何度も読み返すうちに、留め石の概要は一言一句漏らさず覚えてしまった。同時に絶望した。父から渡された留め石に映っていたのは、紛れもなく海だったからだ。

 これは、母の記憶だ。

 母は結局、地上よりも長い時間をこの場所で過ごした。にも関わらず、彼女はなお、地上を、海を恋しく思っていたのだ。結果、母の中の海は留め石へと記憶されたのであろう。東雲はそう結論付けた。

 やはり母は地上に帰りたがっていたのだ。

 自らの意思に反して、見知らぬ世界で暮らすしかない不幸をさぞや嘆いたに違いない。

 考えるほどに、東雲は生への活力を失っていった。母を不幸なまま死なせたというのに、自らが幸せになっていいはずがない。ただ淡々と死ぬまで生きる――そして母が遺した『越後』を守ることが、自分に出来るせめてもの贖いなのだ。

 

 母が死んでから、今年でもう十年になる。

 白い葬列によって母が運ばれていったあの日と変わらず、空は今日も深い青に染まっている。朝顔はあれきり白い花をつけていない。

 太陽が空高くでギラギラと輝いているにも関わらず、暑さをさほど感じないのは、足元に広がる剥き出しの雲のせいだろう。毎日屋外でじっと椅子に掛けていても、別段苦痛に感じることはなかった。

 相変わらず、道具屋『越後』には客が来ない。道具屋の体を保つためには、そろそろ手押し車でも出して行商くらいしたほうがいいのかもしれないと、東雲は考えていた。けれどもその思いもぐずぐずと燻ったままで、今日になってもいまだ実行できずにいる。

(何をやっているんだ、俺は)

 東雲は深い溜息をついて、項垂れた。ここ数年で溜息の数が随分増えていた。それは母に対する申し訳なさと、自身への呆れからくるものだった。

 おもむろに着物の袖口に手を入れ、指先に触れた硬く冷たいものを摘み出す。丹念に磨き上げられた、掌にのるほどの小さな石だ。石の中には暗褐色の海が広がっていた。東雲が父から受け取った留め石だ。東雲は溜息を吐く度にこの海を見ては自らを戒めている。色褪せた海の景色は、東雲に、母の悲しい人生を思い起こさせた。母のためにも自分のためにも、このままではいけない。石を見ると必ずそう思いなおすのだが、けれどどうにも身体に力が入らない。ただ脱力したように、朝顔を眺めることしかできなかった。

 けれど同時に、どうしようもなく自堕落な現状に安堵感を覚える。こうやって悩み腐っているうちは、幸福な人生を送ることなど到底不可能なのだから。

 重い枷を外せぬまま、苦悩を抱え、堕落していく。これくらいの不幸が、丁度いい。

 

 指に摘んだ石を、太陽に透かす。色褪せた海辺が煌いた。石の中、砂浜に寄せる波は永遠に返すことはない。止まった時の中で海と砂浜、そして空だけが存在している。東雲が幼い頃、母が描いた海の絵とまったく同じ景色だった。

『石が映し出す景色の意味を考えろ』

 不意に父の言葉を思い出す。

「意味、ね。どうせ、母さんが地上に帰りたがってたってことだろう?」

 自虐的な失笑が東雲の口から漏れる。

 そんなことは、痛いほど知っている。

 陽にかざし、指先で玩ぶように角度を変えて海を見る。留め石――持ち主の記憶を記録し、その光景は色褪せたように映る。空と海を除いては。

「青く……青く映る、空と、海」

 呪文のように、本に書かれていた留め石の説明文を暗唱する。それに呼応するように、暗褐色の海が一際輝いた。

 東雲は訝しげに眉根をひそめる。

 本によれば、留め石に記憶される海は青く輝くはずだ。しかし東雲の指先で光るそれは――。

「まったく、俺は腑抜けになってしまったのか? こんなことに、今まで気付かなかったなんて……」

 父が言いたかったのは、きっとこれだったのだ。石に留められた海が青く染まらない理由を考えろ、と。

 ううう、と東雲が喉から唸る。空いた手で頭を掻いた。父譲りの紫がかった銀髪は乱れ、まるで鳥の巣だ。

 十年間、散々悩んだ。石の伝える意味を即座に決め付け、それ以上考えることをしなかった。生きないように、死なないようにと過ごしてきた。結果、本当に見るべきものを、東雲は見ていなかったのだ。

 今日幾度目かの深い溜息が、庭中に広がった。

 

 * * *

 

「すいませーん。誰かいませんかー」

 留め石への思索に沈潜していた東雲を現実に引き戻したのは、張りのある若い男の声だった。突如として聞こえてきた声に、東雲は椅子から飛び上がり、そして雲の上に落ちた。母が死んでから『越後』を訪れる客がいなかったものだから、久方ぶりの呼び声に、東雲の心臓は大きく早鐘を打っていた。

(客か? 本当に客なのか?)

 雲の果てにある道具屋を偶然訪れる客なんて、いるはずがない。まさか妖怪の類いではあるまいか。声に呼び寄せられるように店に出た途端に、頭からバリバリと食われてしまったりなんてことは――。

 は、と息をつき、おぞましい妄想を霧散させるように頭を振る。

 ともかく、その姿を確認してみなければ真相は分からない。

 東雲は椅子から腰を上げ、店への板戸を、ほんの少しだけ開けた。細い隙間から、そろりと店内を見る。

「誰もいないのか? 道具屋『越後』……看板は合ってるけど」

 埃臭い店内にいたのは、若い男――いや、少年だった。金ボタンのついた黒い詰襟を着た、黒髪の少年。きょろきょろと辺りを見回し、少年は溜息を吐いた。その手には、小さな紙切れを握っている。

 口ぶりからして、この店のことをどこからか聞いてやって来たのだろう。

 東雲はほっと胸を撫で下ろした。普通の人間ならば、客として迎え入れねばなるまい。

「はいはい、お待たせしましたね」

 営業用の一段高い声色で喋りながら、東雲は戸を開けた。

「道具屋『越後』、店主の東雲でございます。どのような御用ですかね、お客人」

 板間に膝をつき、一礼。すべて母から教えられた接客術だった。仕入れ係の東雲が、客を相手にすることなどないと高をくくっていたが、まさか実際に役立つ日が来るとは。この寂れた店に客が来るなど、東雲は夢にも思っていなかったのだ。

「ああ、どうも。呼んでも出ないから、誰もいないのかと」

 軽く会釈し、少年は微笑んだ。

「道具屋を探していたら、知恵ウサギがここを教えてくれました」

 そして、手にしていた紙切れを東雲の前に差し出した。滑らかで整った筆跡で『道具屋・越後。地上人のルリエさん』と書かれ、簡単な地図が添えられていた。

「ルリエさんが店主だと聞いたのですが……」

 ルリエ、ルリエ。

 東雲の中で少年の言葉がぐるぐると回る。父以外の口からその名が出たのは初めてだった。ルリエ――もういない、母の名。

 懐かしさと悲しさが、胸の中で混ざり合う。ざらりとした不安感が、東雲を包んだ。他人から母の名前を聞くことは、腹の内を探られているようで不快だった。吐きそうだ。ああ、本当に、すべて吐き出してしまいたい。弱音も、懺悔の言葉も、何もかも。

 十年だ。十年間、東雲は一人で悩み苦しみ、諦め、堕落し、死なぬように生き長らえてきた。辛くなかったといえば嘘だった。けれどそれも仕方がないものだと割り切っていたからこそ、孤独にも耐えることが出来た。

 けれど今、決して自分からは口に出さなかった母の名を第三者から出され、東雲がたった一人で抱えてきたものがぐらぐらと揺れている。

「……めさん、東雲さん」

 肩を揺さぶられ、我に返る。すぐ目の前に、少年が立っていた。

「大丈夫ですか。顔色が悪いみたいだけど……」

「あ、ああ。ああ……そう、かな。はは……」

 額からは、じとりと嫌な汗が流れていた。少年に笑ってみせたが、漏れたのは空笑いだ。口端も引きつっているに違いない。

「せっかく訪ねてもらって、申し訳ないのだが……ルリエ――母はもう死んだのですよ」

 東雲の言葉に、少年はえっと声を小さく声を上げた。そして眉尻を下げ、ごめんなさいと詫びた。

「オレ、知らなくて。本当に、何て言っていいか……」

「お客人は謝られなくても。こちらこそ、わざわざお越しいただいたのに、申し訳ない。……母に、何か御用が?」

「いえ、用自体は道具屋にあるんですが……」

 少年はそこで言葉を止めた。首をわずかに捻り、何事か思案しているようだ。

「では、母に用があるわけでは」

「ええ、はい。そうですね。ただ――」

「ただ?」

「話をしたい、って。……ここにさらわれてきた人と、話してみたいと思ったんです」

 ――母は地上からさらわれてきたのだと、父は言っていた。

 そして今、珍しい様相の少年が、地上人である母との対話を望んでいる。

「君は、もしかすると」

「さらわれて、ここへ来ました」

 やはり、と内心息を飲んだ。

 

 少年は、自身がさらわれた時のことを東雲に語った。東雲とて興味がないわけではなかったし、わざわざ来訪した客に対しての申し訳なさもあったから、自然と話を聞く流れになったのだ。

 まだここにさらわれて日が浅いこと。

 この世界が本当に空の上にあるということ。

 天空門という場所で門番に出会ったこと。

 そして知恵ウサギに、地上人がいるこの道具屋を教えてもらったこと。

 その語り口は淡々としたものだが、表情は少し喜色を帯びている気がした。

 ひとしきり語ると、少年はふうと小さく息を吐いた。水でも、と東雲が言うと、少年は首を左右に振った。

「東雲さん、ありがとうございます」

「え?」

 予想もしなかった謝辞に、東雲は頓狂な声を上げた。

「オレは、同じ地上から来た人がここでどう暮らしているのか知りたかったんです。でも、ルリエさんは亡くなっていて……直接話すことはもう出来ないけど、この店の中で東雲さんと話したら、なんとなくわかりました」

「わかったって」

「この店にはまだ、ルリエさんという存在があるということです」

 少年は口元に微笑をたたえていた。その表情ははにかんだ子供のようでいて、どこか達観して見える。聖者のような神々しささえうかがわせた。

「母さんの……?」

「さっきも話したんですけど、オレはここに来てすぐ、門番に会いました。そして言われたんです。『既にこの街には君という存在がある』って。存在があるってことは、自分以外の誰か、或いは世界から――望まれ祝福を受けた命なんだと、オレは感じています。だからルリエさんの存在は、まだこの場所にあると思ったんです」

 店に、まだ母が――?

 東雲は周囲を見渡した。棚を、商品を、天井を、囲炉裏を、寝床を。勿論母の姿があるはずもない。母が死んだあの日から、この店は何も変わっていない。母の姿が消えたこと以外は。

「母は、もういない。店を見れば分かる? 馬鹿を言うんじゃない。君に何が分かるんだ。俺が一体どれだけ、どれだけ苦しんでいるか――」

「そうやって」

 少年は掌を東雲の口元にあてた。思わず口をつぐむ。

「あなたがルリエさんを想い続ける限り、ルリエさんの存在は消えない。消えたりしない、決して」

 少年の瞳に吸い寄せられるようだ。その漆黒の奥に、街が、雲が、空が、世界が、見えた。

 少年が東雲を見つめているのか、東雲が少年を見つめているのか。引き合う磁石のように、双方が視線を逸らすことはない。

 ――この少年は、一体、何者なんだ。

 単に無礼なだけの子供なのか、それとも、世界に祝福された神懸り的な存在だとでも?

「死して尚これほどまで想われる人が、生前幸せでなかったはずがないでしょう」

「幸せ、だって?」

 母は不幸の底で死んだ。幸福であったはずがない。母が幸福になりえる要素なんて、どこにある? 最期まで、故郷の海を想い続け、その無念を抱いたまま母は死んだのだ――。

 少年が視線を外すと、東雲は座ったまま糸が切れたようにだらりと脱力した。

 少年も、心なしか顔色が悪い。肩を落として、彼はひとつ大きく息を吐いた。

「ん……、ちょっと喋りすぎ、ですね。馬鹿にしたりとか、そういうつもりじゃあないんです。ごめんなさい」

「やはり、水を飲んだほうがいい」

 さすがに体調が悪そうな子供を怒鳴りつけようという気は起こらなかった。

 

 

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