カミさまのいうとおり!第6話
ハッとして、私は寿老を見た。
彼が小さく頷いた気がした。そして、再び口を開く。
「それぞれの意見が完全にひとつになることなんてないんだ、琴子。重要なのは――」
そこで、言葉を止めた。ちらと、私の背後に視線をやったかと思うと、途端、彼の顔に、柔らかな微笑が戻った。
「っと、僕の話は、ここまでだ」
「え、先輩?」
急に話を切り上げられ、呆気にとられながら、立ち上がった寿老を見上げる。
「最後に君の質問に答えるよ」
寿老は私の方に一歩近付いてから、私の目の前で膝を折った。座った私と、彼の目線が合う。そして、彼が私の右手を取り、
「な、な、なんっ……!」
素早く、指先に唇を落とした。
その感触に、ぼん、と頭のてっぺんから音がした気がした。一瞬で顔が真っ赤になるのが分かる。そこに追い撃ちをかけるように、指先から唇を離した彼は、顔をそのまま私の顔に寄せた。彼の、色の薄い髪が、私の額に触れる。
『みんな、琴子ちゃんのことが、好きなんだよ』
不意に恵比寿の言葉が頭に浮かんだ。
「すべては君の決意次第だ。成功するもしないも、ね」
彼はそう囁く。彼の瞳の中に、私が見えた。
以前も、彼がこうして私の手を取ったことがある。けれど、あの時の彼は、バラのそばでキラキラとしたオーラを放っていて、ジュテームジュテームと囁く、フランス貴族のようなものだった。しかし今の彼は違う。キラキラもしていない、ジュテームなんて口走らない――そういえば、バラを持たない彼は、こんなにも堂々とものを言う人物だっただろうか?
私の知らない、寿老がそこにいた。それとも、私の知っている寿老が、変わってしまっただけなのか。
「先輩、は、私のことが」
無意識のうちに私は口走っていた。恵比寿の言葉がそうさせたのか、彼の目がそうさせたのかは分からない。
寿老は、身を引き、立ち上がる。少しはにかんだような色が、その表情に混じった。
「好きだって、もう何度も言ったはずだよ」
彼はそう、はっきりと言う。そして「それじゃあ、またね」と続けて、私の横をすり抜けて行った。
「待っ――」
慌ててベンチから腰を上げ、振り返る。
寿老はこちらを見ないまま、改札へと向かっていく。そしてその反対側、駅舎の入口には、見慣れた姿があった。
「おい、待て寿老!」
「ふ、福禄先輩?」
福禄は、珍しく大きな声を出しながら、寿老の背を追って改札に足早に歩み寄る。が、寿老はそんなことを気にする様子もなく、ホームの奥へと消えていった。福禄もそれを追うかと思われたが、しかし彼は改札の前でぴたりと止まったまま、ホームへ入ろうとしない。
「あの、入らないんですか」
私が尋ねると、福禄は恨めしそうな目で私を見て、
「――今日は定期を持ってない」
ふてくされたように言った。
「忘れたんですか」
尋ねる。
「違う。……たまたま持っていないだけだ」
(やっぱり、忘れたのね……)
銀縁眼鏡のレンズの向こうで、彼の視線が逸されるのを、私は見逃しはしなかった。
今は会いたくないと思っていた人物のひとりと、こんなに早く顔を合わせてしまうとは、まったく思いもよらなかった。しかし、寿老との間の出来事が衝撃的だったせいか、幸いにも気まずさはあまり感じずにすんだ。
私は福禄に連れられ、一旦は踏み入れた駅舎を出た。その駅舎の前に、お世辞にも大きいと言い難いロータリーに、シルバーのセダンが横付けされているのが目に留まる。
その車の、助手席のパワーウィンドウが下がり、そこから覗いた運転手がひらひらと私に手を振った。
「数時間ぶりだな、弁財」
「か、金鉢先生」
運転席に座っているのは、私のクラスの担任教師・金鉢だった。ちらと横目で、隣に立つ福禄を見る。金鉢と福禄は、実は従兄弟同士であり、しかも何故か同居しているという。何ともワケアリのにおいがするが、さすがの私も、そこまで深く尋ねたりはしていない。デリカシーというものを、私だって持ち合わせているのだ。
「今日もふたり、一緒に帰るのですか」
「それがな、聞いてくれ弁財。こいつ、今朝寝坊してな。電車に間に合わないからと、しかたなく一緒に連れてきてやったんだが、そのせいで定期をわ――」
「おい黙れ大樹」
車内の金鉢と、車外の私の間に、福禄が割り込む。
「弁財も、まともに聞いてるんじゃない。……とりあえず、ほら」
溜息混じりに言いながら、福禄は後部座席のドアを開けた。
「乗れ。家まで送る」
「へ……? でも私、忘れずに定期持ってますよ。ほら」
バッグにぶら下げた定期券を、福禄に見せる。
「嫌味か」
「いえ別にそういうわけでは」
「じゃあどういうわけだ」
会話を遮るように、ぷぁん、とひとつ、大きなクラクション。金鉢の車の後ろに、数台の車が列をなしていた。私と福禄はちらと目を合わせてから、大慌てで車に乗り込んだ。
ロータリーを半周して、公道へ。
車内からガラス越しに、駅を振り返る。寿老は、もう電車に乗ってしまっただろうか。ふとそう考えたところに、「ひとりなんだな」と金鉢がこぼした。
「……寿老は電車で帰った。まったく、何をしたいんだか」
座席越しに、助手席に座った福禄が肩をすくめたのが目に入る。
「そりゃあ、あれだ、恋の炎を燃やしているんだろ。眩しいほどの青春だな、羨ましいよ。ああ、せっかくだし、俺も混ぜてくれないか」
「こ……っ、馬鹿言うな、誰が、そんな――」
「あれ、もしかして自信がないのか? そんなことだから寿老に先を越されるんだぞ、仁くーん?」
金鉢はからからと笑いながら、運転席から伸ばした腕で、助手席の福禄をこづいた。
この空気、まさに完全アウェイである。私は後部座席で小さくなりながら、彼らふたりのやりとりを聞いていた。会話の意味がまるで分からない。そもそも、何故福禄は駅に現れたのだろうか。金鉢は車から降りていないはずなのに、口ぶりからすると私がひとりではなかったことを知っているようだった。
「あ、あのう」
カチカチと、軽快なウィンカーの音が車内に響く。
私の声に気付いたからか、ふたりの会話がやむ。
「なんで、その……ふたりして駅に?」
恐る恐る尋ねる。
ゆっくりと、車が左に折れた。そして再び直線道路出る。
左折で傾いた体が元の体勢に戻ると、助手席から、福禄が、光を放つ平べったく長い板のようなものをこちらに寄越した。
両手で受け取る。それは、開かれた折り畳み式の携帯電話だ。黒い塗装が施された外面は、触れればそこからつやつやとした感触が伝わる。ひとつひとつのキーがぼんやりと光り、その上にある液晶画面は、キー以上に煌煌と白く輝いていた。
液晶画面には、小さな手紙のマーク、その横に寿老貴人の名がある。私は携帯電話を持っていないので、はっきりとは分からないのだが、これは恐らくメールというやつなのだろう。そして寿老と記された下に、こうある。
『天高最寄り駅待合、六時十七分の下り。弱ったところに付け込むのは、フェアではないので』
「……暗号?」
さっぱり解読不能である。メールとは、こんなに難解なものなのか。私は首を捻りながら、携帯電話を福禄へと戻した。
「分からないならいい」
彼は振り向かず、後ろ手にそれを受け取る。
「弁財、新聞部の女子と――それから、恵比寿に会ったんだろう」
「え……」
何故話してもいないことを、福禄が知っているのだ。まさか今の暗号の中に、それらの情報が含まれていたとでも? しまった、携帯電話を返すのが早すぎた。慌ててメールの本文を思い出す。しかし一体この文章のどこに、そんな情報がつまっているというのだ。漢字をすべてひらがなに直し、組み換えるとかだろうか。ええと、『あまこうもよりえきまちあい、――』駄目だ、頭の中で解くにはあまりにも難解すぎる。これはルービックキューブで同じ色を一列揃えるよりも大変な作業だ。そもそも、ルービックキューブは完成させられるようにできていないと私は信じて疑わない。あれが全面揃うなんて、きっと宇宙人の仕業に違いない。
「君のことだ、きっと変なことを考えているだろうからあえて言うが……今のことはメールには書いていないからな」
「ぐぅ」
図星をつかれ、ぐぅの音しか出ない。福禄との付き合いも半年を超え、彼から漂う、私の扱い方に熟れてきた感が、時々恨めしくなる。
「まさかとは思うが一応訊く。『やめる』と言い出す気か、君は」
「違――います、けど」
恵比寿に言われた諸々のことが原因で、迷っているのは事実だ。
私はちらと、バックミラー越しに金鉢を見た。
「私は運転に集中しているから、今は何も聞こえないな」
私の視線に気付いた金鉢が、そう言って目を逸した。気を遣ってくれたのだろう。
訊くなら、今しかない。
「先輩が」
ゆっくりと口を開く。私は、すべてを福禄にぶつけようと決めた。彼はそれを望まないかもしれない。私自身の心の問題なのだから、私の中だけで終わらせてしまった方がいいのかもしれない。けれど、もうこれ以上、耐えられそうになかった。
「福禄先輩が卒業してしまったら、天高七福神計画は、どうなるんですか」
――言ってしまった。緊張で鼓動が速まり、心臓が千切れてしまいそうなほど痛い。
「そ、それに……っ」
堰を切られた川の流れは止まらない。私の意思なんて関係なしに、勝手に言葉が溢れてくる。
「もし私が、みんなを説得できなかったら――いえ、もう説得は無理なのかもしれないけど……この計画は、駄目になってしまうんじゃないですか? 私より、先輩が……福禄先輩が、みんなを説得した方がよかったんじゃないでしょうか? そのほうが、変な誤解を、受けずに――」
「苦痛に感じるなら」
私の言葉を遮るように、福禄が声を張った。狭い車内で反射したそれが、篭った響きをまとって私の耳に届く。
「やめても構わない。君が望むなら、一向にな」
「え……?」
初めて彼の口から出た消極的な言葉に、私はシート越しに彼の肩を見た。彼はいつだって未来を見ていた。農業の将来を考えていた。私が悩んでいても、いつもそっと手を引いてくれた。そんな彼にそんな言葉を言わせているのは、間違いなく私だ。ややあってそれを認識してから、酷く投げやりな態度になっていた自分に気がついた。
車内の窓ガラスが、やや曇っている。口を噤んだままの金鉢の指先が、空調のスイッチに触れると、ぬるい風が、私の頭上をゆるりと流れた。
車内に低く響くエンジン音。時折、ウィンカーが瞬く。
「僕は、七福神計画を企てる以前から、農業改革の必要性を考えていた。だから、この天高に入った。
君が入学してくるまでの丸二年間、何もしていなかったわけじゃない。農業の改善すべき点、さらに発展させるべき点、制度面、或いは農業従事者の立場――様々な立ち位置から、改革について検討を重ねてきた。それをまとめた草案が……君も読んだだろう。『天高七福神計画』の計画書だ。
たまたま、君と毘沙門が入学してくることを、事前に教師の会話の中で知ったんだ。教師は皆浮かれていた。縁起がいいだのなんだとな。
農業は、知っての通り、天候に非常に左右される産業だ。それ故に、土地の神を、水の神を、天の神を、畏れ、敬ってきた。工業が発展し、農業の機械化が進んだ現代になってもなお、その影響は色濃く残っている。だから、教師の喜びようを見て、思ったんだ。この千載一遇のチャンスを、神への信心の残る農業界を改革するための、起爆剤に出来ないか――と。
つまり、僕は『七福神』を……君たちを、利用したんだ。僕の考えた計画のために」
「利用……? でも、そんな、たったそれだけの理由で、福禄先輩が何度も私を助けてくれるとは思えません……」
私が悩んでいると、彼は助言をくれた。時に背中を押してくれた。それが、七福神の名を利用するためだけのことだったと? いや、彼はそんな了見の狭い男でない。彼はいつだって、広く物事を見ている。企みが明らかになって、彼自身が不利益を被るようなことを、彼ともあろう者が、するはずがない。
それに、あの日、第一実験室で彼と交わした握手。彼のてのひらの温かさ。真剣な眼差し。その内に、悪意があるとは、私には到底思えなかった。
「まったく、君は……。――まあ、いい。とにかくそういうことだ」
「もし、私が断っていたら……」
「君は、断るはずないだろうと思っていたからな。あの新入生代表挨拶を聞けば、君の農業に対する意欲は、誰にだって伝わるだろう。だから、始めに君に声をかけたし、君を説得役にしたんだ。
もし君に説得できない人物がいるなら、僕にも無理だろう。時には相手のテリトリーの内側にまで踏み込まないと、理解し合えないこともある。それぞれの傷をひた隠しにしながら共に行動することはできるだろう。しかし、服の下に隠された傷に、知らずにでも触れてしまったら、そこから始まる関係の瓦解は早い。
傷を舐め合うべきだというわけではなく、互いの傷を理解することだ。そして、それは僕にはできない。どうしても打算的に動いてしまうからな。僕と違って、感情的に動き、かつ勇敢で、時々猪突猛進なところが玉に瑕な……そうだな、例えるならば、オオミミハリネズミのような人物の方が、適役というわけだ」
福禄の口調は、至って真面目だ。しかし、彼らしいといえば彼らしい、言葉の括り方に、私は小さく吹き出した。
「それ、例えになってないです。私のことじゃないですか」
「君だとは、誰も言っていないが」
そう言った彼の声に、僅かながら、からかうような笑いが混じる。
「これは『七福神計画』以前からあった構想だ。それに、たった一年二年でどうこうできるものでもない。入念な準備が必要だ。そのために、今がある。だから、僕が高校を卒業しようが、そこで終わるはずもない。もし終わってしまうような生半可な計画であるなら、いっそそこでたち消えてしまった方がいいだろうが、生憎そんなつもりは僕にはないからな。
――いいか、君の意思で決めるんだ、弁財。今言ったように、君がもし計画から降りたとしても、僕は農業改革の実現を諦めることはない。これまでのことをなかったことにして、僕と君が出会う以前のように、互いがそれぞれの道を歩く――ただそうなるだけのことだ。
遠慮なんていらない。これ以上苦しむのが嫌なら、僕の手を、今すぐ振り払えばいい」
ああ、これが福禄仁という男だ。
私のように、悩み、狼狽えて、誰かに噛みつくことなど決してない。常に冷静でいて、内側には確かな情熱を秘めている。彼の考えは、私の頭ではそのすべてを理解することなどできないだろう。けれど、これだけは確実にいえる。
「結構、優しいですよね。福禄先輩って」
私が「降りる」と言い易いようにしてくれているのだ、彼は。いくら私でも、それくらいは分かる。彼は理由もなしに、多くを語るひとではないし、ましてや自らを貶めたりするようなことを口にしたりはしない。
「……君は僕を買いかぶりすぎだ」
「ふふ、そういうことにしときます」
彼の呟きに、私は頬を緩ませながら返した。
車内はすっかり、ひんやりとした空気で満ちている。
私は、いつの間にか、立ち消えになってしまうことが恐ろしかったのだ。福禄たちと進めてきた、この計画が。
恐れは悩みを呼ぶ。そして恵比寿の言葉によって、それは助長される結果となった。
『僕は自分の行動が無駄になることが嫌だ』
恵比寿にも、恐れがあるのだろう。農業がなくなってしまえばいいとさえ、彼に言わせしめた何かを、彼はいまだ抱えているのだ。
――彼をそんな思いにさせたままで、いいのか。
私は、膝の上に置いた拳を、ぐっと握りしめた。
このままでは、終われない。いや、終わってなるものか。
「私、やめませんから」
私は、座席越しの福禄の背中に向かって、はっきりとそう言った。
「そうか。ならいい」
福禄は、振り返らない。それでいい、と私は思った。明日からは、また普段通り、何ら変わらない彼と私に戻るのだ。
文化祭まであとひと月半。けれど、もう焦る必要はない。もし私が、残る二人を説得できなかったとしても、農業改革自体が消えてなくなるわけではないのだから。だからといって、もう諦めたりもしない。
「絶対に、ふたりを口説いてみせますっ!」
「く、くく、くど、口説くって、きき君はその彼らを」
私が声を張ると、何故か福禄が動揺しながら言う。
「仁くん、口説くってそういう意味じゃないから」
ゆっくりとした動作でハンドルをきりながら、金鉢が指摘する。福禄は、さらに慌てたように、
「そそそ、そそそれくらいっ! 知っている!」
声を震わせた。
「話が終わったところで、弁財。ひとつ質問があるんだが」
ひとり挙動不審な福禄を差し置いて、金鉢がまたバックミラー越しに視線を寄越した。
「はい?」
「家はどっちだ」
「……は?」
まさかの問いに、私の口からなんとも間の抜けた声が漏れた。
「え、知っているんじゃ?」
彼は、私のクラスの担任だ。担任というものは、受け持ったクラスの生徒ひとりひとりの住所を把握しているものじゃないのだろうか。私は、四月の初め、自宅から学校までの通学経路を細かく書類に記載させられたのを思い出した。小中学校のように、家庭訪問はなかったが、あの書類を見ているならば、やはり自宅の場所を、大まかながらでも把握しているはずだ。
窓の外は既に暗い。時折ぽつりぽつりと設置されている外灯の光を頼りに、景色を確認したが、それは自宅周辺のものとはまったく違うものだった。駅を出て、一時間は経った。車であれば、とうに自宅に辿り着いている時間なのだが――。
「勿論、知っている。何せ、私は君の担任教師だからな」
「では何故訊くのですか」
「自宅の場所は把握している。だがな……道が分からない!」
「えっ」
金鉢があまりに堂々と宣言するものだから、私は何も言えなかった。
「……すまん」
運転席に座る金鉢の肩が、しゅんと力なく落とされる。
うっ、なんなのだ、この普段とまるで違う、しおらしい態度は。い、いや、落ち着け。これは狡猾な彼が企てた策略に違いないのだ。意外な一面を見せ、普段との落差で相手の心を奪う――彼ならばやりかねない。危うく引っかかるところだった、危ない危ない。
「だからカーナビを付けろとあれほど……」
「いやお前がナビをしないからこんなことになったんだからお前が悪い」
「知らない場所を案内できるか」
「ほう? ひとに車を出させといて、そんなことを言うのかこの口は?」
「と、ともかく!」
ふたりの言い争いに割って入る。なにしろこれではきりがない。
が、しかし。ここが私にとっても見覚えのない場所であることも事実だ。私とて、案内ができるわけでもない。そこで私はある提案を思いついた。
「こ」
「こ?」
「交番に行きましょう!」
沈黙。空調が冷たい空気を吐き出す音が、車内に虚しく響く。
現在位置が分からないのだから、ましてや交番の場所など分かるはずもない。そのことに私が気付いたのは、言葉を発してから数秒後のこと。
結局、福禄の携帯電話を借りて自宅に電話し、周辺の目標物(といっても、あるのは交差点に設置されている案内標識ぐらいだった)を告げ、父に遠隔でナビを頼むという手段を用いることで、私は無事自宅に帰り着くことができたのだった。
悩むことは、これからもあるかもしれない。しかし、未来への不安は、もうない。
その日、私は久しぶりに、ゆっくりと、深い眠りにつくことができた。
(続)