カミさまのいうとおり!第6話

 

 異様に冷たく、べとりとまとわりつくような汗が、背中を伝っていく。暑いのか、寒いのか、もはや分からなくなっていた。ただ、時折ふるりと、全身が小さく震えた。

「寒いの? 琴子ちゃん」

 恵比寿の問いに、首を左右に振って答える。しかし彼は、手にしていた釣竿を地面に斜めに刺すと、立ち上がり、自身が身に着けていた制服の上着を脱いだ。

「風邪、ひいちゃうよ」

 そしてその上着を、私の体にかけた。そして、少ししゃがみこむと、覗き込むようにして、私の顔を伺う。心配げな彼の表情に含みは感じられない。だからこそ、余計に、どうしていいかが分からない。続けるべき言葉が見つからない。

 両肩が温かい。彼がかけてくれた上着のおかげだ。その温度を体が感じると、同時に彼に対する『何故』という思いが激しく湧き、苦しくなる。

「あ、の――」

「こういうこと」

 何を言おうとしたわけではない。ただ口をついて出た呼び掛けだったが、それも恵比寿によって遮られる。

「あまり喋りたくないんだけどねー。ま、琴子ちゃんだから、言ってもいいかな」

 そして先程まで自分が座っていた折り畳み椅子を、私に差し出した。座れというのだろう。戸惑っていると、ヒロシが私を促すように「めぇ」と短く鳴いた。恵比寿はといえば、私の返答も待たず、すぐそばを流れている川の岸にぽつんとある岩に、さっさと腰をおろしている。私はおずおずと、椅子を引き寄せ、そこに座った。

「色々訊きたいこと、あると思うけど。とりあえず、ぼくは、この国の農業がなくなってしまっても構わないと思ってるんだよね」

「え……っ、それってどういう」

 思わず尋ねる。

 彼なりに何か思うところがあるのだとは感じていたが、それでも、仮に農業高校に通う者の口から、そんな言葉が飛び出すとは、私は予想もしていなかった。

「もう、無理だよ。分かるでしょ、琴子ちゃん。ボールを坂の上に置くと、下まで転がっていくよね。もう、ボールは坂の上に登ってこれないでしょ? そういうこと。農業はね、もう来るところまで来てるんだ。せめて、球体じゃなくて立方体だったら、何とか坂を登ることもできるかもしれないけど、そういう足がかりも、結局は自分たちで、全部削りきってしまった。転がっていくのは、楽だからねー。

 そりゃ、例外があることも知ってるよ。でも、それもごく少数だ。六対四に意見が分かれたとしても、最終的に四にあたる意見は黙殺される運命だ。ましてや、農業に関してはそれが、八対二、九対一、いや、それ以上の差があるかもしれない。ごく少数の有志が『協力してまた坂の上に登ろう』と声を上げたところで、どれだけ同意を得られるかな? ね? 坂の下、もう転がるところもない、最終地点。そこって、とっても居心地がいいんだ」

 彼はそう続けた。その抽象的な物言いに、目眩がする。

「要は、何をやっても無駄だってこと。ぼくは自分の行動が無駄になるのが嫌だ。それに、少数意見が封殺される世の中も、散々なんだよね。そういうことをひっくるめて全部さ、これっぽっちも気にもとめないで、呑気にこうやって――」

 彼は地面に刺した釣竿を、指先でつついた。竿先から垂れた糸が揺れる。魚がかかる気配は、まだない。

「釣りでもして、ずっと気楽に生きていたいっていうのは、我儘だと、きみは思うの? 琴子ちゃん」

 恵比寿は僅かに苦笑を浮かべていた。

 不意に視界の端で、白いものが起き上がる。羊のヒロシだ。ヒロシは落ち葉を踏み歩き、恵比寿に近付くと、鼻先を彼の膝に何度も軽くぶつけた。

「心配しなくても大丈夫だよ」

 言って恵比寿がヒロシの頭を撫でると、ヒロシはまた、彼の足元に足を折って伏した。

「何より、さ」

 彼が言葉を切って、私をじっと見つめた。彼はもう、笑ってなどいない。

 随分と日が傾いてしまった。彼との間の距離はたった一メートル少しだというのに、それでも、薄暗さが増したこの場所では、彼の顔が少しずつ見え辛くなってきていた。

 頭上から、秋風が吹き降ろした。それが頬に触れ、何だか酷く寂しい気分になる。黙り込む私を前に、口を噤むことのない彼も、同じような心持ちだろうか? それとも――。

「琴子ちゃんが、ぼくの手を借りたいのは、ぼくが『恵比寿』だからだよね。たった、それだけの理由だってことを、何より、僕が嫌だと思っているから。だからぼくは、手を貸したくない。貸さない」

 彼は私から目を逸し、釣竿に手を伸ばした。地面に刺さっていたそれを引き抜く。水中に垂らされていた糸の先が露になる。そこには、餌はおろか、針さえついていなかった。

「ね? この通り、餌がなければ、魚は釣れないよ。ねえ、琴子ちゃん、気付いてないの? ……餌にされてるんだよ、琴子ちゃんは」

「餌……? そんな」

 恵比寿が何を言っているのか、まるで理解出来ない。私が――餌?

「あの計画に手を貸すって言ってる人たちは、『農業の未来のため』じゃなくて『琴子ちゃんのため』に動こうとしてる。計画の主軸と、それを行う者の軸のズレは、ほんの僅かでも致命的だよ。だから――何度でも言うよ。そんな計画、絶対にうまくいかない」

「そんな、そんなことな――」

「あるよ」

 恵比寿は腰をあげ、素早く私の方に歩み寄ると、私の右手首を掴んだ。冷えた指先が、皮膚に食い込む。

「あるんだ。世の中なんて、そんなことだらけなんだよ」

 そんなことがあるはずがない。そもそも、これは福禄が持ちかけてきた計画なのだ。私もそれを理解した上で、みんなに『彼の提案だ』と併せて説明した。それなのに『私のため』に計画に賛同するなんてことが、あるはずがない。布袋も、寿老も、大黒も、それぞれが農業の将来について考えているからこそ、彼らの賛同が得られたにすぎない。

「違います!」

 声を張る。

「違わない!」

 恵比寿も同様に声を荒げた。

 瞬間、彼の顔が、ぐっと私に近付いた。

 唇を、乾いた何かがかすめた。

 掴まれた手首に、一層力が込められる。

「……みんな、琴子ちゃんのことが、好きなんだよ」

「何を――」

 恵比寿の目が、私の目を捉える。辺りは薄暗いが、それでも、彼の瞳の中に、私だけが映り込んでいるのが分かる。それを認識した途端、先程唇をかすめていったものの正体に気付き、カッと顔が熱くなった。

「ぼくも……ね」

 言って彼は伏せ目がちに視線を逸す。手首の拘束が、するりと解かれる。すぐに一歩、後退る。

 手の甲で、唇を拭う。それでも僅かに触れたその感触が、まだそこに存在しているかのような錯覚がある。

 思考が繋がらない。断片的な言葉が頭の中を、ただぐるぐると回っている。

 恵比寿の後ろで、羊がゆっくりと体を起こしたのを、私は見た。

 気付けば私は、恵比寿に背を向けて、足早にその場を去っていた。どこをどう歩いたのかは覚えていない。いつの間にか、私は林を抜けた場所に立っていて、露出した膝の周辺には、いくつもの引っかき傷がついていた。

 振り返るが、林の中から恵比寿が追ってくる気配はない。

『この国の農業はいっそなくなってしまったほうがいい』

『ぼくの手を借りたいのは、ぼくが〈恵比寿〉だからだよね』

『餌にされてるんだよ、琴子ちゃんは』

『みんな、琴子ちゃんのことが、好きなんだよ』

 恵比寿の言葉が頭の中で繰り返される。両手で耳を塞いでも、その声が消えることはない。

 腹立たしいとか、悲しさとか、そんな感情よりも、悔しさの方が勝っていた。まったく成長していない自分自身に対する悔しさだ。農業界を改革すると決めた、その意思すら、まっすぐに保てない。

『そんな計画、絶対にうまくいかない』

 その一言に、私は酷く揺さぶられていた。元々私の中にあった『福禄が卒業した後の計画への不安』が、更に不安を助長する。

 背筋がふるりと震えた。両手で肩をきつく抱く。そこで私は、恵比寿の上着を羽織ったままだったことにようやく気付いた。

 薄暗い校庭。校舎では、ぽつりぽつりといくつかの教室に灯りが点いている。

 ――福禄も、まだ校内に残っているだろうか。

 ふとそう思うが、けれど今は、どんな顔をして会えばいいのか分からない。教室に荷物を置いたままだから、それを取りに行く際に、鉢合わせなければいいのだが。

 とにかく、教室に戻るにしても、この上着をどうにかしてからだ。

 羽織っていた上着を脱ぎ、それを手に思案していると、すぐそばの温室にまだ灯りが点っているのが目に付いた。

 ふらりとその入口に向かう。入口に立った途端、品の良い甘い香りが、私の花をくすぐった。

 温室の奥、鉄製のアーチに緑が巻付き、そこにいくつもの鮮やかな赤がある。遠目に見ても、それがバラだということが分かる。寿老が育てていたバラだ。七月にこの場所を訪れた時は、蕾すらついていなかったというのに、今では立派な花が咲いている。秋は、一年に二回来る、バラの季節だ。

 中へ足を踏み入れようとした、

「琴子」

「寿老……先輩」

 その背後から肩を叩かれ、振り返る。そこには、寿老が立っていた。手には学校指定のバッグをふたつ、持っている。ひとつは、恐らく彼の。そしてもうひとつを、彼は私に差し出してくる。それは、教室に置いたままにしていた私のバッグだった。

「――君さえよければ、駅まで一緒に帰らないかい」

 温室から漏れる薄オレンジ色の灯りが、寿老を照らしていた。日本人離れした彼の顔に、深く陰影が浮かぶ。やや疲れたようにも見える表情だが、しかし口元には柔らかな微笑がたたえられている。

 胸が、はじけてしまいそうだと思った。苦しくて、切なくて、けれどそれ以上の何かが、胸いっぱいに膨れあがっている。そうなってようやく、頭の中に響く恵比寿の声が、少し遠くなった気がした。

 頬が熱かった。手の甲で拭う。そこでようやく、私は自分が涙を流していることに気付いた。次から次へと涙が溢れ、それを止めなければと思えば、逆に嗚咽すらこぼれ出してくる。

 返事が出来ない代わりに、私は何度も頷いてみせた。

 そんな私の頭を、寿老がそっと撫でる。彼の手の温かさが、じわりと染み渡るように、伝わった。

「はい、どうぞ」

「あ、あの、ありがとうございます」

 寿老に手渡された紙コップを両手で受け取る。その指先に僅かに熱を感じた。紙コップに注がれているホットココアの表面からは、ほのかに湯気が立ちのぼっている。

 私の涙がおさまるのを待ってから、ふたりで学校を出た。しかし駅に辿り着いたはいいが、生憎と電車が出たばかりだったので、次の便が来るまで、私と寿老は待合室のベンチに座って待つことになった。この駅を通っているのはローカル線であるため、登下校の時間帯以外は便数が極端に減ってしまうのである。

 待合室の自動販売機で、彼は私に飲み物を買ってくれた。季節はまだ秋のため、缶飲料には冷たいものしか並んでおらず、しかし冷えた体には温かいものがいいだろう彼が言うので、私は紙コップ自販機に並ぶ商品の中から、ホットココアを選んだ。

 カップの縁からそっと息を吹きかけ、表面を適温にしてから、一口飲む。とろりとした砂糖の甘味、その中にほのかにココアの苦みを感じた。それが喉を下って胃に収まると、体の内側からじわりと温められているようで、気分が落ち着く。そうなってようやく、冷静になれた気がした。

 恵比寿の上着は、寿老が預ってくれることになった。彼なら恵比寿と親しく、クラスを知っているし、何より、私自身、またすぐに恵比寿と会うのは気が進まなかった。

 寿老は私の隣に腰を下ろし、同じ自動販売機で購入したホットコーヒーをすすっている。

 駅までの道中、彼は私に何も訊かなかった。このまま私が喋らなければ、これからも彼が、私と恵比寿との間にあったことを尋ねたりはしないだろう。寿老は、私が恵比寿に何を言われたのか、大体見当がついているのだ。だから、私が戻ってくるのを待っていた。これは私の勝手な想像などではない。十中八九事実に違いないと私は踏んでいた。

 

「寿老先輩は――」

 言いかけて、ふと思案する。

 私は、どうするつもりなのだろう。

 これまでやってきたこと、これからやろうとしていることを恵比寿に否定され、これから一体、どうすればいいというのか。

 もう一口、ココアをすする。胃に溜る温かさが、私の背を押した。

「寿老先輩は」

 これから自分が口に出す問いに対する彼の答えを聞くのが恐かった。

 自然、カップを握る手に力がこもり、紙で出来た緩やかな曲線が歪む。

「この計画……天高七福神計画が、成功すると思いますか?」

 ぶぅん、と、震えるような音が、自動販売機から聞こえてくる。

 駅舎の前にあるロータリーからは、車の、短いクラクション。

 一分にも満たないであろう沈黙が、異様に長いように感じられた。

「君が、僕に、それを訊くのかい」

 彼の言葉は、独り言にも思えた。呟くように漏らされた声は、消え入りそうなほど小さかった。

 寿老はカップの中身を一気に飲み干すと、空になったそれを片手に立ち上がる。自動販売機のそばにあるゴミ箱にそれを投げ込んでから、私の向かいにあるベンチに座り直した。

 その彼の顔には、僅かな微笑すらも浮かべられていない。嶮しい顔つきで、眉根を寄せ、彼は私を見ていた。

 頭上から降り注ぐ蛍光灯の薄青い光が、きちきち、微かな音をたてながら、細かく瞬く。

「君を傷つけたくない、傷ついてほしくない――さっき言ったことだけど、あれは勿論嘘じゃない。君が恵比寿くんに何を言われたのかも、大体予想がつく。彼のことは、君よりよく知っているからね。だから――君が今、随分と傷ついていることも分かっているつもりだ。……ごめん、君からの質問には、ちゃんと答えるよ。でもまず、僕の質問に答えてほしいんだ」

 いいかな。彼はそう、私を促した。

 幸い、待合室には私たちふたりしかいない。それに、元々待合室で電車を待つ乗客はほとんどおらず、到着時間までまだ間があるというのに、みな、改札をくぐってホームで電車を待っているのである。

 私は彼に向かってひとつ、頷いた。

「僕は君に、忠告をした。恵比寿くんのところへ行ってはいけないと。けれど、君はそれでも彼のところへ行った。まず訊くけれど、それはどうしてだった?」

「円先輩に、絶対に訊かなければいけないことがあったから、です」

『円先輩』と私が口にした途端、寿老の顔が更に厳しいものになる。しかしそれも瞬間のことで、すぐに元の表情に戻った。とはいえ、いまだそこに笑みはない。

(そう、私は訊かなければならなかったのよ。どうしても)

 恵比寿とも、よく話さえすれば、理解し合える。そんな浅はかな思い込みが、私にあったことは事実だ。けれどそれを抜きにしても、私は彼と会わなければいけなかった。彼の考えを、知らなければならなかったのだ。

「そして、君は恵比寿くんと会った。そこで話をしたね。きっと、こんなことを言われたはずだ。――『あの計画には協力したくない』」

「ど、どうして――」

 思わず立ち上がりかけて、やめる。

『どうして寿老がそれを知っているのか』

 そんなことを、問い質してどうするというのだ。それに、彼は最初から言っていたではないか。『彼のことは分かる』と。

 私は恵比寿のことを何も知らない。けれど、寿老は彼のことを知っている。たったそれだけの、しかし同時にそれは大きな違いでもあるのだ。

「そう言われた時、君はどう思った?」

「……何故そんなことを言うのか、と」

 そういえば、恵比寿は、何かしらの事情があるような物言いだったことを思い返す。しかし誰しもそれぞれ、事情を抱えているものだ。彼だけが特別なわけではない。この寿老貴人という人物だって、話もせぬまま黙って横で見ているだけでは、誰の目にも、ただ花を育てているだけに思えるだろう。けれどその裏側には、花卉栽培にかける情熱、また、幼い頃からの想い、そして将来への展望がある。それらは彼の外見からでは決して分からない。外からでは、その本質を知ることは難しいのだ。

 しかし、寿老とフラワーパークで話をした時、私は最初、彼の言い分に納得できず、彼もまた、私の話を受け入れなかったのではなかったか。

 あの日、一度は彼の説得を諦めかけた。彼とは理解し合えないと思った。『何故そんなことを言うのだ』と――

 

 

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