カミさまのいうとおり!第5話
その後彼は何事もなかったかのように、いつもの穏やかさを取り戻しており、また再び私の手を取ろうとすることもなかった。
「少し寄り道してもいいかな」
職員室で鍵を返却し、昇降口で土足に履き替える。そうして校庭に出たところで、布袋からそう提案があった。あまり時間はかからないからと彼が言うので、私は了承し、校門の方向ではなく、校舎裏へと向かう彼の後に続いた。
高台に建つ校舎より低い位置に、変わらずそれはあった。青々とした葉を繁らせた稲が目に鮮やかな、校内田である。それを目下に見た私たちに向けて、少しずつ黄味を帯び始めた空から、さあと風が一吹き。暑さも和らいた夕暮れに肌を撫でるそれは、何とも言えぬ心地よい感触だった。
校内田周辺の畔道は綺麗に整えられていて、所々に刈り取った草が積まれている。そのうちのひとつに、一人の生徒が新たに草を積み上げていた。離れた場所から見ても、背が高くがっちりとした体型のその人物に、どうやら私も見覚えがあるようだ。
「おーい、剛ー、もう六時過ぎてるよー」
布袋が声を張り上げて(それでもあまり大きい声ではない)、作業中の生徒――大黒剛を呼んだ。しかし大黒は、布袋の呼びかけに気付く様子もなく、黙々と作業を続けている。彼は軍手をはめた手で、畔道に残っている草をかき集め、また山の上に積んだ。
「気付きませんね……」
「はは、あいつは昔からああいう感じなんだよ。集中すると、周りの声が聞こえなくなるんだね」
「あいつ……」
布袋の口から『あいつ』とは。彼は福禄とも仲が良いが、だからといって彼が福禄のことを『あいつ』と呼んだところなど、私はこれまで聞いたことも見たこともない。そういえば、入学式のあの日も、布袋と大黒は、元々親しいように思えるやりとりをしていた気がする。まさかとは思うが、福禄と金鉢のように、彼ら二人も「実は従兄弟でした」ということはないだろうか。従兄弟に限らず、再従兄弟でも鳩でもいいのだが。いや、よくはないけれど。ええい、ともかく、彼らも少なからず何らかの親しい間柄であることは間違いないのだ。
「あの、大黒先輩って――」
「剛は小さい頃から親の手伝いばかりしていてね。あ、親の手伝いっていうのは、米作りのことなんだけど。あいつの家、米農家なんだよ」
先手を打って、二人の関係性に言及しようとしたところで、布袋が話を始めた。彼の説得に当たった時にも、そしてその後も何度か感じたことだが、彼がこうやって饒舌になった時は、ひとの話などまるで耳に入らないのである。こうなれば、誰も口を挟むことができず、彼の話が終わるまで黙って聞くしかないのだった。
「小中学生の間って、家の手伝いより友達と遊びたい年頃だよね。なのに、剛はクラスの友達から遊びに誘われても、断ることが多かったんだ。特に春から秋にかけては、米農家は忙しいからね。でも冬はあまり手伝えることもなくて、流石に友達と遊ぶこともあったかな。
あれは、中学一年生の時だったと思う。九月に運動会があったんだけど……その日が、何と大事な稲刈りの日だったんだ。とはいえ、流石の剛も学校行事をサボるわけにもいかないから、一応運動会に参加したよ。運動会では、剛が所属していた組が優勝してね。優勝した組はその日の夕方から、打ち上げ会をすることに決まってたんだけど……ふふ、今思い出しても、あれはすごかったなあ」
「……すごいとは?」
くすくすと思い出し笑いをする布袋を促すように、短く口を挟む。
「閉会式が終わるなり、走って帰っちゃったんだよ。『稲刈りがあるから』って言ってね。それがもう、すっごい勢いで。保護者も生徒も、勿論先生達も、目が点だよ、点。
それくらい、剛には重要なことなんだよね。米作りっていうのは。僕にとっても玉ねぎ栽培は大切だけど……でも、やっぱりあいつの熱心さには、負けるかな。周りが見えなくなるぐらい集中してるのに、ほら、見える? あの顔」
そう言って布袋は、作業を続ける大黒を指さした。私たちと彼の間にやや距離はあるが、その表情は辛うじて判別できる。
(あ……)
胸の真ん中を、一突きされたような衝撃があった。
大黒は、刈り取られた草をただ積み上げるだけの、単純な作業をしているだけだ。それなのに彼は、気の合う友人と時を過ごしているような、とても単純作業をこなしているとは思えないほどの、心底楽しげな表情を浮かべているのである。
単純作業となると、動作は単調になりがちで、大概は表情が無くなるものだが――工場の流れ作業などが典型的だろう――考えることといえば、作業を効率良く終わらせるための手段であったり、作業が終われば何をしようなどということから、作業に全く関係ないことを考えてみたりと様々だが、しかしながら、それをあまり表情に出すような作業者など、ほとんどいないだろう。けれど、彼はどうだ。
(そういえば、田植えの時も……)
ふた月ほど前の出来事を、私は思い返していた。
あの日、私と福禄は肩を並べて腰を土手に降ろし、作業を見学していた。水が張られた田の中で、ごうんごうんとエンジンを唸らせて走る田植え機。運転していたのは、大黒だ。慣れた手つきで田植え機を操る彼の表情は――ああ、ふた月経った今でも鮮明に思い出せる。それはそれはきらきらと、目が眩みそうなほど輝く笑顔だった。
「剛は、いつだって先のことしかみてない。今年も美味しいお米がとれるっていう、明るい未来だけを信じきってる。剛にとっては、それが全てだからね。余計な心配とか、作業に対する苦労とかも、そんなことは、きっと考えたこともないと思うよ。考えたことがないっていうと、おかしいけど……そういったことすらも、プラスに転換して考えているってことだね」
大黒のことを語る布袋は、まるで自分のことでも話しているように、楽しげで、嬉しそうだ。
「明るい、未来――」
『弁財、君は何を見ている?』
『本当に、今、君が見ているのは田植えか?』
私は、田植えを見ながら、何を考えた?
福禄が、田植えを通じて何を見せたかったのか?
あの日、農業科の三年生に、見学を歓迎された。私たちの他に見学者はいなかった。――農業高校という場所にも関わらず、稲作に興味を持つものの少なさに、私は内心憤った。これが、彼が伝えたかったことであろうか? あるいは、詳しく知りもしない稲作に対し、安直な不安を覚える私自身への警鐘であった? ――否、恐らく、どちらも違ったのだ。
『剛は、いつだって先のことしかみてない』
そう、未来だ。私が大黒の田植えに見出すべきだったのは、明るい未来なのだ。
苦労を苦労をとも思わぬ心。目標へ向かってただ突き進む決して曲げない信念。そうしてそんな自らの手で作り出す未来を、私は見ていなかった。見ようとしていなかったのだ。
私たちがやろうとしている計画には、きっとかなりの時間を要するだろう。だからこそ、早く動き出さなければいけないわけだが――私はこの計画の成功を信じている。だが、それだけでは、駄目だったのだ。これまでのように、足元の小さな不安ばかり拾っていっては、来るべき明るい未来に影が差す。信じるべきは、成功を遂げた未来の姿のみ。それだけを信じることによって、不安や苦労すら、笑顔に変えることができるのだ。あの、大黒のように。
確信に、胸が震えた。思わず、布袋を見た。布袋も、私を見ていた。
「あの……幸宗、先輩……」
彼は、私の考えていることが分かるのかもしれない、と、そんな有り得ないことを思った。しかし、私の不安を的確に掬いとって、答えに導いてくれる――そんなことが、こう何度もあるものだろうか?
本人に、尋ねてみるべきか。
しばしの逡巡。先に口を開いたのは、布袋だった。
「剛を見ていたら、思うんだよ。今の僕は、玉ねぎ農家として失格だって」
言って、彼は苦笑する。
「え?」
「玉ねぎより大切にしたいものを、見つけてしまったからね」
「……それって――?」
私が問い返そうとしたところに、田の方から「おおい」と大きな呼び声がした。そちらに視線を移せば、畔道の端で大手を振る大黒の姿があった。どうやら、ようやく作業が終わったらしい。
「剛、三人で一緒に帰ろう」
布袋が張り上げた声は、今度は大黒に届いたらしい。おう、という景気のいい返事と共に、大黒が校庭に続く畔道に向かう。
「弁財さん」
布袋は小声で私を呼んだ。
「はい」
「さっきのは、みんなには内緒だよ」
ね? と念を押され、私はただ頷くしかなかった。彼が玉ねぎ以上に想いを傾けるもの――そんなものがあるのかと、不思議に思いながら。
それからすぐに大黒がこちらに到着し、その話はこれ以上言及することもできなくなった。
大黒は作業着に長靴という出で立ちだったが、制服に着替えずこのまま帰宅するということで――長靴だけは昇降口に戻って履き替えたが、そこで丁度施錠をしに来ていた教頭と鉢合わせ、渋い顔をされた――私たちは、三人で学校を後にした。
「大黒先輩も、電車ですよね」
駅までの道すがら、私は隣を歩く大黒に尋ねた。とはいえ、これはほぼ確信をもった問いだった。
結局、直接訊くことはできなかったが、布袋の話から察するに、彼らは従兄弟でも再従兄弟でもなく、どうやら幼馴染という関係のようだ。幼馴染ということは、互いの家は近いはずだ。ひとりが電車通学ならば、当然もうひとりも電車通学圏内に住んでいるということになる。
私の質問を聞き、大黒ではなく布袋が何故か小さく笑った。
「弁財さん、剛はね――」
「おう、弁財、俺は駅からは自転車だぞ!」
布袋の声を割って、大黒が言った。
「え、自転車?」
大黒の言葉に、私は首を傾げる。
「……大黒先輩の家は、幸宗先輩の家より学校に近いんですか?」
ごく自然な疑問を投げかけると、今度は布袋だけでなく大黒までも笑う。
「ごめんね、弁財さん。混乱させて。剛の家は、僕の家の隣だよ。間に玉ねぎ畑と田んぼを挟んでるけど」
(それって隣……なのかしら)
思いつつも、ここは口には出さないでおく。
「でも自転車なんですよね」
再びの問いに、
「米作りは体が資本だからな!」
大黒が勢い良く答え、がっはっはと大声で笑った。周囲に彼の笑い声が響く。
「な、なるほど」
迫力に押されながら、私は頷いた。つまり農業に必要な体力作りを、日常的に行っているということだろう。本当に、彼は頭からつま先まで、稲作一色に染まっているらしい。
大黒のことはまだ深くは知らないが、端から見ていて、彼のこの稲作に対する姿勢は、目を瞠るものがある。稲作に勤しむ彼の姿を私に見せた福禄の気持ちも、今であればよく理解できた。
夕暮れにはまだ少し早く、空の端の方からようやくオレンジ色が混じり始めたぐらいだ。これまでより体が随分と軽く感じられるようになった私は、大黒や布袋との会話に花を咲かせながら、駅へ続く坂道を下った。
高校生活初めての夏は、まだ始まったばかりだった。
(――なあんて思ってたけど、今年の夏は特に何もなかったわね……)
グラウンドでクラス別に整列した私は、校長の挨拶が始まるまでの間、すっかり回想に耽り、そんなことを思っていた。
今年の夏に私がしたことと言えば、学校に足を運んで、福禄と布袋と共に広報資料を準備をしたぐらいだ。後は、変わったことといえば、寿老と出かけたことぐらいだろうか。
『チャンスよ琴子! 今なら三人のハートをまとめてがっちりゲット!』
寿老と行ったフラワーパークでの出来事を思い起こしていると、不意にあの場でかや子が言った言葉が頭に浮かび、ひとり小さく吹き出した。
かや子は不思議な女の子だと思う。私が福禄らと親しくしていると、先のような言葉を次々と吐く。少女漫画や少女小説が大好きでよく読んでいて、その影響を受けて恋愛に興味津津なお年頃なのかと思いきや、彼女自身は別段、男子を目で追ったりするようなことはしない。それなのに、私に対してだけは、そういった妄想を働かせることが多いのであった。
(まあ、それはそれで楽しいから、構わないけど)
軽い笑いが口元から自然とこぼれる。かや子がどんな子であれ、私は入学式の日に彼女から受けた声援を、生涯忘れることはないだろう。退学の危機に瀕した(と、勝手に勘違いした)私の元を訪ねてきた男たちに立ち向かう私に、あの時の彼女のささやかな言葉がどれほど力強かったことか! ああ、かや子! 今すぐあなたを抱きしめたい! ――しかし、出席番号順に整列する今、『宇賀』と『弁財』の物理的距離は、天と地ほどに遠いのであった。
校長の話が長いのは、高校になっても変わらない。改めてそう実感させる、大演説がようやく終わり、生徒たちはみなげっそりとした表情で田へ向かい出した。とはいえ、整列したままクラス別に田へ降りることになっているため、私たちが動き出すまではもう少し待たなければいけない。
稲刈りは一年生全員参加で行われる。一年生は、農業科と総合学科の二クラスだ。昨年までは、バイオテクノロジー学科と酪農科、そして農業科の合計三クラスだったのだが、生徒数の激減により、バイオテクノロジー学科を廃し、酪農科は農業科に併合され、酪農コースという形をとることになった。そこに、農業について幅広く学ぶことを目的とした総合学科が新設されたのである。両クラス合わせて、生徒数は五十数名。校内田にそれだけの生徒が横並びになり、与えられた鎌で稲を刈り取るのだ。
校内田の管理は、基本的には農業科三年生が行うことになっているので、今日の稲刈りにも当然参加している。一年生に稲刈りの指導をするのは主に彼らだ。そうして一年生が一時間ほどを刈り取った後、三年生が残り部分を刈るのだが、その際には手作業でなく稲刈り機を用いるようだ。さすがの一年生とはいえ、一時間も稲刈りをすれば、三年生の出る幕なく片付いてしまいそうなものだが……。
「では、総合学科、移動開始。列を乱すなよ、弁財は特にな」
金鉢の掛け声で、クラスメイト達が苦笑混じりの返事をする。
何も、こんな時まで槍玉に上げなくともいいではないか。口端を僅かに上げて私を見る担任教師の態度には納得いかないものだったが、しかし言われた通り列を崩さぬよう、田へと下る。
長方形をした田の一辺に、一年生が一列になると、鎌が配られた。説明によれば、これを使って、目の前の稲だけを刈っていけばいいようだ。鎌というものをこれまで使ったことがない一年生が、私を含めほとんどなので、まずは三年生の手本をよく参考にするように言われ、作業が始まる。濃厚な実りの香りの中へ、私たちは身を沈めた。
束のように生え、どっしりとした穂を揺らす稲を、むんずと掴む。そして根元の方に、鎌の刃を当て、引く――……だけのはずなのに、これがなかなか、切れないのである。鎌の動きは、奥から手前へだ。手前に引けば、そこには当然自分の足があり、それを思うとなかなか勢い良く刈り取ることができなかった。
みな鎌の扱いに悪戦苦闘しながら、稲刈りはぽつぽつとゆっくり進んでいく。なるほど、残りを三年生がやるというのも頷ける。こんな調子じゃあ、一時間で田の全てはおろか、半分終わるかどうか分からない。
私はようやく一メートルほど刈り終わったところで、その場に立ち上がってぐっと腰を伸ばした。周囲を見渡せば、同様に伸びをしている生徒が数人いた。その誰もが、私と同じくらいまでしか稲刈りが進んでいなかったが、
(ぬぬ、あやつ、できる……!)
ここから確認できるかや子の位置から察するに、農業科と総合学科の境あたりに、周囲の倍以上も作業が捗っている箇所があった。
そこを担当しているのは、どうやら男子生徒のようだ。脇目もふれず、黙々と鎌を動かしつづけている。彼の後ろには、稲の束が点々と置かれていた。おそらく、元々鎌の扱いに慣れていたのだろう。そしてこの中腰の作業も苦にならないほど、体力もあるようだ。
(ううん、誰かしら。でも隣のクラスだし、顔を見ても分からないわよね)
私より随分先に進んでしまっているし、作業のために俯き加減で、ここからでは顔ははっきりと見えなかった。私は肩をすくめた。これ以上立ったままでは、注意を受けてしまう。諦めて、再び腰を降ろそうとした、その瞬間だった。
その男子生徒が、背後に稲を置くために、振り返ったのだ。
「びっ」
そして偶然にも、目が、合った。――合ってしまった。
私は慌てて身を隠すようにその場にしゃがんだ。そして何事もなかったように作業に戻る。しかし動揺で鎌を持つ手が震え、いくら引いても稲が切れやしない。
(毘沙門勝利……!)
他の追従を許さない圧倒的作業スピードを誇るその男子生徒は、入学式のあの日、初対面にも関わらず私に求婚をしてきた、あの、あの毘沙門だったのである。
――落ち着け。そんなに驚くことはないじゃないか。学年が同じならば、こうやって一堂に会すこともあろう。いや、そもそも彼は同学年だったのか。それすら知らなかった。何せ、あの日聞いたのは名前だけだった。『毘沙門勝利』という、彼の名前――。いいい、いかん! 何を感慨に耽っているのだ私は! 今は大事な稲刈りの作業中だというのに! 大黒らが精魂込めて育てた立派な稲を、恐れ多くもぺーぺーの一年生である私たちが刈らせて頂いているのだ。作業がうまくいかないなりにも、しっかりと勤めを果たさなければならないのではないか、今は!
「おうっ、弁財、やってるか!」
背後から聞き覚えのある大声で呼ばれ、私の肩が思わずびくつかせた。
「だ、大黒先輩。は、はいっ、何とかやってます」
平静を装いながら、笑顔を繕って返事をすると、大黒は心底満足そうな顔を浮かべた。彼の肌は、毎日の農作業のせいか、すっかり小麦色に灼けていて、一年生のようなジャージ姿ではなく、作業着を身に着けている。
「うん? あまり進んでないな。……よし。弁財、稲を掴んで、鎌を構えてみな」
「え? あ、はい」
私は彼の言葉に従って、再び中腰の姿勢に戻り、稲を刈る格好をした。
「いいか、弁財」
「なななな!?」
大黒の影が、背後から覆い被さってきたと思うと、私の鎌を引く手、そして稲を掴む手に、大黒の手が重なった。布袋よりも、ひとまわりも大きな手だった。背中に触れる彼の胸板から、作業着越しにそのがっしりとした硬さが伝わってくる。ああ、やはり彼は超人かもしれない。一瞬、そのような冷静な考えが私の頭を過っていった。
「稲を持つ手も少し手前に引いてやると、安全に切れるぞ。脇はしっかり締めてな」
彼の操るままに、私の手も動く。ざく、という手応えと共に、根元が断たれ、左手に稲の束が残った。
「どうだ、うまく切れただろ!」
それを確認すると、彼の体がすっと離れた。稲がうまく切れた喜びよりも、突然の接触による驚きの方が大きく、私の心臓は爆発しそうなほど激しく鼓動を打ち鳴らしている。私の周囲のクラスメイトが、何事かと訝しげな目を向けているのが痛いほど分かった。
「あ、ありがとうございます」
気の抜けた声で礼を言うと、大黒が私の肩をばしばしと叩いた。――少し痛い。
「なんのなんの。弁財も卒業したら、米農家だからな。今のうちにしっかり基本をやっとけよ!」
「へ?」
私が米農家とは、一体どういった筋からの情報なのだろうか。間違いにもほどがあるではないか。どうやら大黒は大いなる勘違いをしているらしい。
「あの、私、米農家には」
「やー、楽しみだ! 弁財がうちにくるのが!」
「な、何ですと!?」
うちにくる? それは突撃隣の晩ご飯的な――
「米農家の嫁になると食う米には困らんからな! 安心しろよ!」
――ことが、あるはずもなかった。
一体何がどうなって、彼にこんな勘違いを植え付けてしまったのだろう。違うのだ、と否定する言葉さえ、もはや私の口からは出てこなかった。
「米はいいぞ!」
威勢のいい大黒の声が、がん、と頭に響いた。
私は黙って、彼に向けて拳を突き出し、そしてぐっと親指を立てて見せる。
目眩を覚えながら、頭の片隅で、この分なら計画への協力を彼から取り付けることは、さほど難しくないだろうと考える。また、この出来事をかや子に話せば、彼女を楽しませることができるだろうかとも。
もはや転んでも、私はただで起きるわけにはいかない。何せ、もう九月。十一月には天高七福神計画の大々的広報活動が行われる予定の文化祭が控えているのだ。この際、多少の個人的不都合には、目を瞑らなければならないのである。
そう、例え『弁財が三年生の大黒先輩の嫁になるらしい』との噂がクラス中に広まったとしても――。
(大丈夫よ、琴子。何とかなるわ。……たぶん)
遠くで金鉢が大黒と私を注意する声が聞こえた。またな、と言い残し、すぐに大黒は立ち去っていった。稲刈り機の準備があるのだろうか、三年生が、田の端に集合を始めている。
私もみたび、稲と向かい合った。大黒に教えられた通りに手を動かせば、それまでよりかなり楽に稲を刈ることができた。握った稲の重さ、感触――そういったものにより、胸の内に何とも言えない充実感が宿る。
空は変わらず青く高い。頭上には、赤とんぼがくるくると飛んでいる。
色濃い秋の香りに包まれながら、私は今だけは余計なことは考えず、ただ目の前の豊かな実りに感謝しながら、稲刈りに没頭することにした。
(続)