カミさまのいうとおり!第5話

 

 五月にもなると、大黒たちが田んぼにこしらえた簡易温室の中で、稲の苗はすっかり立派に成育していた。

「弁財、茶」

「はいはい今すぐ。……って、何でやねん! 私のお茶やがなー!」

 目の前に差し出された湯呑みに、反射的に、自前の水筒から茶を注ぎそうになり、慌てて吠える。

 五月中旬、土曜の午後。午後から部活を控えた生徒が数人残るのみのこの教室に、私の声が響く。開け放たれた窓からは爽やかな風が吹き込んでいる。もしかしたら、今の声が外までも聞こえてしまったかもしれない。それほど大きな声だったにも関わらず、同じ教室内で寛ぐクラスメイトは、私の方に見向きもしなかった。入学から一ヶ月と少し経ったことで、彼らも私の言動に慣れてしまったのかもしれない。理解あるクラスメイトだと泣いて喜ぶべきなのか、見向きもされないことに悲しむべきなのか。私はこの学校に入学してから、目立たないように生きることの難しさを、事あるごとに痛感していた。ああ、こんな私に、誰がした? その都度心の中にわきあがる嘆きだけは、どこへ聞こえるともなく、そんなに時間もかからないうちに、私の中からも消えていくのであった。そして悲劇は繰り返されるのである。

「いまいちだな。三点」

 手にした湯呑みの口を私に向けながら、茶を催促しつつ、彼は呆れたように言ってから溜息をついた。

「ノリツッコミの評価なんて求めてませんって。――ちなみに何点満点中?」

 仕方なく湯呑みに茶を注いでやる。その様子に彼は、眼鏡の下で満足そうに目を細めた。

 立ちのぼる湯気を、ふうふうと吹き払ってから、

「一万点」

 ぽつりとこぼす。

「どういう基準ですかっ」

 彼――福禄仁は、基本は真面目な男だった。それは、着崩されることなく身に着けられた制服や、彼の話を聞いていれば、自然と伝わってくる。しかしごくまれに、このようなわけのわからない冗談を言ってくるのが玉にキズだ。

 彼から『天高七福神計画概要』を受け取ってから十日あまり。彼とは、昼休みや放課後などを利用して、この計画概要を元に話し合いをするようになっていた。最初はかや子をはじめとするクラスメイトも、下級生の教室にずけずけと入ってきたインテリ風眼鏡の上級生の姿には驚いていたようだが、今はこの通り、誰も見向きもしない。私のこともそうだが、ひとは何にでもすぐに慣れてしまう生き物なのである。

「――熱いな」

 そう呟いた彼の眼鏡レンズは、真っ白に曇っていた。

「……猫舌?」

「にゃー……」

「えっ」

 かなり近くで、猫の鳴き声がした。まさかこの教室内に猫が? 周囲をキョロキョロと見回してみるが、姿は見えなかった。窓が開いているから、もしかすると外で鳴いているのかもしれない。一瞬だけ聞こえたそれは、か細く可憐な鳴き声だった。きっとふわふわで、もふもふで、小さくて、やわらかで、とんでもなく可愛らしい猫に違いない。

「あ痛。もう、何で叩くんですか!」

 教室内に猫の姿を求めていると、横から福禄のチョップが飛んできた。無論、手加減はされているが、それでも不意打ちとは酷いではないか。

「君は、何というか……」

「先輩、顔が赤いですけど」

「――茶のせいだ。……まあ、いい。そろそろ時間だろう」

 福禄は自身の腕時計で時刻を確認すると、そう言って腰をあげた。

 今日が土曜日にもかかわらず、私が放課後の教室で福禄と茶を啜っていたのは、午後から行われる田植えを見学するためだ。

 校内田の管理を一任されているのは、農業科の三年生。つまり、育苗箱を並べていた大黒も、その一員ということである。農業科の三年生はこれまでの学習の集大成として、生徒だけの力で米作りに挑むのが、この学校の伝統らしい。勿論、多少は教師の指導もあるだろうが、農業科の生徒の実家は、家業として稲作を行っているところも多いためか、その生徒が先頭に立って米作りを行い、そして毎年、無事に収穫を迎えているそうだ。そこで収穫された米は、文化祭で売られることになっており、販売開始とともに売り切れているほどの人気ぶりなのだと、担任である金鉢が話していた。

「よし、行きますか!」

 私も、彼に続いて席を立つ。

「ああ」

 福禄はすぐに私に背を向けて、教室の出入口へと歩き出した。その手には、何も持っていない。

「先輩、忘れ物です!」

 私は机上に置かれていた福禄持参の湯呑みを指さした。中には、まだお茶が残っている。

 廊下に出たところで、福禄がちらと振り返り、

「……戻ったら飲む」

 素っ気なく言うと、すぐに立ち去ってしまった。

 湯呑みからは、僅かだが、いまだに湯気がゆらゆらと出ている。

(福禄仁……これは相当の猫舌だわ……)

 机上に湯呑みを残して、私は慌てて福禄の後を追った。

 

 ぐぉんぐぉんと、唸るようなエンジン音があたりに響いている。田には水が張られており、その端では既に田植え機のスタンバイが完了していた。運転席に乗っているのは大黒で、田植え機の周囲には複数の生徒が集まっている。作業着を身に着けているので、恐らくは農業科の三年生だろう。畔道を辿り、私と福禄も、その集団に合流した。

「すまないが、見学させて貰ってもいいだろうか」

「オネガイシマス」

 多くの上級生を前にすると流石に緊張してしまう。ぎこちなくお辞儀すると 、

「どうぞどうぞ」

「いやあ、見学だなんて嬉しいなあ」

 周囲から温かい応えが返ってくる。私たち以外に生徒の姿がないところをみると、見学は私たち二人だけのようだ。

 田植えは農業高校にとって重要行事なのに、それを全生徒に対して参加を強制参加しないことが私には不思議に思えた。以前私が感じたように、将来は野菜作りを主とした農業で生計をたてようと考えていたとしても、稲作を学ぶことは、従農者にとって決してマイナスにはならないはずだ。いや、学校という場所だからこそ、英国数理社をまんべんなく学ぶように、様々な農業の形に触れる機会を持つべきではないのか。それこそが、次世代農業従事者の意識改革へと繋がり、より良い農業を作り上げていく近道だと――

「おうっ弁財っ! また来たか! 俺は嬉しいぞ! 隣は、えーっと……」

 私たちを受け入れる声に混じって、運転席から大黒が声をかけてきた。私と福禄の顔を見比べて、首を傾げている。

「福禄だよ、剛。僕と同じクラスの。何回か会ってるじゃないか」

 農業科の生徒たちの後ろの方から、何やら聞き覚えのある声がした。それを聞いて大黒は、おお、と合点がいったように頷く。

「そうだった、福禄だったな。ま、今日はゆっくり見ていってくれ!」

 わっはっはと盛大な笑い声が周辺にこだまする。すぐ隣のグラウンドで部活動に勤しむ野球部員の幾人かが、何事かとこちらをちら見していた。そのうちのひとりが飛んできたボールをぽろりと取りこぼすと、大黒の笑い声に負けぬ大音量で、監督と思しき人物の怒声があがった。

「よっし、始めるか!」

 大黒の声を合図に、農業科の三年生が田植え機から離れる。私たちも邪魔にならぬよう、少し遠巻きに見学をすることにして、畔道から出て、グラウンドとの境にある土手に腰をおろした。同時にごうん、という音と共に田植え機が田んぼの中で動き出す。

 田植え機は前半分が覆いのないシンプルな運転席。後部には、緩いカーブを描いたレールが複数があり、その上に、十数センチに育った板状の苗を搭載できるようになっている。田植え機が前進する度にアームが動き、レールに積まれた苗を一定量掴んで、土の中にぎゅっと押し込めるようにして植え付ける仕組みだ。田植え機が通った後には、二、三本ずつの苗が土中から生えたような形で、ゆらゆらと揺れているのである。当然そこには支柱などが添えられるわけでもなく、風に吹かれるその様は、国民的テレビアニメ『アワビさん』に出てくる某キャラクターの頭部を彷彿とさせた。

「だだだ、大丈夫なんですかあれ……。なんか、今にも飛んでいきそう……」

 そのあまりの弱々しさに動揺しつつ、私は福禄に尋ねた。私のイメージの中では、青々と立派に育った稲のイメージが強く、目の前の光景がそれとはあまりにかけ離れていたのだ。

「君はなかなかの心配性だな」

「そう、でしょうか」

 水耕栽培は、畑に直接種を蒔いたり、苗を植えたりするのとは違う。何せ、ぬかるんだ土に水を張り、そこに苗を植えるのだ。風に揺らされて地面に触れてしまえば、粘着質な土壌に苗が張りついてしまいそうな気がするし、これから田に張る水を増やせば、たった十数センチの苗は今以上に水に浸かるだろう。

 結果から言ってしまえば、水耕は古くから行われているわけだから、この心配がただの杞憂にすぎないことは、私とて理解はしている。けれど、それをふまえた上でも不安になってしまうほど、植えられたばかりの苗というものは弱々しいのだ。

(考えすぎ……なのかしら、私)

 農業の再興のために働くと、福禄と約束した。計画はまだ動き出していないが、それでも福禄とは話し合いを重ねている。作物の栽培方法だけでなく、現行の農業のシステムをもっと深く知るための勉強だってし始めた。新しいことを知れば知るほど、私の農業に対する想いは強くなる一方だ。しかし、同時に不安も増す。何がどう、という具体的な形はないが、形を持たない故に、拭いさることができない漠然とした不安が、時々こうして私の胸を過るのである。

「弁財、君は何を見ている?」

 唐突に、福禄に尋ねられる。驚き、隣に腰をおろす彼に視線をやるが、彼は私の方は見ずに、じっと田を眺めているだけだ。

「え? 何って、田植えを――」

「本当に、今、君が見ているのは田植えか?」

 こうやって土手に座って、田植え以外に、何を見るというのか。私が、よそ見をしていたとでも言いたいのか? 考えたところで、福禄が何を言いたいのか、私にはよく分からなかった。――分からなくてはいけないことだったのか、それすらも、分からない。

 周辺にはいまだ、ぐおんぐおんと勢いの良い田植え機のエンジン音が轟いている。

 彼の問いに答えられないまま、私はそれきり黙りこむしかなく、田植え機を操縦する大黒の姿を遠目に見ていることしかできなかった。運転席に座る大黒は、眩しいくらいの笑顔を浮かべていた。

 

 六月上旬にもなると、私の不安をよそに校内田の稲は順調に株を太らせ、以前のような弱々しさは、すっかりなりを潜めていた。

 今朝から降り続いている雨が、校庭のあちこちに、大きな水溜りを作っている。その水面に次々と波紋が広がり、水溜りは更に面積を増やしていく。この雨によって、田の水位もいくらか上がっていることだろう。しかし教室の窓から見下ろしても、私にはその微妙な変化はよくわからなかった。

「――子、弁財琴子!」

「あ、はいっ」

 頬杖をつき、窓の外をぼんやりと眺めていたところを呼ばれ、慌てて返事をする。教壇に立った担任の金鉢が、開いた教科書を片手に携え、それ越しに私に視線を寄越していた。今が、彼の担当する現代社会の授業中であることを、そこで思い出す。私の席からは真反対の、廊下側の席に着席しているかや子が、心配げに私を見ているのが分かる。

 田植えが終わってからの数週間、私はずっとこんな調子だった。福禄に言われた言葉が、気になって仕方がなかったのだ。

『弁財、君は何を見ている?』

 あれから何度も、福禄とは会った。けれど彼は、あの件に関して特別何かを言ってくることもなく、だから私も言及せずに、かといって福禄の言葉を忘れることもできず、こうしてひとり悶々と考え込んでしまっている始末だった。

「……まあ、いい。では次の単元に移る」

 金鉢は、視線を手元の教科書に落し、何事もなかったかのように授業に戻ってしまった。注意を受けるとばかり思っていただけに、彼の態度は何とも呆気なく、拍子抜けだった。

(何よ、もう……)

 そうなると、もはやぼうっと考えごとをする気にもなれず、机上に広げていたノートに、金鉢が記した板書を書き写す。それらが示す意味はあまり理解できなかったが、とりあえず写しさえしておけば、何とかテスト勉強ぐらいはできるだろう。

 思えば、この学校に入学するために随分勉強をしたものだったが、今は農業に関わる科目以外は随分とおざなりになってしまっている。中間テストは田植えの直後に行われたが、まだ入学間もない一年生ではその出題範囲は狭く、酷い点を取ることもなかった。けれど、期末テストともなると、そうもいかないであろうことは想像に容易い。赤点など取るようでは、農業を学ぶための貴重な時間が補習に割かれてしまうことになる。流石に、それでは本末転倒だ。だから、興味もない科目でも、しっかり勉強をしておかねばならないのだが――どうしても勉学に集中できず、ぐるぐるとあの時のことばかり考えてしまうのだった。

 書いては消されていく板書をできる限り書き写すべく、ノートと黒板の間で視線を往復させながら、鉛筆を握った手を動かす。そうしているうちに、授業はあっという間に終わってしまった。

 金鉢が教科書を閉じ、学級委員長――結局、じゃんけんで負けた男子生徒に決まっていた――の号令で、起立、礼、着席。クラスメイトは途端にざわざわとお喋りを始める。金鉢は、教科書や出席簿などを小脇に抱え、さっさと教室を出て行った。それを目で追っていると、私の席に、かや子が歩み寄ってきた。

「琴子……」

 あの日福禄に言われたことについては、かや子には相談していなかった。田植えの見学を楽しみにしていた私が、週が明けてみれば浮かない表情をしているのだから、その当時は随分心配されたものだった。とはいえ、かや子の想像は「お腹がすいてるの?」から始まり最終的には「恋の悩みならいつでも相談して」というところに落ち着いており、いまだ彼女の中では、私は恋わずらいをしていることになっているらしかった。勘違いさせたままなのは、少し申し訳ない気分でもあったが、かといって、私の胸の内のもやもやを、どう話していいかも分からず、誤解に対して弁解もせず、かといって心内を打ち明けることもないまま、数週間が経ってしまったのである。

「大丈夫よ、かや子。こう見えても、元気いっぱいなのよ、私」

「そうなの? 良かったあ!」

 努めて明るい調子で言ってみせると、かや子の表情がぱっと輝いた。頷きつつも、何だか彼女を騙しているように思えて、少し胸が痛む。

「授業中、琴子の眉間の皺が当社比で普段の三倍だったんだもん。びっくりしちゃったよ」

「ええ? 当社ってどこなの?」

 思わず尋ねると、かや子は意気揚々とした様子で、

「『有限会社・宇賀かや子』よ!」

 胸を張ってそう言ってのけた。

 そしてちらと反応を伺うように、私の目を見る。彼女なりに気を遣ってくれているのだと感じた。教室の隅で、私は彼女とふたり、久しぶりに声を上げて笑った。

 

 

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