カミさまのいうとおり!第5話

 

「弁財は、教室に残るように」

 その日のホームルーム後、金鉢にそう告げられ、言葉通りひとり教室に残っていた。

 雨の日の放課後、校内は驚くほど静まりかえる。放課されてすぐは、生徒の靴音や、ざわめきが廊下を伝って教室まで届いていたが、二十分もすればほとんどの生徒が帰路についたか、部活動を始めたのだろう。私の耳に届くのは、やや弱まった雨音だけだった。

 かや子は、担任に居残りさせられた私を気にしてくれていたが、アルバイトがあるということで――彼女は先月から隣町のパン屋でアルバイトを始めていた――仕方なしに下校していった。

 何の気なしに眺めている校内田の水面に、雨粒によって幾つもの波紋が描かれ、重なり、消えていく。とはいえ、田までは遠い。そうであろう、とは想像つつも、私がいる場所からは、水面がただ揺らめいているだけに見えていた。

「待たせたな」

 廊下で、きゅ、と靴音がひとつ聞こえ、そう呼びかけられる。席についたまま振り返ると、教室の出入口に金鉢が立っていた。

「はい、少し」

 肩をすくめて言うと、彼は苦笑しながら教室に足を踏み入れてくる。

 ホームルームが終わって、既に三十分が過ぎていた。彼の呼び出しであるから、その目的は恐らく授業中の私の態度についての注意であろう。

 金鉢は、私のすぐ隣の席から椅子を引き出し、私の方を向いて腰を降ろした。授業中とは違って、首元のネクタイはやや緩められているようだ。普段の彼の印象からは、このようなだらしのない格好はなかなか想像できず、私は少しばかり驚いてしまった。そんな私の様子に彼は気付いたのか、

「――意外だったか?」

 そう尋ねてくる。同時に彼が椅子のもたれに体を預け、古いそれがぎいと鳴く。

「いえ……あの……すいません」

 まったくの図星だが、しかし相手が相手なので、はいともいいえとも言えず、しかし間接的に彼の欠点を示した形なので、責められているわけではないが、それでも私は自然に謝罪をしてしまっていた。福禄と接する時と違い、どうにも調子が狂う。それは、彼が私たちとは違い、大人だからだろうか。

「謝らなくてもいい。私だって、時々は肩の力を抜きたいこともあるということだ。――さて、本題に入るが」

「……はい」

 本題、という言葉に、僅かながら勝手に体が強ばる。待っているのは叱責なのだから、それも仕方ないことではあるが。

「弁財」

 不意に金鉢の目が、私の目を捉えた。近い、とその時初めて感じた。それもそのはず。いつもは数メートルもある互いの距離が、今は僅か一メートル弱しかないのである。

 そうしてふたりに訪れる、沈黙。

 これは、まずいのではなかろうか。年頃の男女が、決してとってはいけない距離感なのではないか。――違うのだ。私は彼と、目と目で通じ合うそういう仲になりたいわけではない。断じて違う。ならば私から視線を逸せばいい……いやしかし、彼の視線にかかれば、そんな私の意思なんてプレパラートに載せるカバーグラスよりも脆くなる。そんなことを考えている間に、彼の瞳の奥に星空さえ見えてきた。ああ、きらきら輝くお空の星に、願いよ届け。場の雰囲気に流されない強いひとに、私はなりたい。

「どうだ、肩の力は抜けたか?」

 両肩をぽんと叩かれた。

「……は?」

 意味が分からない。目をぱちぱちと瞬かせて金鉢を見ても、彼はやけに得意気な表情を浮かべているだけだ。

「おかしいな。抜けてない」

「ぬ、抜けてるのは先生の頭のネジだけです!」

 はて、と首を傾げる金鉢に向かって叫ぶと、彼は「心外だな」と不服そうに漏らした。そうして、

「ではもう一度……」

 言ってから、先程の熱視線を私に向けるのである。

 駄目だ。これ以上そんな目で見つめられては堪らない。何せ、放課後の教室に、ふたりきり。辺りを支配するのは穏やかな雨音。私が少女漫画の主人公であれば、この状況でふたりが禁断の恋愛関係に発展していく確率は非常に高い。いや、むしろそうならないはずがあろうか。何せ、少女はいつだって年上の男に憧れるものである。(これは私の話ではなく、あくまでも少女漫画の話だ)多少なりとも、自分を認めてくれた年上の男に、これだけの至近距離で熱い視線を注がれれば、なびかないはずがないのだ。ただこれはいわゆる吊橋効果というやつで、非日常的な環境に置かれると人間というものは自然とドキドキしてしまうものであり、それを恋と勘違いしてウンヌンカンヌン……という風なことを、やはりこれも少女漫画で読んだことがある。それが嘘か本当かはともかくとして、やはり私も人の子。彼がどういう意図なのかはまだ分からないが、とにかく彼の視線によって、先ほどのような変な気分になってしまうわけだ。つまり、このまま見つめられると非常に困る。そういうことである。

 この状況を打破するためには、もはや作戦はひとつ。

「で、であー!」

 私は目をぎゅっと閉じて、目の前の金鉢に向かって頭から突っ込んだ。

 とにかく相手を倒せば、何とかなる。そう思ったのだ。しかし私の頭突きは彼の体にヒットすることなく、両手であっさりとガードされてしまった。この至近距離で、素早い防御。入学式のあと、廊下で私の拳を避けたひとりの男子生徒を思い出す。この学校は生徒だけでなく、教師にまでも侮れない人物がいるようだ。

「っと。うーん、まあまあだな。声を出さずに攻撃すれば、次は当たると思うぞ」

「えっ、本当ですか」

 改善方法を示され、思わず聞き返す。

「ああ。不意打ちに勝る攻撃法はないからな」

「なるほど……勉強になります!」

 流石は教師。生徒が成長するためのアドバイスの、何と的確なことよ!

「あー……」

 声がした。ふわんと反響する具合から、それは恐らく廊下からだ。もう随分と聞き慣れた声だった。同時に、コンコンと何か硬いものを叩く音。

「やりすぎです、金鉢先生」

 教室の出入口から、福禄が顔を覗かせていた。何かを叩く音は、どうやら彼が扉(閉まっていたわけではない)をノックする音だったようだ。彼の表情は、普段より幾分か不機嫌そうに見える。

「ふ、福禄先輩?」

「そんな恐い顔をしなくてもいいだろう。本当に手を出しやしないさ」

 福禄の出現に驚く私をよそに、金鉢は不敵な笑みを浮かべ、やや戯けたように両手を軽く上げてみせる。

「どうだか。……先生に頼んだのは間違いでしたね」

 その場で大きく溜息をついてから、福禄が私たちの元へ歩み寄ってくる。心なしか歩幅が大きい。そして金鉢のそばに立つと、ちらと横目で彼を見下ろした。それに対して金鉢はというと、変わらない微笑のまま、小さく肩をすくめてみせる。何が何やら、よく分かっていないのは、どうやら私ひとりらしい。唯一そんな私でも理解できたのは、福禄と金鉢こそ正真正銘、目と目で通じ合う――そういう仲だった、ということである。

「つまりだ、君に『悩みすぎるな』と伝えたかっただけなんだ」

 近くの席から椅子を引っ張ってきた福禄が、私たち同様にそこに腰をおろし、そして腕組みをして、私に言った。

 どうやら福禄は、田植えの際の彼の言葉で悩む私に対して、多少なりとも責任を感じていたらしい。しかし、彼が「悩むな」と言ったところで、またそのことで私が悩んでしまうのではないかと考え、私の担任である金鉢に協力を仰いだ――その結果が、今のこの状況なのだという。

「まあ……失敗だったようだが」

「失敗とは、酷いな。福禄。見ての通り、私の色目のおかげで、彼女は悩みなんてすっかり忘れてしまっているじゃないか」

(ちょっと馬鹿にされてる気がするわ……)

 なあ弁財、と金鉢に同意を促され、内心はそう思いながらも、はあ、と返事をする。何だが、無性に疲れていた。

「手段の選択を私に一任したのはお前だぞ、福禄。これが失敗なら、責任は全てお前にある。そうだろう? だから、素直に『成功だった』と言っておけばいいんだ。終わりよければ全てよし。さあ、勝利の美酒に酔おうじゃないか」

「馬鹿馬鹿しい。そもそも僕は、教師が生徒に冗談でも色目を使うということがおかしいと言っているんです」

「私が非常識な教師と知って頼むお前が悪い」

「非常識なのは重々承知ですが、それでも最低限の節度というものがあるでしょう」

「いや、放課後、学校という檻から解き放たれた教師に、守るべき節度などない!」

「教師としてではなく、人としてです。あと、最低なことを自信満々に言わないでください」

(か、完全に置いてけぼりだわ)

 ふたりは、私の存在などすっかり忘れたように――もともと私に関する話をしていたというのに――訳の分からない口論を繰り広げている。止めるのも面倒だし、彼らをよそに、私は私で思案を巡らせることにした。

 福禄は『悩みすぎるな』と言う。しかしだからといって、「ハイそうですか」と素直に応じる訳にもいかない。何せ、私の根本的疑問は解決していないのである。

『田植え作業時、私は何を見なければいけなかったのか』

 とにかく、これだ。これを解決しなければ話にならない。福禄が答えを提示しないということは、つまりは私が自分で探さなくてはいけないということだ。

 これまでの数週間、私はひとりで悶々とただ悩むだけだったが、福禄と金鉢両名の口論を聞いていたら、毒気が抜かれたとでもいうのか、ぐずぐずと苦悩することが何だか馬鹿らしく思えてきたのである。

 それを思えば、福禄の『悩みすぎるな』という言葉通りになっている気もするし、さらには金鉢と福禄によって私の肩の力も抜けたわけで――彼らの不毛なやりとりに脱力したとも言えるが――ふたりの計画は無駄ではなかったのかもしれない。とにかく、気分を変えることができたのは、確かなのだ。その点は、彼らに感謝をしなくてはならない。

「そもそも普段心無い言葉ばかり吐いてるからこんなことが起こるんだろう。お前こそ反省したらどうだ? ん?」

「先生に言われる筋合は――」

 福禄が椅子から身を乗り出しそうになるのを、にやついた顔で金鉢が抑え込む。こんな顔をした担任を見るのは初めてだった。きっとこちらが素なのだろう。教師の仮面を被るとはまさにこのこと。しかし、仮面を脱ぎ捨てただけでここまで態度が変わるものか。一体彼は何枚の仮面を被っていたのだろう。

「そんな筋合はないって? 大いにあるだろう。私とお前の仲じゃないか。だからお前も、私を頼ったくせに……」

「べ、弁財が誤解するでしょう! 誤解を生む発言は止めてください!」

 ふたりのやりとりはまだ続いている。金鉢の表情には不敵さが増し、その口元は緩みっぱなしだ。福禄は珍しく声を荒げ、動揺した様子だった。普段であれば私に容赦ないチョップを繰り出し、人のことをオオミミハリネズミ呼ばわりすらする、あの福禄が、どうやら今は劣勢のようである。

 しかし『私とお前の仲』という物言いからすると、どうやら私が睨んだ通り、彼らは『目と目で通じ合うそういう仲』のようだ。ならば、それなりの方法で彼らの間に割って入る他、この争いを止める術はあるまい。

「福禄先輩! 金鉢先生!」

 ふたりの名を呼ぶと、私は勢い良くその場に立ち上がり、左手で福禄の肩を、そして右手で金鉢の肩を、がっちりと掴んだ。突然の私の行動に驚いたのか、ふたりは目を丸くして私を見ていた。

 私はそのまま、ふたりを見つめた――とはいっても、ふたりを同時に見つめることなど当然無理なので、私は必然的に、首振り扇風機のように頭を動かすことになった。福禄を。金鉢を。福禄を。金鉢を。福禄を――。何度かそれを繰り返していると、金鉢が私から視線を逸して、肩を震わせ始めた。反対に、福禄は私を見ていた。先程までの驚きは、もはやその表情の中にはなく、そのまなざしはただただ冷たい。しかし、私は負けない。そもそもふたりの争いの発端は、私なのである。私の苦悩を和らげるために、彼らが動いてくれたのだから、それが元で勃発した口論を止める義務は、当然私にあるはずだ。彼ら二人が停戦の意思を示すまで、私は行動を続けるしかないのである。

「弁財……これは、何だ?」

「停戦を促すアイコンタクトです」

 ゆっくりとした福禄の問いに、私は変わらず首を振りながら答えた。

「……口で言えばいいだろう」

「目と目で通じ合う仲のふたりには、目で語るのが一番かと思いまして」

 溜息混じりの福禄に、淡々と返したところで、ひとり肩を震わせていた金鉢が、盛大に吹き出して、そして腹を抱えて笑い始めた。

 それを確認して、私はようやく扇風機から人間に戻った。笑いはいつどこだって、停戦の合図である。笑いこそが平和の証。これで世界は救われたのだ。めでたしめでたし。

 椅子に座ったまま体を丸めて大笑いする金鉢の姿に、私の心は満足感でいっぱいだった。

 福禄は、項垂れて頭を抱えているが、彼についてはいつものことなので、問題ないだろう。きっとすぐに立ち直るに違いない。

 私の悩みは、解決したわけではないが、彼らのおかげで、悶々と悩むことももうないだろう。案ずるより、生むが易しだ。とにかく、行動あるのみ。農業再生のために動きながら、その中で『私が見るべきだったもの』を探せばいい。待っていたって、答えが降ってくる訳ではないのだから。

 朝から降り続いていた雨はいつの間にか止み、厚い雲の僅かな隙間からは、少しばかり青い空が顔を覗かせていた。大きく広がっていた水溜も、そのうちに小さくなって、やがてすっかり無くなってしまうことだろう。

 

 梅雨が明け七月も中旬にさしかかると、稲は随分とその背丈を伸ばし、時折吹く風にその身を揺らす。にわかに強くなりはじめた陽光に照らされ香るむせかえるような大地の香りと、細い稲葉が互いに触れ合う音があいまって、見る者に初夏を色濃く感じさせる。

 布袋からの協力を取り付けたのを皮切りに、天高七福神計画はようやくスタートした。とはいえ、まずはこの計画を周知させることが必要だ。私たちは、秋に行われる文化祭で大々的に広報活動を行うことに決め、現在はそのために計画草案の修正や、資料集めなどを行っている。

 また、私のクラス担任である金鉢が、時折私たちの活動を見にくることがあり、私と福禄のふたりきりだった頃に比べると、この集まりもなかなか賑やかになってきていた。

「悪い、二人とも今日は先に帰ってくれないか」

 時計の針が六時に近くなり、いつも通り作業の手を止め、帰り支度を始めたところで、福禄が言った。生徒が校内に残ることができる刻限は、六時半と決まっている。教師によって、校舎玄関が施錠されてしまうためだ。だから、これ以上校内に留まりつづけることはできず、必然的に私たち三人はほぼ毎日、駅まで一緒に帰っていた。だから、福禄の言葉の意味がよく分からず、私は首を捻った。

「何か用事が?」

 私が尋ねると、福禄は眉根を寄せて目を伏し目がちに逸すと「いや……」と歯切れの悪い返事を寄越した。

 時々、彼はこうやってもごもごと口ごもったり、ぎこちない態度をとることがある。一体何が彼をそうさせるのか、これまで私にはさっぱり見当もつかなかったが、今日の私は冴えていた。ぴんときたのだ。

 つまりこういうことである。

 

 ――放課後、教室にて。

「ねえユキエ、この後当然、いつもの行くでしょ?」

「サテン?」

「もち、それっきゃないっしょ! 行くよね? 今日はミユキも呼ぼうよ!」

「……あのね」

「ん? 何よー、他にも誰か呼びたい子でもいるの?」

「違うの」

「じゃあ、サテンって気分じゃないとか?」

「ごめん……」

「何? 急に謝っちゃって……」

「私もう、ユキエとは一緒に帰れない」

「え……?」

「恋人が、できたの」

 

 ……これである。ちなみにこれは先日かや子に借りた少女漫画『彼友☆天秤(カレトモバランス)』第一巻冒頭の会話だ。友情と恋愛の狭間で揺れる少女の苦悩を描いた作品で、やや古くさい表現が逆に新鮮ということで、女子中高生に人気らしい。

 ――とにかく、つまり福禄にも『そういう人』ができたのではないかということだ。ううむ、我ながら良い勘をしている。

 しかし福禄もスミにおけない男だ。昼休みや放課後はほとんど毎日三人で集まって(昼休みにはかや子もいるが)いるというのに、そんな素振りを感じさせることもなく、女子のハートを射止めてしまうとは……。

 布袋は私と違い、福禄の事情をあらかじめ知っていたのか、いつものようにニコニコ顔で「分かったよ」と返した。

「すまないな。あと、戸締りも頼む」

 これから放課後デートだというのに、申し訳なさそうにそう言った福禄は何故だか浮かない表情だ。

「福禄先輩」

「何――……っ」

 福禄のそばに歩み寄った私は、素早い動きで右腕を肩からぐるりと回転させ、その勢いで福禄にチョップをかました。突然のことで避けきれなかった福禄は、打撃を受けた左肩を押えて言葉を詰まらせた。

「べ、弁財さん?」

「安心せい、峰打ちじゃ」

 私の後ろで狼狽える布袋を振り返り、一言。

「そっか、峰打ちなら安心だね」

 私の言葉に、布袋は胸をなでおろした。

「どこが峰打ちだっ!」

 私たちふたりに向かって福禄が吠える。それを「まあまあ」と布袋が宥めた。

「元はといえば、これから逢引だっていうのに、福禄先輩がこの世の終わりかってほど暗い顔をしてるからいけないんです」

「……逢引?」

「しらばっくれても無駄です。調べはとっくについてるんですからね」

 当然、嘘である。しかし状況証拠と私の勘が、彼は黒だと叫んでいるのだ。もうひと押しすれば、自ずと白状するに違いない。

 怪訝な表情を浮かべた福禄に、密着しそうなほどにずずいと詰め寄る。

「よよよよく分からんが分かった分かったから寄るな近いっ!」

 途端に福禄は顔を赤くして後退った。しかし元々教室の端にいたため、彼はすぐに壁に背中をぶつける。

「そんなに照れなくても。さあ、白状すれば楽になりますよ、先輩」

 私は両手を顔の横でわきわきとさせながら、福禄ににじり寄る。

 ――そういえば、どうして私は、恋人の存在を彼の口から自白させようとしているのだったっけ。

 ふとそんな考えが頭を過るが、今更そんなことは関係ない。

 わきわきわき。福禄との距離を詰めていく。

「こ、幸宗っ」

 呼ばれた布袋は、それでも福禄を助けに入る様子もなく、机の上に広げていた資料などを片付けている。

「じーんーくん」

 福禄と私の距離が一メートルをきったところで、扉が勢いよく開いた。えらく親しげに福禄の名を呼びながら教室に入ってきたのは、私の担任・金鉢だ。教室に一歩踏み込んだところで、彼ははたと動きを止めた。それを見て福禄が、今日一番の大きな溜息を吐いた。

「………うむ、その……なんだ、ゴホン。みんな、遅くまでご苦労」

(先生、全然誤魔化せてないです……)

 いくら取り繕おうと、金鉢が子供のような無邪気な笑顔で「仁君」を呼んだことは、忘れられるはずもないほど大きな衝撃である。これが、学校という檻から解き放たれた教師の、真の姿だというのか……。私は、何も言えなかった。流石の私でも、絶対に触れてはいけないものぐらい分かる。放課後の教師がそれだということも。

「仁、後はやっておくから」

 壁際に追い詰められたままだった福禄に、布袋がようやくかけた声がそれだ。言って布袋は、福禄にひらひらと手を振った。布袋の言葉に、福禄ははっとして、私の横を早足ですり抜けると、横長の広い机の上に置かれていた彼の鞄を掴み、金鉢の立つ出入口に向かう。

「じ……福禄」

「黙ってください。――じゃあ、幸宗、頼んだ。……弁財もな」

 金鉢を教室から押し出しながら、そう言い残して福禄は風のように去っていった。廊下を行く二人分の足音は、段々小さくなって、すぐに消えてしまった。

(な……何だったのかしら、今の)

 彼らが去っていった出入口を呆然と眺めながら、私は思った。

「じゃあ、僕たちも帰ろうか。弁財さん」

「あ、はい」

 布袋は何事もなかったかのように、普段通りに穏やかな微笑を浮かべている。

 教室の電灯スイッチを切り、ふたりして廊下へ出る。扉を閉め、福禄が持っていた鍵で施錠をする。――私たちは、集まりの際には空き教室である第一化学実験室をいつも利用していた――扉をひいて、施錠を確認してから、布袋は「よし、おしまい」と満足そうに呟いた。そして私の方に向き直ってから、

「弁財さん、実はね――」

 口元に手を添えて、小声で話しかけてくる。私も思わず、それに耳を傾けた。

「あの二人、従兄弟なんだよ」

「え?」

「仁の実家は遠いから、金鉢先生の家に居候してるんだ」

「従兄弟で居候で候!?

 では彼らが目と目で通じ合ったりしたのは? やけに親しげに見えたのは? 全てあの二人が従兄弟故だったというのか。――待て待て。ということは、福禄はこれからデートではなく……?

「時々、ああやって一緒に帰ることがあるんだよ。だから弁財さん」

 ……結局、ただ帰宅しただけだったのである。福禄は。

(何だ、そうだったのね)

 布袋は一旦言葉を区切り、一呼吸置くと、喜色満面の笑みを私に向けながら言う。

「仁に恋人はいないから、安心していいよ」

 ――……安心?  私は安心しているのか?

「そそそそもそも、心配なんてしてませんし別にそんな福禄先輩に恋人がいようがいまいが先輩の勝手ですし私関係ないですしっ!」

 動揺する必要などないというのに、布袋の言葉にどぎまぎとしながら私は大慌てで否定する。ひと気のない廊下に、私の声がふわんふわんとこだまする。その反響に煽られるように、恥ずかしさが増していく。

(落ち着いて琴子! やましいことなんて何もないんだから!)

 自分自身に必死に言い聞かせる。無性に顔が熱いのは、廊下の窓が締め切られているせいだと私は決めつけた。

「さあ、気を取り直して帰ろう」

 心の中で言い知れぬ葛藤と闘いながら頭を抱えて悶える私に、布袋はさらりと言うと、

「ひえっ」

 何の遠慮もなく私の腕を掴んで、すたすたと歩き出すではないか!

 彼が掴んだ手首に、彼の手のひらや指の感触を強く感じる。長い指に大きな手のひらは、しっかりと固い。農に従事する者の手だ。柔和な彼の雰囲気とは、まるで違うその感触に、思わず胸がどきりとする。

 先程の動揺も収まっていないというのに、何たる追い撃ちだ。

「幸宗先輩っ、ててて手が!」

 彼の手にはさほど力は加わってない。振りほどこうと思えば、振り払えるはずだ。けれど何故だかそうしてはいけない気がした。彼の表情は普段通り穏やかではあるが、しかしその横顔が、少し寂しげに見えたからだ。

「先……輩?」

 私の呼びかけは、聞こえていたのかいなかったのか。彼は黙ったまま、ただ私の手を引いて、実習教室棟の廊下を行く。この長くまっすぐな通路を突き当たった先を曲がれば、そこからは一般教室棟だ。

 曲り角で、当然ながら彼は曲がる。しかしその動きは極めて直線的で、兵隊のような曲がり方を彼がするものだから、手を引かれていた私はその動きについていくことが出来ず、遠心力が働くままに体がぐらついた。

「わっ、と」

 体勢を立て直すため、思わず強く床を踏みしめると、今度は私に振り回される格好で、布袋がバランスを崩し、私の手首を掴んでいた彼の手はあっさりと外れてしまった。そして、

「はふん」

 情けない声とともに、彼はその場に倒れ伏したのであった。

 

 

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