カミさまのいうとおり!第4話
休憩所から、エントランスとは逆方向に進む。
しばらく道なりに行くと、青々と茂った生垣が見えてきた。入口はアーチのような形になっている。まるで不思議の国のアリスに出てくる迷路のようだ。
「先輩、これ、もしかして」
肩を並べた寿老の顔を、ちらと覗く。すると彼は頷いて、
「バラだよ。ここの目玉なんだ」
浮かべた表情は、どこか誇らしげに見えた。
足を踏み入れたそこは、まさに迷路そのものだ。バラの生垣で作られた通路があちらへこちらへと伸びている。通路の少し広くなったところには、小さな円形の花壇があり、そこにもまた別の種類のバラが植えられている。バラの根元には、それぞれプレートが立てられていた。そこにはバラの名前が書いてあるらしいが、その種類は多く、『バラ』という一括りで認識していた私は、これほど様々な種類があることに驚いた。
バラの季節は春と秋だ。今は、花なんてほとんど咲いていない。それでも、見事に手入れらされたバラの迷宮は圧巻だった。手入れに費される労力を想像し、生垣に向かって頭を下げたい気分になる。
「生垣に使われているのは、クライミング……つるバラだ。中にある支柱やポールに絡ませて、こうやって壁やアーチのように仕立てるんだよ」
そういえば、学校の温室の中にも、アーチのようなものがあったことを思い出す。あれもバラ用の設備なのだろう。
寿老は時々バラの葉に手で触れながら、私に説明してくれた。彼の表情は真剣そのもので、私も思わず熱心に聞き入ってしまう。狭い通路では横並びになれないので、寿老の後に続いて歩きながら、私は彼の話に耳を傾けた。
「花壇のバラは、木立樹系。一般的によく見られる、花屋で売っているようなタイプだね。ここには植えられてないけど、木立樹系とクライミングの両方の特性を持った、シュラブ系と呼ばれる半つるバラというのもあるんだ。それぞれのタイプに、さらに多くの品種がある。初めて人工交雑によって新たな品種が作り出されたのは今から百五十年近く前のことだ。けれどバラの存在自体は、紀元前の物語にも記述が見られる。バラの美しい姿と香りは古くから人々を魅了し、時には人を惑わすものとして禁忌とされることもあったんだ。それほど、人々にとってバラは魅力的なものなんだね。……っと」
「わふっ」
突然寿老が立ち止まり、私は勢い余って彼の背中にぶつかった。
「な、なんです?」
危うく低くなるところだった鼻をさする。寿老は生垣をじっと見つめていた。
「うーん、ちょっと調子が悪いみたいだ」
眉を潜めて彼が言う。
「えっ!」
それは大変だ。先ほど食べた昼食のせいだろうか? アイスコーヒーで腹でも冷えたのか? それともこの暑さが堪えた? とにかく、彼をどこかで休憩させなくては!
「先輩こっちです!」
私は寿老の腕を引っ張った。
「え? 琴子、そうじゃなくて」
「病人は黙ってついてきてください!」
抵抗する寿老を、私は無理矢理引き連れて、来た道を逆走した。バラのアーチをくぐり、周囲をきょろきょろと見渡す。少し離れた場所に、大きな木が並んだ丘が見えた。芝生がきれいに生え揃っている。その所々にはベンチもあるし、進入禁止の場所でもないらしい。木の下にはベンチこそないが、他の場所より日陰で涼しそうだ。
「さあ、こっちです!」
私は寿老の腕を引きながら、丘の上を目指した。木陰に辿り着く頃には、すっかり私の息も絶え絶えになっていた。
木陰に腰を下ろした途端、寿老は声を上げて笑い始めた。ついに暑さと体調の悪さがあいまっておかしくなってしまったのだろうか。
私が首を傾げながら、その様子を中腰のまま見ていると、腹を抱えて笑う寿老は突然手を伸ばして私の腕をばしばしと叩いた。衝撃に体がバランスを崩しかけるが、何とか持ちこたえる。
痛い。一体何だというのだ。私は真剣に心配しているというのに。
「あー、ごめん、可笑しくって……琴子、やっぱり君は、良いね。うん、良いよ」
「意味分かりませんよ、もう」
笑いを噛み殺しながら納得したように「良い」と繰り返す寿老に、不貞腐れた調子で返すと、彼はまた「ごめん」と私の腕を叩いた。
「それより、調子悪いんじゃあなかったんですか?」
いまだ肩を震わせる彼の顔色は悪いどころか、逆に血色が良いぐらいだ。どこからどう見ても、健康そのものなのだが。
私の問いに、また寿老は軽く吹き出した。
「心配してくれて嬉しいよ。でも調子が悪いのは僕じゃなくて、バラのことなんだ」
「ば、バラぁ……?」
「株が弱っているバラが、いくつかあるみたいなんだ。少し虫がついたんだろうね。また防除してもらわないと……ん? 琴子、どうしたんだい?」
自分の勘違いが発覚し、一気に脱力した私は答える気も起きなかった。
ああ、どうして私はいつも早とちりしてしまうのだろう。農業を学ぶ前に、もっと精神を鍛えなければいけないのかもしれない。今年の夏が終わる前に、一度滝にでも打たれに行ってみようか。
「……ねえ、琴子」
「はあ」
気のない返事を、何とか絞り出す。
「僕のことを、どう思う?」
「ど……どうと言われましても」
突然の問いかけに言葉が詰まる。思わず寿老の顔をじっと見た。私を見つめる彼の瞳が、ひどく寂しそうだった。それを目にしたら質問を茶化す気にもなれず、私はのたりのたりとした頭の中でしばし考えを巡らせた。答えを出すまでには少し時間がかかってしまったが、寿老は決して私を急かしたりしなかった。
「まだ、よくわかりません。私に、その、突然プロポーズしてきたり、少し強引だったり、でも優しかったり……どれが本当の先輩なのか、私には、まだわからないです。でも、それでも、バラを見ていた時の先輩の目は一生懸命で、ああ、バラがすごく好きなんだなあって――そう思います」
言葉を選びながら、素直な気持ちを伝える。簡単な言葉で彼を傷付けたくはなかった。
「バラ、バラ……ね。そうだね、僕はバラが好きだよ。バラは美しい。高貴で、そして繊細だ。絶対に嘘をつかないし、誰にも媚びない。でも僕が花卉栽培に携わろうと決めたのは、ただバラが好きだからという単純な理由からじゃない。ここのバラ園の管理を担うためだ」
寿老は、自分の座っている場所のすぐそばの芝生を指して「長くなるよ」と言った。促されるままに、私もその横に座る。木々から伸びた大きな影が、私たちの上に落ちていた。
「もともと、このバラ園を管理していたのは僕の祖母だったんだ。僕は祖母が好きだった。いつもバラの手入れをして、顔をくしゃくしゃにしながら笑っていた祖母が、本当に好きだったよ。僕は祖母にバラの育て方を習った。いつか、一緒にこのバラ園をもっともっとバラでいっぱいにしようって、僕は祖母と約束をしたんだよ。……もう十年近く前の話だけどね」
ひとつ、大きな溜息がすぐそばで聞こえる。その彼の顔を見てもいいものか、私には分からなかった。
「けど、ダメだった」
明らかに落胆を含んだ寿老の言葉に、私は思わず息を飲む。
「ある日祖母が倒れたんだ。このバラ園で。幸いにも従業員が祖母を見つけて、すぐに病院へ運ばれたから、大事には至らなかったんだけどね。……でも、それ以来体調はあまり良くなくて、結局祖母はもうこのバラ園に立つことは出来なくなった」
肌に、じとりと嫌な汗が滲む。私は俯くことしか出来なかった。かける言葉すら見つけられない。
「祖母が倒れたのは、農薬の散布の最中だった。病院での診断の結果も、原因は農薬による中毒。バラは特に病害虫がつきやすいからね。さっきも少し言ったけど、バラは繊細だ。ちょっと虫がついただけでも花の咲き具合に影響する。特にここは観光施設だから、念入りに農薬による殺菌殺虫を繰り返していたんだよ。祖母は倒れた時、マスクも手袋もしていなかったらしい。まあ、これで中毒にならないほうがおかしいよね」
彼の口から漏れた乾いた苦笑いに胸が痛む。
観光施設でそんなことが起こったら、きっと客足にも影響が出ただろう。大々的に宣伝することもはばかられるかもしれない。園内のやる気のない看板や、周辺の地域に存在があまり知られてないのも、そのせいだったのだろうか。そう思いはすれど、寿老にそんなことを尋ねられるはずもなかった。
寿老の言ったとおり、バラに限らず花卉栽培は食用でないが故、野菜以上に農薬を多用する。農薬はいうまでもなく人体に有害だ。――現在は『安全な』農薬というものもあるらしい。しかし『安全な』もので果して虫や菌が死ぬだろうか――当然ながら防護マスクやゴーグル、手袋などを着用し、自らの安全を確保しながら、さらに周囲への飛散を防ぎつつ散布を行う必要がある。
けれど、寿老の祖母のように、防護対策が肝心の農業従事者にあまり浸透していないのも事実だ。普段通りの農作業着という軽装で、農薬を散布する人も多い。農薬の散布時期が春から夏になることもあり、重装備による熱さがそれを妨げている一因かもしれない。また、最近は家庭で行うガーデニングでも農薬を使用して、中毒になるケースもあるという。天高では、農薬は学生に扱わせるには危険なため使用せず、無農薬に近い形で作物を栽培している。
「祖母が倒れてからは、このバラ園は業者に委託して管理してもらっているんだ。でも、いずれは僕がそれを引き継ぎたいと思ってる。ただ引き継ぐだけじゃない。農薬を使わなくても病害虫に負けないバラをつくって、そのバラでここをいっぱいにしたいんだ。だから僕は、天高のバイオテクノロジー学科に入った。遺伝子組換えの基礎を学べるからね。全部、祖母との約束のためさ。僕は君たちとは、違う。農業に、大層な理想なんて持ってやしないんだ。理由を振りかざさなければ動くことだって出来ない、ただの弱虫さ。こうやって、家庭の事情を盾にまでして、計画に加担出来ないことを言い訳するような愚かな男なんだよ、僕は。自分でも嫌になるくらいに」
ああ、もう。
不貞腐れたようにそう言って、寿老は芝生の上に体を倒した。ちらと横目で見ると、こちらに背を向けて転がっている。
これが、本当の彼なのだろうか。弱い自分を隠すために、普段は虚勢を張っていたのかもしれない。
――じゃあ、私に求婚してきたのも、嘘?
キラキラしていて、眩しくて、優しい、そんな彼自身を演出するための虚構だったとでもいうのだろうか。
もしそうだとしたら……。
「痛っ」
私は寿老の肩に手をかけ、引き寄せた。その背が芝生に打ち付けられる。痛みに、あるいは驚きにぱちくりとさせている寿老の目を、私はようやく直視した。相変わらず整った顔だったが、しみったれたその表情は美しさを微塵も感じさせなかった。
「許しません」
「えっ?」
「絶対、許しません!」
「許す許さないって、何を」
「全部です、全部!」
気持ちが昂ぶり、私はその場に立ち上がって、寿老を見下ろした。腹立たしさに声が大きくなる。でも、かまうもんかと、私は続ける。
「ジュテームジュテームなんて散々言われて、デートだなんだって手なんか握られて、ちょっとでもドキドキした私の純情を返してください! 泥棒! 純情泥棒!」
「こ、琴子?」
「先輩なんて、遺伝子組換えで謎の進化をとげた結果意思を持ち人間への反乱を始めたバラの茨に両手両足を拘束されながら儚げな表情ではりつけになってればいいんだわ! そうなっても私は助けませんから!」
怒りに任せて発した言葉は、あまりにも意味不明だ。けれどこれが、今私に出来る精一杯の皮肉だった。
私が彼に何を言っても、無駄だ。聞く耳を持ってもらえる気がしない。彼の心を守るようにぐるぐると巻きついた茨は、鋼のように強固だった。トゲが刺さり痛む手に眉をひそめつつ、ひたすらに茨を取り去ろうとしても、その茂みは深い。
好意を持ってもらっているのであれば説得はしやすいだろうという福禄の考えに、安易に賛同した私がバカだったのだ。今日だって、共にこのフラワーパークを散策し、食事をしながら色々な話をしたから、なんとなく仲良くなれたように気に、私はなっていた。けれど結局彼は、私の考えを微塵も受け入れる気なんてないのだ。
「……帰ります」
私は寿老に背を向けた。これ以上話す必要も無いだろう。
芝生の上を出口に向かって一歩踏み出した。
けれどすぐに、
「琴子」
縋るような声が、背後から聞こえる。
ああ、情けない。本当に、情けないったらない。弱いなら、弱いままでよかったのに。虚勢を張って本当の自分を押し殺したまま、他人に接して………まして求婚するようなことほど、失礼はないだろうに。
構わず足を進める。
「待ってくれ、琴子!」
けれどそれもすぐに、止めざるをえなかった。寿老が私の手首を掴んでいた。ぐっ、とひかれ僅かにそこが痛む。痛みに崩れた私の表情に気付き、彼はごめん、と呟いてその手をすぐに離した。
「誤解だから。僕は、本当に、君のことが……」
「もういいです。好きとか嫌いとか、関係ないですから。先輩が私の誘いを断ったから、私は帰る。それだけのことです」
「ごめん……。僕には、君たちの計画に手を貸す理由が、見付からないから」
ああ、まただ。
理由、理由。理由がそんなに偉いのか。理由さんに何か恩義でもあるのか、この男は。
「……何かを成すのに、誰からも崇め奉られるようなお偉い大義が必要ですか?」
こんなにイライラしたのは初めてだ。言葉の中にトゲを忍ばせながら、私は言った。
「じゃあ訊きますけど、本当に私のことが好きだって言うなら、私を好きになった理由が当然あるんですよね?」
「それは……その。なんていうか、一目惚れだから……特に、理由なんて……」
ぼそぼそと歯切れの悪い口調で答えて、寿老は俯いた。
「ほら、ないんでしょう。理由なんて、どうでもいいんです。もちろんあっても構わないけど、なければ困るなんてものでもない。重要なのはただ自分が行動を起こすか、起こさないのか。たったそれだけです。そこにとってつけたような言い訳がましい理由なんて、本当は必要ないんです。先輩が自らの意思をもって花卉栽培をしたいと思うならそれが全て。遺伝子組換えの研究をしたいというなら、それこそ、私には止める権利も何もありません。
けど、けどですね、これだけは言わせてください。農薬も、遺伝子組換えも、全部いたちごっこなんです。先輩も、本当は分かっているんでしょ? 農薬を撒いてもすぐに耐性をもった虫や菌が現れるし、遺伝子組換えで病害虫に強い個体を作り出したところで、結局農薬が招く結果と同じようなことになるだけだって。自然の流れに逆らったって、後々多くの物を失うだけだから……だから根本を変えなきゃいけないんです。今の農業のシステムを根底から覆すような改革が、必要なんです!
これまでの農業は、間違っていたんです。人間のエゴだけで押し進められてきた、悪しき農業だったんです。少なくとも、私はそう考えています。農業従事者だけじゃない、消費者だって傲慢になってた。だから日本の農業は結果的に衰退した……。私は元々、我儘な消費者のために野菜のひとつでも売ってやるもんかって思って、将来はひとりで自給自足生活をしようって決めていました。だから私はこの計画の話を聞いても、正直、農業を変えるなんて無理だと思いました。疲弊した今の農業に、新たに立ち上がる力なんてないって。でも、それこそがひとりよがりな考えだって気付かされたんです。農業が好きだ、農業をやりたい! ……そう心から思ってたはずだったのに、私は誰より、農業の、そしてそれを行う人たちの力を信じていなかったんです。
私だって、弱くて情けない。先輩の言うような大層な志なんて、ありません。先輩と、何も変わらない。違うのは、間違いに気付いてそれを正そうとするかどうか。……それだけです」
怒っていたはずだったのに、いつの間にか酷く沈んだ気分になっていた。勢いで『間違い』だなんて、偉そうなことを言ってしまったことを後悔していた。誰かが何かをなす時に、それが間違いであるなど、それこそ本人以外の誰がいえるというのだろうか。正解なんて、本人の心の中にしかないのだ。私が『これは間違いだ』と指摘したところで、当人が『間違ってなどいない』と言い張れば、それはその人にとっての正解であり、真実だ。
私が出来るのは、私の考えを伝えること。それだけだ。この胸から溢れさせた想いをその手で汲み取るかどうかは、彼自身の意思に頼るしかない。