カミさまのいうとおり!第4話
七月はあっという間に終わってしまった。
高校生活初めての夏休み。その前半は多忙を極めた。毎日のように学校へと赴き、福禄と布袋と共に『天高七福神計画』の広報資料作りをしていたのだ。
七福神の名を持つ七人が計画の核となるのだが、たった七人では当然農業界を動かすことなんてできない。七福神は、あくまで旗頭。先頭に立ち、荒波を割って進む船の乗組員なのだ。その後方に、多くの若い農業従事者あるいは就農希望者たちに続いてもらう必要がある。それには、まずこの計画の存在を知ってもらうことが先決だ。
そのためにも夏休みの間に準備をし、二学期からは本格的に広報活動を行う予定だ。――といっても、私は福禄の指示通りに動いているだけなのだけれど。
そして今日、八月一日。
(暑い、暑すぎるわ……)
真夏の陽射しを一身に受けながら、私は自宅から一時間ほどの場所にある駅のロータリー脇に立っていた。背後には今にもとびかかりそうなポーズをした熊……の銅像。造詣はリアルなのに、顔だけがやたらコミカルな漫画調で、何とも奇妙な佇いだ。
(こんな格好で、よかったのかしら)
私は自分の服装を確認して、内心呟いた。
花柄のワンピースに、サンダル。そして麦藁帽子。服に合わせて、カゴバッグを提げている。
最近は家と学校の往復ばかりで、私服を着る機会があまりに少なく、いざ出かけるとなると何を着ればいいのやらさっぱり分からなくなっていた。それでも彼が「お洒落をして来るように」と言ったので、電話でかや子に助言を求めた結果、このような格好になったのだ。
かや子曰く、
「いつもの制服姿とはひとあじ違う可愛らしい花柄のワンピース姿にきっと彼もイチコロ! 飾り気の少ないサンダルで無防備さをアピールして、さらに麦藁帽子であどけなさを醸し出すの!」
ということらしい。
少々疑問に思いながらも、かや子の提案通りの服装で私は今日この場所へとやってきたのだった。
ロータリーの中心に据えられた時計に目をやる。時刻は午前十時五十分。指定された時間まではあと十分ほどだ。
『八月一日午前十一時。クマオカ駅前の熊像前にお洒落をしてくること』
寿老はあの日私に、それだけ囁いて去っていった。理由を訊く間もなく、さらにそれ以降彼にも会えずじまいで、結局何も分からないまま、私は言われた通り指定場所に立っている。ここに来るための電車が一時間に一本しかないため、時間より早く着いてしまったが。
しかし、指定時間に一体何が起こるというのだろう。さらには服装まで指示するなんて。
まさかとは思うが、寿老率いる花卉栽培集団の本拠地にさらわれて、改造手術を施されてしまったりするんだろうか。手術により花の遺伝子を組み入れられた私は『花面ライダー』として農を悪用する者を懲らしめるために原動機付自転車に乗って暗躍し、敵の攻撃に膝を折る度おやっさんこと福禄の厳しい修行を受け、そしてついに――。
「琴子!」
「はいっ!」
突然名前を呼ばれ、反射的に返事をしてしまう。声の聞こえてきた方向を見れば、駅舎の前に男が立っていた。細身の黒いTシャツにジーンズを身に着けている。周囲には他に人がいないので、恐らく彼が私を呼んだのだろう。はて、見覚えがあるような、ないような? 私の名前を知っているということは、知人ということになるが……。
私が考え込んでいると、男は私の前まで、小走りでやって来た。
「やあ、おはよう。待たせたね」
「はあ、おはようございます」
とりあえず挨拶を返す。
「あのう、どちらさまでしょう」
そして尋ねた。
男は「えっ」と声を漏らした。そして困惑した様子を見せる。
「えーっと、僕、寿老だけど」
「えっ」
今度は私が驚きの声をあげた。
寿老? 寿老貴人? この人が?
まじまじと彼を見る。頭の先からつま先まで。
学校で会った彼とは、あまりに違う。その、何というか、普通なのだ。普通。圧倒的にキラキラが足りない。すごく地味だ。バラのように美しく華やかなオーラが、目の前の彼にはない。むしろバラというよりは、庭の隅でこっそり咲いている露草のような存在感だ。
けれど確かに、よくよく見れば、寿老貴人本人のようだった。ううむ、人は服装だけでここまで変わってしまうのか……?
「納得してくれたかい?」
「はい、なんとか」
「それならよかった」
そう言って彼は笑った。途端にその姿がまばゆい光を放ち始めたように感じられた。
ま、眩しい。
前言撤回。
寿老貴人。Tシャツを着ていてもなお、彼は美しかった。
「それじゃあ行こうか」
ロータリーにあるバスの停留所を指さして、寿老は言った。
「行く? どこへですか?」
私は首を傾げた。
そういえば、今日彼は、何故この場所へ私を呼んだのだろう。指示されるままにここに来たはいいが、そもそもの目的を聞いていなかった。てっきり、平行線になった話合いの続きをするものだと私は思っていたのだが、それならばわざわざこんな遠い場所まで来る必要もない気がする。
「デートだよ」
「でっ!?」
涼しい顔でさらりと言われ、思わず吹き出す。
デートというのはつまり逢い引き、そしてまたの名をランデブー……。
ラブレターすら貰ったことがなく、男女のオツキアイを始めたわけでもないというのに、諸々の必要過程をすっ飛ばしてデートだなんて!
だから寿老はあの時「お洒落して来て」と言ったのだ。そして服装のアドバイスを求めたかや子もそれに気付き「彼もイチコロ!」などと……。何ということだろう。私は当事者というのにその事実を理解できずにすっかり蚊帳の外だったのだ! 蚊帳に入れず渦巻型線香の煙でイチコロになるのは蚊だけで充分だというのに! ――いやまて、私がイチコロになってどうする。イチコロになるのは寿老だけで……いやいや、それもダメだろう。
「わ、私、その、心の準備が……!」
すっかり及び腰の私は、必死に訴えた。広げた両手を胸の前でぷるぷると降り、必死に「NO!」をアピールする。
「大丈夫」
言って寿老は、私の右手首をがしっと掴んだ。
「バスで移動する間に、充分心の準備は出来るよ」
そして私を連れバス停へと向かう。
「そ、そんなぁ」
嘆く私は、強引な彼に半ば引きずられている。彼が学校で私に見せた、あの紳士的な態度はどこへいってしまったのか。ああまさに、露と落ち、露ときえぬる、紳士かな……。 きっと英国紳士のような彼は、バラに落ちる朝露のようなものだったのだ。一瞬垣間見えた、美しき幻想だったのだ。
見計らったかのように、停留場にバスがやってきた。ぷしゅうと気の抜ける音を出し、ぼろぼろという不安を煽るエンジン音と共にバスは停車した。
いつの間にか停留所の周りには乗客らしき人々の姿がちらほらと集まっていた。乗車口が開くと同時に、乗客たちは次々に車内に乗り込んでいく。私も寿老に手を引かれ、渋々乗車口へ向かう。
一体これから、どこへと連れて行かれてしまうのだろう。
そんな私の不安は、乗車口のステップを踏みしめた途端、車内から流れ出してきた心地よい冷風によって、一気にかき消されていったのだった。
バスに三十分揺られ、下ろされたバス停は『フラワーパーク前』。停留所のすぐ目の前に、大きなゲートと『入場券』と書かれた券売機、そして係員らしき女性が立っていた。私たちと同じ停留所で降りた数人の乗客が、券売機でチケットを購入している。
しまった、お金が必要なのか。
勿論手持ちはあるが、帰りの電車賃が消えるほどの入場料だと非常に困る。
「こっちだよ」
唸る私を寿老が手招きした。係員の女性に寿老が何事かをぽそぽそと耳打ちすると、彼女は笑顔で「どうぞ」と私を迎え入れた。券売機の横を素通りし、寿老に続いて私はゲートをくぐる。係員に咎められることもなかった。何を提示することもなく入場出来てしまったが、ではあの券売機はどこへ入るための入場券を売っていたのだろうか。
疑問を抱きつつ、ゲートを出る。するとその先に小高い丘があり、青々とした芝が広がっていた。
「わあ、すごい!」
ゲートから続く歩道の周囲には樹木が植えられ、ベンチも据えられている。遠くには――この場所からでは種類までは分からないが――色とりどりの花が風に揺られているのが見える。どうやらかなりの敷地面積がありそうだ。
正面には円形の花壇。そばに設置された案内板には『バラ園あっち・温室こっち・売店そっち』と何とも投げやりで、案内する意思を微塵も感じさせないような表記がされている。
「こんなところにフラワーパークがあるなんて、よく知っていましたね」
私は寿老に言った。広大な敷地面積を有しているであろうこのフラワーパークの存在を、私は全く知らなかったのだ。あまり宣伝をしていないのかもしれない。このやる気のない案内看板から見ても、そんな気がしていた。
「ああ、ここ、うちの親戚が経営してるからね」
「えっ、そうなんですか?」
なるほど、どうりでチケットがなくても入場できたわけだ。看板から漂うやる気のなさを指摘する前でよかった。
「じゃあまずは、温室から」
案内板に表記してある温室の方向を寿老が指さした。そちらに向かって、私たちは並んで歩き始める。
エントランスから続く道は、石畳が敷かれ、綺麗に整えられていた。雑談をしながら、温室を目指していく。
寿老は時々、ここで花の世話を手伝っているそうだ。
花卉栽培というと、花を育てて切り花や鉢植えとして出荷する形が想像されがちだが、ここのような観光施設で出荷を伴わずに花卉――観賞用に栽培される植物のことで、サボテンや盆栽なども花卉に分類される――を育てることも花卉栽培あるいは花卉園芸と呼ばれる。
道の両端にはプランターが並び、黄色とオレンジ色の鮮やかなマリーゴールドが咲いていた。
温室までは五分ほどの距離だった。
温室の扉をくぐると、むっとした熱気が全身を包む。明らかに外来種であるとすぐに判別出来るほど派手な色合いの大ぶりな植物たちが、所狭しと植えられている。熱帯の植物を温室で育てるのは温度対策が最もたる理由だが、外来種が屋外に植えられることによって在来種に影響を与えてしまうことを避けるという意味もあるのだ。
一通り温室を巡った頃には、私たちはすっかり汗だくになっていた。園内に設置されている時計が丁度十二時を示し、少し早いが休憩も兼ねて、私たちは食事をすることにした。今歩いてきた道を再び戻り、エントランスから今度は売店に向かう。売店は入口から比較的近い位置に作られていて、少し歩けばすぐにその姿が見えてきた。
売店とはいっても、周辺の休憩用のテーブルを含めると、なかなかに広い。石床の上に二十ほどのテーブルがあり、数個の椅子がそれらを囲んでいる。その上には陽射しを遮るように大きな屋根があるが、壁は無くオープンだ。
その端に小さな建物が立っている。これが売店のようだ。しかし、テーブルについている数名の客の前には、パスタやパンなどの載った皿が並んでいた。持ち込みの弁当にしては大仰だが……。
「売店だけど、ランチもあるんだよ」
私の頭の中を覗いていたかのように、声に出してもいない疑問に対して寿老が答えた。
「結構本格的なランチですね」
遠目に見ても、テーブルに並んだ品々は、一般的なレストランのランチと大差ないように感じられる。
「最近始めたんだよ。花を眺めながら食べる、地産地消のオーガニックランチ……こういうの、女性は好きだろう?」
「むう」
空いた席に座りながら、私は唸った。地産地消は確かに良い。オーガニックとは化学肥料や農薬を使わない、いわば有機農法のことだ。もちろん、それも素晴らしいことだと思う。けれどあくまでも農業的、自然保護的な目線で見てのことだ。なんとなく、流行に敏感な女性たちの間では『オーガニック』という言葉が『自然派なワタシ、カッコイイ!』というようなお洒落感覚で流行っている気がしなくもない。地産地消や有機栽培を肯定する立場からいうと、理由はともあれ消費者がそれを選んでくれているという時点で満足しなければいけないのかもしれないが、少しだけ、複雑な気分だ。
そうこう考えているうちに、テーブルに料理が運ばれてきた。いつの間にか、寿老が注文していたようだ。「みかんジュースで良かったかい?」と問われ、頷く。続いてバッグから財布を出そうとすると、止められた。借りを作ってしまったことを後悔しながらも、ここは彼の顔を立てて、素直に礼を言っておくことにした。
並んだ料理は三皿。バジルソースのパスタに、バターが添えられたバケットが二切れ。そして刻み野菜に花が散らされた色鮮やかなサラダ。――バジルはこのフラワーパークで、小麦や野菜そして牛乳は近隣の農家や牧場で採れたものらしい――あとはみかんジュースだ。このみかんも、近くのみかん畑で育ったものを絞った百パーセントストレートジュースだそうだ。寿老の説明を聞くだけでどれも美味しそうで、料理を眺めているだけで空腹感が増す。寿老の前にも同じ料理、そしてアイスコーヒーが並んだ。
「いただきます」と手を合わせ、早速フォークを伸ばす。
(………美味しい!)
パスタはバジルの風味が強く、そこに合わさるほのかなニンニクの香味、そしてチーズのまろやかさと塩加減が絶妙だ。パスタ自身も、生パスタなのだろうか、乾麺には無いもっちり感が、なかなかにソースと絡んでくる。
バケットからは、芳醇な小麦の香りがした。バターも濃厚ながら、繊細な味わいだった。
サラダ自体は、特に何の変哲もない。千切られたレタスやキュウリ、クレソンなどが皿の上に盛られている。しかしそれを特別な一品に仕立て上げているのは、間違いなく野菜を彩る花びらだ。黄色く細い花びらがマリーゴールドで、ピンク色の花がペチュニアであると寿老が教えてくれた。
食用の花は、食用キクや菜の花が良く知られているが、最近はエディブルフラワーといって、観賞用ではなく食用として栽培した花が多くあるのだという。観賞用とは違い、農薬や化学肥料も使われていないそうだ。
野菜と共に花を口に運ぶと、爽やかで涼しげな香りがした。マリーゴールドの香りだ。ドレッシングはかかっておらず、代わりに軽く塩が振られているようで、シンプルな味付の分野菜の味がしっかりと楽しめる。ピンク色のペチュニアは、口の中でくたりと柔らかく潰れ、同時にほのかな甘い芳香が鼻腔に抜けた。
一口ごとに感動の波が押し寄せる。皿の上は、あっという間に空になってしまった。最後に、飲み忘れていたみかんジュースを喉に流し込む。オレンジとは違う、柑橘のはじけるような爽やかな甘さが、全身に染み渡っていくようだった。
「ごちそうさまでした!」
再び合掌。
「どうだった?」
寿老に尋ねられ、そこでようやく、食事中会話もせずに無言で料理に手をつけていたことに気付いた。
「はいっ、特にこのサラダが……いや、でもパスタも……パンも良かったし、ジュースも……うーん、全部、美味しかったです!」
「そう、気に入ってくれて良かったよ」
言って寿老は目を細め、ふわりと微笑した。
寿老が自分の皿の料理を平らげると――あろうことか、女の私の方が先に食べ終わってしまった――残っていたコーヒーを飲み干した。すると店員がすかさず現れ、食器を片付ける。そして去り際に「ごゆっくりどうぞ」と笑顔をこぼした。
休憩所の外に設置された時計を見やると、時刻は午後一時だった。この場所でのんびりしていたい気持ちを抑えつつ、私たちは再び園内を巡ることにした。