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  • その指先で狂わせて

     普段であれば消毒液のにおいで満たされている清潔感のある室内に、不釣り合いなバターの香りが漂う。濃厚なそれの中に、華やかなバニラの芳香を感じとれば、にわかに目眩が誘われた。 「注意力散漫。これで何回目…
  • 今夜も、フロントカウンターで。

     酷い雨の音が、ガラス一枚隔てたロビーにまでも届いている。エントランスの自動ドア越しに、濡れたアスファルトに反射する街頭の光が、じわりと滲んでいるのが窺えた。  フロントカウンターの内側で、笹山はそれ…
  • 遠出

     ふと、どこかへ旅に出ようかという気になった。一週間ほど肌寒い日が続いたのが、今日になって突然暖かな陽気になったものだから、つい窓を開けて庭を覗いたのがいけなかった。  冬独特の軽く乾いた鋭利な感触に…
  • 静謐遠く

     黒霧漂う地平線。そこから広がる空は、群青、茜色を挟み、突き抜ける青、そして目映い金色を同時に湛えている。  大地を覆う温かな土の上に走る濃緑。それは溜まった雨水が腐り果てた末に生じた色だ。双方の色が…
  • 僕とおっぱい

     愛が地球を救うなんてテレビではよく言ってるけど、僕はそんなのは、嘘っぱちだと思う。そもそも愛だけで地球が救えたら、争いなんて起こるはずもないじゃないか。 「――僕は思うんだ。こんな荒んだ世の中で僕を…
  • 胡桃割人形

    大事な大事な私の人形。 大きく大きくお口を開けて。 小さな小さな胡桃を咥えて。 そぉれ、いちにいの。 さん。 * * *  小さな町の、秋の夕暮れ。傾きゆく真っ赤な太陽が、少女の影を大きく映しだす。恐…
  • 年神さまにおねがい

     今年の夏、妻と離婚した。役所に届けを出したのは、丁度結婚十年目の記念日のことだった。  原因は明らかに僕にあった。毎日、毎日、仕事のことだけを考え、家庭のことなど省みたこともなかったのだ。ただ、妻と…
  • にわかぱんだ好きに興味ありません。(4)

     篠沢を顎でダウンさせた人物は、伊奈理沙子。  中国に留学していて、日本に戻ったのはつい先月のこと。  本日より篠沢たちの所属する辻研究室に入るのだという。  今年で二十三歳だというが、篠沢にはとても…
  • にわかぱんだ好きに興味ありません。(2)

     先日の一件以来、結局篠沢の白衣は、合わせをとめずにだらしなく開かれたままにされている。あの後、逆井が『とりあえずやればわかる』としつこく薦めてきたものだから、篠沢は半信半疑ながらも実行に移すことにし…
  • にわかぱんだ好きに興味ありません。(1)

     同じ言葉を一体何度耳にしたか、彼はもう覚えてなどいない。 「ねぇ、篠沢君って動物行動学が専攻だったよね?」  資料の書籍に目を通していた最中だっただけに、突如として現れた女性のその台詞は、余計に篠沢…