その柳の下に[五章]

 

 陰鬱とした秦野の気分がいくらか紛れたように見えたのは、終戦後、かねてより秦野が小説を連載していた雑誌が復刊を果たしてからだった。彼は出版社の依頼を受け、戦前のように少年向け作品の執筆を再開することができたのだ。出版業は活況であった。戦時中、発行物はその表現を厳しく規制されていたため、反動もあってか、飢えた獣のようにひとびとはこぞって活字を求めていたのである。

「今こそ大衆のための小説を書くべき時だ」と、秦野は奮起した。寝る間も惜しんで原稿用紙にペンを走らせた。嬉々として執筆にあたる彼の横顔は、非常に緩慢な速度で肉を落としていき、やがてその色を土気色へと変えていった。私は彼の身の回りの世話をしながらも、その様子をただ静観するだけだった。

 ああ、これが死というものであるのだろう。私は、生まれて初めて、自然なる死の予感というものを覚えた。そこにはひとの意思が介入する余地などないのである。

 彼は死ぬ。死んでしまうのだ。戦地でも、空襲によっても失われることのなかった彼の命も、尽き果てる時がいずれ来るのである。そうして、いつかは自分にも、その時は訪れるのだろう。……この考えは、不思議と哀切を伴わなかった。

 かねてより私が感じ取っていた秦野の肉体の衰退を、彼自身が自覚したのは、東京から戦争の残滓が殆ど消えようとしていた、昭和二十八年の夏の終わりだ。

 文机の上に広げた原稿用紙の上で、彼は突然喀血した。肺結核であった。

 医者に診せると、すぐに入院しての療養を薦められた。彼はそれを拒んだ。しかし、だからといってこのまま下宿に迷惑をかけるわけにもいかないと、私たちは居を移すことにした。

 喀血した翌週には、早くも転居の目途が立った。秦野が懇意にしている作家の自宅が田端にあり、そこの離れをすぐに借りられる手筈になったのだ。告げられた地名に、私はあまり良い気持ちがしなかった。田端は、空襲の被害を受けるまで、多くの作家や芸術家が集まっていた土地だと聞いていたからだ。下宿の部屋でこの旨を書きつけた葉書を受け取った秦野は、困惑と呆れが入り混じった複雑な顔で苦笑した。しかし、田端は嫌だとは口にしなかった。

 出会った頃の力強さを既に失ってしまっていたその目が、久しく意識することのなかった私の胸の虚穴を、冷たい指先で掻き混ぜた。そうなって初めて私は、秦野の目尻に、額に、口元に、深い皺が幾つも刻まれていることに気が付いた。

 未だ残暑厳しく、汗ばむような気候にも関わらず、皮膚は酷く乾いていて、シャツやズボンから覗く手足の皮も、どことなく締まりがない。彼は老いた。そうして、恐らく私も、同じように老いているはずであった。

 十三で東京に出て三十年近く。既に齢四十を超えている。しかし、社会との関わりを殆ど持たないまま生きてしまった私の精神は、きっとあのひとが死んだ柳の木の下で、未だ眠っているのだろうと思われた。それでも、肉体ばかりが自然なる死へと愚直に突き進んでいく様は、誰の目にも酷く滑稽な光景であったはずだ。

 肉体的な死、精神的な死、両者がその身に同時に迫りつつある秦野が、私には少しばかり羨ましかった。

「田端も、きっと良いところですよ」

「このままお前と暮らせるならば、そうなるだろうな」

 すっかり枯れてしまった声で穏やかに紡がれたこの言葉は、私の胸の内で蜜のように温かく溶けた。自分自身が本当に為すべき役割というものを、私はこの時、ようやく手に入れたのだと確信した。

 

 転居先は、坂塚という作家が暮らす数寄屋造りの本宅と廊下で繋がれた離れであったが、これは屋敷共々、空襲で焼失したのを再建したものらしい。しかし私たちに貸し出したぐらいであるから、普段は一向に使用していなかったようだった。

 私たちが離れに足を踏み入れた際、六畳ほどの部屋の隅には、不用品と思われる行李がいくつかそのまま置かれていた。南向きの硝子窓からは、夏よりは幾分か和らいだ陽光が柔らかく部屋を照らしていて、畳を踏む度に、舞い上がった埃がそれを受けてきらきらと光った。この部屋の様子は、どことなく私が幼少期の数年間を過ごした納屋に似ていたが、しかし取り巻く空気は明るくからりとしていて、陰鬱さは微塵も感じられない。

 秦野も、この離れをいたく気に入っていたようである。喀血以来一向に冴えなかった顔色も、この引っ越しの時ばかりは、以前のような血の気が戻ったのであった。これは、私にも嬉しいことであった。もしかすると、田端での暮らしが、彼の病を癒すのではないかと期待もした。

 そんな思いとは裏腹に、秦野の体調は回復の兆しを見せなかった。小康状態を保った病身は、二度の冬を耐え抜いた。

 彼は、病床に臥しながらも、小説を書くことだけは止めなかった。状態が幾分か良い時は文机の前で、そうでない時は布団の中で、症状が芳しくない時は彼の口述を私が代筆した。言葉を発する度、乾いた咳が頻発した。体調の優れない日も増えていった。

 三度目の冬の終わりに、彼は再び喀血した。呼びつけた医者は早々に匙を投げた。私が病状を尋ねようが、ただ首を横に振るばかりだったのである。医者は診察料も取らずに逃げ帰った。

 覚悟を決めるべき時が来ていたのだ。

 

 喀血の後、秦野の具合は低調に推移した。微熱が続き、起き上がることもままならないため、机に向かうことなど当然できるはずもなかった。喉に痰が絡むようで、声を出すのも億劫がった。彼の筆は止まったままだった。このまま、もう二度と走りだすことはないだろう。そんな哀しい確信が、私の胸に宿っていた。

 この年の春は、雨が少なく穏やかな晴天が多かった。安定した天候が続いたことが、秦野の病身を幾分か楽にしてくれたようだった。

 開け放した窓から爽風が花の蜜の香りを乗せて、ゆるりと吹き込む、五月初めの心地の良い午後のことだ。軒の向こうに、澄んだ蒼空が覗き、その色が、生垣の躑躅が幾つもつけた紅い花弁を、一層美しく際立たせていた。私は、坂塚氏に断りを得て、これを一枝折り取った。この紅色を、どうしても秦野に見せたくなったのである。あまりに柔らかで優しげな季節の色を。

 私は、ひとつだけ花のついた躑躅の枝を、水を入れた湯呑に差し、枕元の盆の上に、水差しと並べて置いた。布団の上に仰向けになっていた彼は、顔を傾け、ちらとそれに目をやった。すると、座りが悪かったのか、枝がついと向きを変えた。花が彼に一層近付くと、その紅によって、土色の顔に、にわかに朱が差したように映る。互いに顔を見合わせると、どちらかともなく微笑がこぼれた。

 窓硝子が風に揺れた。風が強くなったようだ。窓を閉めるべく膝を立てると、刹那、ついと着物の裾を引かれる。秦野は首を左右に振った。

「強い風は、身体に毒です」

「甘い匂いだ。これが毒だと?」

 しわがれた声に僅かに滲んだ、弾むような調子に、私は仕方なく腰を下ろした。彼の手もすぐに離れた。

「……好い天気だな」

 その顎が、少し仰け反る。視線は空へと向いていた。白く濁った瞳に、清々しい蒼が映っている。

「ええ、本当に。今年は気候に恵まれましたね」

 空いた胸まで、掛布団を引き上げてやる。この時、乾いた皮膚を押し上げる肋骨が生み出す陰の濃さに、見て見ぬ振りをするのが常だった。

「柳先生に連れられたお前と、ジュリエッタで出会ったのも、こんな気持ちのいい日の午後だった。あれは、秋頃だったか。店に入った時、お前は俺に背を向けていて――先生は、ああ、俺を見るなり、酷く厭そうな顔をしていたな」

 窓枠が、ひゅおう、と風を切った。紅色が揺れ、湯呑の中に小さな波紋が浮かぶ。二三度の空咳。

「昔のことは、もう、忘れました」

 布団の上から彼の胸をさすりながら、曖昧に笑む。これを、彼はきっと見ていなかっただろう。瞳には変わらず遠い空が映っているばかりであった。

 庭で、子供がはしゃいでいる。坂塚家の長子である。氏がそれを諌める、しかし喜色の濃い声がした。次いで、夫人の控えめで品の良い笑い声が続く。その景色は、開け放たれた窓を通じて、私たちがいる埃っぽい離れの一室と、確かに繋がっていた。

「順二郎」

「はい」

 秦野の瞳が私を映した。

「俺は、死ぬ」

 端的なその宣言には、苦笑で返すほかなかった。崩した膝の上で握った拳に、きつく爪が刺さる。

「そんな、縁起でもないことを――」

「死ぬのだ」

 不意に力の宿った声色に、若く健常であった頃の彼が髣髴とされた。しかし昏く窪んだ眼窩が、その印象を上回って、彼の言葉に異様な真実味を持たせていた。

「……お前は、どうする」

 問いの意味を瞬間、理解し、途端、どっ、と大きく心臓が脈動した。

「何なら、道連れにしても構わんが」

「秦野さんの、道連れに」

 道連れ。そのあまりに甘美な響きが、私の心を捉えた。

「俺は、もはや起き上がることも叶わん。だがここへ刃物さえ持って来れば、お前の心臓を一突きするぐらいはできよう。或いは、首を括る方が良いと言うなら、その踏み台を俺が外してやろう。俺がお前を殺してやる。俺も、遅からず逝くだろう。俺たちは、下手な夫婦より長く共に暮らしてきたのだ。このまま死を共にするのも、悪くないことだと思わんか」

「……私、は」

 一言「はい」と答えれば済んだのである。私が頷きさえすれば、きっと彼の言葉は現実のものになったであろう。そうすれば、長年苦しめられてきた、悲哀や悔恨をはじめとする諸々の情念にこれ以上苛まれることもなくなるのだ。

 しかし、私は想像してしまった。私が死んだ先にある光景を。着物の胸元を血に染めた私の傍で、すっかり皮と骨だけになった手を赤く濡らした秦野の姿を。梁から垂らした縄から惨めに垂れ下がる私の身体を、布団の中から見上げる、昏く憐れみに満ちたまなざしを。

 あとに残される苦しみを、私はよく知っていた。

 それ以上を答えることも、首を縦に振ることもできかねた。彼の求めに応じられない申し訳なさに、ただ視線を逸らすばかりであった。

 握った拳の上に、硬く乾いた手のひらが重なった。そこから感じられたのは、ゆっくりと遠ざかっていく生である。だが、その手のひらの存在自体に、私は確かな安堵を覚えていた。

「すまん、酷な誘いだったかもしらん。本気にしてくれるなよ。そんなことをしたら、あの世で先生に雷を落とされかねん。死んでまで叱られたら堪らんからな」

 冗談めかすと、また小さく咳き込んだ。慌てて私はまた胸をさする。顔が僅かに横に傾けられので、片手で水差しを取り、彼の口元に運んだ。喉が上下する。垂れた水が頬を濡らしたので、指先で拭った。温いそれは、優しい嘘の温度であった。

 

 暫しの沈黙があった。既に庭に坂塚一家の団欒の声はない。出かけたのか、室内に入ったのであろう。風はようやく穏やかになりつつあった。太陽は柔らかな光で部屋を明るく照らしている。蒼い空で雲雀が囀っている。私の隣では、秦野がその喉から、ひゅおう、ひゅおう、と掠れた音を出しながら弱弱しい呼吸を繰り返していた。乾いた手のひらは、未だ私の拳を包んでいる。

 頬を撫でる緩い風。

「本当。甘い匂いがしますね」

 その中に混じるものを鼻先で感じながら呟く。彼の指先に、僅かながら力が籠められた。

「……なあ、順二郎よ」

 彼は枕から僅かに頭を上げて、私に視線を寄越した。咳き込む。布団の肌蹴た胸をさするが、彼は頭を振ってそれを拒絶した。以前よりは幾分か景色を捉え辛いのだろう、濁った目が細められている。

「俺はなあ、やはり、お前は小説を書くべきだと思っているのだ。お前が小説を書いたことで、先生との仲が拗れたのは、悪いと思っている。この病は、もしかするとその報いなのかもしれん。

 俺は死んだって一向に構わん。小説はもう充分に書いた。大衆小説は今やこの国に於いて、確固たる地位を築いている。やるべきことはやったのだ。死んで悔いることは、もはやない。だが……、俺はただ、お前のことだけが心配なのだ。俺が死んだあと、お前がひとり心身を朽ちらせてしまうのではないかと、それだけが不安で堪らないのだ」

 懇願の視線が、私に縋りついていた。胸がナイフで引き裂かれるような心地だった。ああ、これと同じ感覚を、私はかつてどこかで味わいはしなかったか。

「だから、頼む。俺が死んだら、また小説を書いてくれないか。昔のように、作家になれなどと言っているわけじゃない。大衆のために書いて欲しいのでもない。ただ、お前の心を、魂を潰さないで欲しいだけなのだ。文章を書くことによって、どうか、暗い胸の内に風を通し、光を当ててやってくれないか。そうでないと、お前が、今度こそ腐り果ててしまう気がする……」

 そう漏らす秦野の枕元で、紅が微かに揺れている。

「ああ、俺はもしかすると、……順二郎、お前に惚れていたのかもしらん。才能に、精神に、肉体に、惹かれていたのかもしらん。小説を書かせたのも、先生の元から、お前を奪い去りたかったからかもしらん――」

 これは、出征の日の続きであるような気がした。途端、私は狂おしい衝動に駆られた。秦野の身体に覆い被さるように、身を乗り出す。そうして、顔を寄せ、彼の頬に手を添え、その唇を塞いだ。乾いた唇の表皮が、ところどころ剥がれそうに浮き上がっている。

 侘しい感触が、私自身の真実の気持ちを明確にした。……かつて、この鮮やかな紅色にこそ、私は胸を焦がしたのだ。

 胸元は、すぐに弱い力で押し返される。

「馬鹿、死ぬぞ」

 私の下で、秦野が必死の表情で訴えた。

「いいんです」

 胸元を押す手を握る。秦野が驚きを浮かべた。

「何もできないまま、後悔をするのは、もう、沢山なのです。だからせめて――」

 秦野の土色の頬に、ひとつ、ふたつ、こぼれた滴を認めた。着物の袷が強く引かれる。秦野の胸の上に身体が落ちた。潤んだ視線同士が、空中で濃密に絡んだ。心臓が破裂せんばかりの鼓動、その音だけが支配する世界。どちらからともなく再び合わせた唇。自ら断ち切った視界。瞼の向こうから射す淡い光の中、歯が微かに触れ合うその硬さすら甘い刺激へと変わり、身体の芯を震わせた。これが恐らく、私が長く心の底で求めていた、魂同士の交合であっただろう。その幹に大きく洞が穿たれ、内から冷たく朽ち果てようとしていた樹木を、滾々と湧き上がる熱と共に、今にも溢れんばかりに樹液の洪水が襲い来る感覚。この、何と充溢たることか!

 しかしそれとは裏腹に、私の指先は秦野の左腕を這い、無慈悲にも、幻の火傷の痕を探していた。

 私たちの唇は、離れなくてはならなかった。哀しい偽証は、極短時間で済まされた。

「ああ、これ以上ない冥土の土産だ」

 恍惚として呟く彼の、安寧に満ちた表情に、私は仏の微笑を見出した。

 ゆっくりと、身体を離す。刹那的な幸福の余韻が、却って胸を苦しくした。私はただ、彼の手を強く握ることしかできなかった。

「順二郎」

「……はい」

「死ぬなよ。なるだけ、長く生きろ。先生と俺の分まで」

 せんせい。彼が添えた、そのたった四つの音だけが、私と彼を繋いでいたすべてであったのだと、今更ながらに思い知らされる。

「…………はい」

 高い空では、まだ雲雀が鳴いていた。風が頬に触れる、その哀切たる感触に、私たちは口を噤んだ。

 

 三日後、秦野は息を引き取った。酷い喀血を繰り返した末、再び私の手を握り返すこともなく逝った。短すぎる幸福の後に目の当たりにしたこの残酷な場面は、私が生まれて初めて目にする、人間の死の光景であった。

 死は終わりである。死の先は、紛れもない無なのだ。少なくとも、死者にとっては。

 荼毘に伏され、素焼きの壺に収められた彼の遺骨の異様な白さが、私にそれを教えてくれたような気がした。

 ……ああ。かつて私の死を望んだ父の幻影を、見なくなったのは、一体いつのことだっただろう。私はいまだこうしてひとり、生き長らえているというのに。

[六章↓]

1頁 2頁 3頁

       
« »

サイトトップ > 小説 > 同性愛 > その柳の下に > その柳の下に[五章]