その柳の下に[五章]

 

 柳の葬列に、私は加わることができなかった。柳の遺言によるものだと、あとから屋敷を訪れた西山は告げた。遺体の傍に遺言書が残されていたらしい。

 柳の遺体を前にすれば、私はきっと正気ではいられなかっただろう。むしろそれ以上に、柳との間にあらぬ噂を立てられている私が参列することで、周囲の好奇を掻き立て、柳の尊厳を貶めることになるのが恐ろしかった。だから、自らの意思とは無関係な理由で葬列に加われないことは、却って幸いであった。

 主を失った屋敷に、元々柳家とは無関係の私が居座り続けるわけにもいかない。かといって、私が移る場所など、この東京にはここの他になかった。この期に及んで宇都美の家に戻ることも、もはやできない。それに、柳がいなくなってからというもの、私は父親の幻影を頻繁に目にするようになっていたので、そういった理由からも、宇都美に帰ることは憚られた。

 そんな私に声を掛けてくれたのが秦野だ。元より、彼は私に柳の屋敷を出ることを提案していたから、話は早かった。秦野の暮らす下宿で相部屋をすればよいということになり、早々に居を移すことになった。

 私は、屋敷からものを殆ど持ち出さなかった。祖母から譲り受けた柳の著書も、柳から贈られた『嵐中記』も、そのまま残した。杖と、それから着物だけは、はる恵に頼んで幾つか風呂敷に包んで貰い、携えた。

 秦野に連れられて屋敷を去る際、件の柳の木は、嫌でも私の目に入った。幹は地面に近いほど太い。その中ほどには、ぽっかりとあいた洞。すっかり葉の落ちた細い枝は、晴れた冬の穏やかな昼の陽射しに照らされてなお、悲痛な面持ちで地に向いて垂れていた。主人の死を悼んでいるようにも見えたが、柳が存命の内にも枝は一度たりとて上向いたことなどない。私がこの屋敷に初めて足を踏み入れた際にも、細枝の垂下は既に成っていた。

 ここで、彼は死んだのか。……どうやって?

 柳の木の前で足を止めた私は、そこに彼の姿を重ねようとした。縄で首を括った姿を、刃物で切られた首元を、眠る様に幹に横たわる痩せた身体を、それぞれ想像してみるものの、しかしそれらが死に結びつくことはない。命を絶やした彼の姿は、私には想像することができなかった。それもそのはずだ。私自身、それまでひとの死を目の当たりにしたことがなかったのだ。かつて、火傷というものが理解できなかったように、死というものの本質についていまだ理解していなかったのである。私は、自分が生きる上で、これほどまでに死というものから遠ざけられてきたという現実に愕然とした。

 冷たく乾いた風が頬を切る。垂れた柳の枝々がゆったりと前後に揺すぶられた。誘惑の指先に似たその動きが、私をどきりとさせた。秦野が呼んだことを理由に、慌ててその場から離れる。

 門を抜ける際、屋敷は振り返らなかった。玄関先では、はる恵が見送っているだろうと思われたからだ。彼女の姿を認めれば、この別離が耐え難いものになることは間違いなかっただろう。私は、もう二度とこの屋敷に戻ることはないだろうと考えていた。

 作家・柳肇と私の、五年に及ぶ同居生活は、こうして幕を閉じたのであった。

 

 秦野の下宿は、柳邸のある湯島から、帝大の敷地を挟んで北西に位置する森川町にあった。坂の脇に建つ三階建てで、木造ながら大地震の時も奇跡的に倒壊を免れた、明治から残る建物だ。室数は七十ほどもあり、下宿としては大規模なものである。秦野の部屋は、一階、玄関から最も近い四畳間だった。

 ここでの秦野との生活は、感情の激烈な起伏を伴った柳とのそれに比べ、凪のように穏やかなものだった。

 私に何もさせようとしなかった柳とは反対に、秦野は私に、あれこれと用事を言いつけた。用事とはいっても、これまで書いた草稿の整理であったり、要らない紙束を庭で燃やしたりと、足の自由が利かぬ私にも易しいものばかりだ。

「とにかく、何かすることだ。そうすれば気も紛れる」

 私に何かを頼む時、彼は決まってそう言った。その言葉の意図を、私はすぐに実感することとなった。柳を失った私は、最初こそ空虚な哀愁に寄り添い、何をするにも酷く気怠かった。しかし、彼に言いつけられた雑用に取り掛かれば、それらは案外に集中力を要し、気付いた時には私は柳のことをすっかり忘れて作業に没頭しているのだった。それは、秦野に対する申し訳なさも手伝ってのことだったろうと思う。

 彼がいなければ、私は行くあてもなく東京の街を彷徨った挙句、見知らぬ場所で、父親の幻影に後ろ指をさされながら、惨めに野垂れ死にしていたはずだ。そうならなかったのは、ひとえに彼の温情故である。それに加え、秦野は、かつて私が彼に向けて放った言葉の数々には一切触れることがなかった。もう「小説を書け」とも薦めてこなかった。あれだけ熱心に私の元を訪れていたのに、だ。こういった秦野の配慮に、私は内心感謝していた。それによって、屋敷でのことを、極力思い出さずに済んだからだ。

 柳からの恩に報いたいと望んだように、秦野からの恩に報いようと、私は必死だった。以前の私が柳のことだけを考えて日々過ごしたのと同じく、この下宿生活中は秦野のことのみを心中に留めようと努めた。

 私は忙しく動き回って日々を過ごした。秦野の手伝いがない時は、大家に頼み込んで、私にもできる用事を(窓拭きや、庭の草取りなどをよくやった)与えて貰った。

 大家からの用事もなくなると、思い切ってひとりで散歩に出るようになった。杖をつき、とにかく帝大より東にだけは行かぬように注意を払って歩いた。下宿に移る以前は、ひとりで出歩くことなどなかったし、東京の地理は詳しくなかったから、散歩を始めたばかりの頃は、少し路地を入っただけですぐに迷ったものだった。大家や秦野が慌てて探しに来たことも、片手の指では足りないほどあった。近辺の地理を覚えてからは、水道橋や飯田橋まで歩いては、橋を渡らずに折り返して下宿に戻るのを、決まった順路とした。一度北西に向けて歩いたことがあったが、あちら側はあまりに寺が多かったので、すぐに引き返したのだった。

 大家の人柄によるものか、下宿には気さくな住人が多かった。中でも懇意にしてくれたのは、私が下宿で暮らし始めて数年経ってから越してきた、真柴という一家だ。真柴家の幼い二人の子供が、秦野の冒険小説の愛読者であるということから、よく秦野の部屋に遊びにきていた。しかし秦野も仕事があるので、そういう時は私が、子供たちに本の読み聞かせをした。私は黙読を常としていたため、きっと拙い朗読であったと思う。それでも、彼らが物語に没頭している姿を目の当たりにすると、自分が少しでも何かを成せているのだと実感でき、その度に嬉しくなったものだ。

 真柴氏は、秦野だけでなく私にも謝意を示し、時折近くの食堂で蕎麦を奢ってくれることがあった。――口に運び、歯で押し潰した、つるりとしながらも僅かにざらついた蕎麦、それが喉を下っていく感覚。鼻腔を抜ける蕎麦の爽やかな匂いと、温かく醤油濃いつゆの香ばしさ。その染みるようなしょっぱさ。それらが胃に溜まる心地よさ。「ここの蕎麦は旨いでしょう」そう言って目を細めた真柴氏の、人当たりの良い丸っぽい顔。目の下辺りから柔らかく突出した、不幸とは縁遠い両の頬。口元の笑い皺。片側だけ浮かぶえくぼ。そんな真柴氏を伴った三人での外食は、この下宿生活に於いて、私が得た、何にも脅かされることのない(そして恐らくは世間一般に於いても正常な範囲に留められた)幸福の情景に違いなかった。その証拠に、二十余年経った今でも、この時に知覚したものを、私は子細に覚えているのであった――

 人間関係や環境に恵まれたこともあって、下宿暮らしの中で、私は柳肇という存在を、何とか自分の中に隠し果せていた。しかし、それでも完全に忘れることは叶わなかった。否、忘れることなどできるはずもない。下宿での穏やかな暮らしの中で、ふっと「これは夢ではないかしら」と感じ入る度、部屋の隅に、窓硝子の向こうに、井戸の後ろに、橋の欄干の外に、父親の幻影が立ち、無言で私の罪を責めたてるのだから。その恨めしげな表情は、まるで私が幸福にならぬように見張っているかのようだった。

 父親の執念深い監視の甲斐あってのことなのか、安らかな生活にもやがて終止符が打たれることとなった。昭和十二年に、支那事変が勃発。日中が開戦したのである。私は既に二十六を迎えていた。

 

 翌年、戦況を現地で記録するため、二十数名の作家が選出された。所謂『ペン部隊』というものだ。そこに秦野も加わることになった。自ら志願してのことだという。何故、という思いが、私の中にはあった。だが、私の心情を慮ってくれた彼に対して、無遠慮に疑問をぶつけることは憚られた。戦地に赴くことを短い言葉で告げた彼に、私はただ「わかりました」と答え、深く頭を下げることしかできなかった。

 出征の前夜、大家の計らいで、下宿の住民総出で送別の宴会が行われた。この下宿は、エル字の廊下が、中庭を望むサロンのようになっており、宴会もここで催された。

 秦野は、普段私の前では口にしない酒を、浴びるほどに飲んだ。そうして、真柴氏や若い学生などと肩を組んでは軍歌を唄い、大声で笑い合っていた。その光景は、全く時勢に逆らわない自然なものである。国のため、身命を賭して働くのは、国民の最もたる美徳であった。だから、本来は、はめを外した彼らの輪に、私も入るべきであった。否、入っていなくてはいけない。そしてそれを何の他意も持たずに為さなくてはならないのである。しかし、私には、そこに加わることはおろか、部屋の隅からそれらをまるでどこか遠い世界のことのようにぼんやりと眺めることすら苦痛だった。――納屋の中から外を見たように、書斎の窓から庭を眺めたように、胸の内に昏きものを抱えながら、現実感のない現実をいつだって傍から見つめなくてはならないことは、私の運命であったのかもしれない――

 手元の杯には、黄味がかった酒が注がれていた。それを舌先で舐めるように啜ってみる。酔い潰れてしまえば、早々にこの場から退散できると思った。しかし飲み慣れぬ酒の喉を灼く辛さは、酔いに身を委ねることを許さなかった。元より、用意された豪華な食事には一向に食指が動く気配がなかったので、会がお開きになる夜半頃まで、私はひたすら酒を啜るふりをし続けたのだった。

 

「俺たちは『従軍文士』なんだと。皮肉なものだ、こんなところで『文士』呼ばわりとはな」

 翌朝、出立までの時間を、彼は私とふたりだけの部屋で過ごした。その際、秦野はそう冗談めかして苦笑した。前の晩、彼に対して疎外感を覚えてた私は、一転この態度にすっかり安堵した。格好こそ普段とは違うカーキ色の国民服姿であったものの、しかし文机に背をもたれるように、ゆったりと胡坐を掻くこの男は、間違いなく私の知っている秦野であった。

「気に入らぬ肩書きも、自称でなければ、笑いの種ぐらいにはなりましょう」

 出征前とは思えぬほど柔和な彼の態度に感応したように、私の口元も自然綻んだ。

「機関士や操縦士と、同じようなものですよ」

 気の緩みがあったのだと思う。そうやって軽口を吐いたものの、私はすぐにばつが悪くなって秦野の顔を伺い見た。しかし「違いない」と、からから笑う彼の表情には一点の曇りも見当たらなかった。

 戸を叩く音がした。続いて大家が秦野を呼んだ。出立の時間がきたのだ。

 秦野は戸外に向かって返事をして、腰を上げた。私も壁伝いに立ち上がろうとした。彼はすぐには部屋を出ようとはせず、私の方へ歩み寄って来ると、黙って私の左腕を引っ張った。

 細い右足の指先が、畳に触れる。背が壁に押し付けられた。僅かに視線を上げたそこに、秦野の顔があった。真摯な目つき、引き結ばれた唇の緊迫感は、先程までの穏やかな雰囲気を微塵に打ち砕いていた。

 瞳の僅かな揺らぎすら感じ取れるほどに近いこの距離が、却って相手の心を見えづらくしているようだった。そのせいか、私は彼の意図を計りかねた。だがしかし、私の目に彼だけが映っていて、彼の目にも私だけが映っていることだけは、誤りようのない真実であった。

 かつて、私は柳の目を、これほど無心に見つめたことはなかった。秦野と交わしたこの視線以上に、純粋な無意識の衝動によるものが、果たしてこの世に存在するだろうか? 有用無用だとか、必要不必要だとか、そういった合理的な理由付けとは無縁の淵に、この時私たちは立っていたのである。

 秦野の唇が、薄く開いた。瞬間、私と彼を強く結びつけていた糸は切れた。彼は再び口を堅く引き結んで、私の肩を手で軽く叩くと、身を離し、部屋の戸口に立てかけてあった杖を取った。それを私に手渡すと、黙ったまま部屋を出て行ったのだった。

 部屋に取り残された私は、暫し呆然と佇んだ。心が、愚かにも先程の行為の意味を求めていた。だが同時に、それを問うことは許されないのだという確信も得ていた。

 大家が戸口から覗いて私を呼んだ。急いで杖をついて部屋を出る。秦野は既に庭に出ていた。下宿の住人や、友人らしき数名の男性が、彼を取り囲んでいた。私が庭に出るとすぐ、出征を鼓舞する万歳の大合唱が始まった。彼はそれに不慣れな敬礼で応えていた。私はただ視線でもって見送ったが、とうとう一度も目が合わずじまいのまま、彼は数人の付添と共に駅へと向かっていった。

 

 秦野の無期限不在に際し、私の世話を焼いてくれたのは真柴夫人であった。彼女が頻繁に訪ねてきては、部屋の掃除や洗濯などを買って出てくれたので、これには大層助けられた。

 夫人は、良人である真柴氏と同様、ぷっくりとした両頬が印象的な穏やかな女性だった。着物の上に纏った割烹着と、きっちりとした纏め髪が、まだ若い彼女をいかにも母親然とさせていた。当時の私とさほど歳も変わらなかっただろう真柴夫人に対して感じたのは、安定の二文字である。私が持ちえなかった、ごく一般的な家庭の姿を、私はこの真柴一家に見出した。それは、対比によって私自身の孤独を浮き彫りにする結果となった。安定した幸福を享受する家庭の中に、私という不安定な存在など、決してあってはならなかった。彼女が部屋を去った後、いつも私は、胸の内に冷たい隙間風を感じながら、眼窩の窪んだ物言わぬ父親の幻の横で、惨めに眠るのであった。

 年が変わらぬうちに、この生活も終わりをみせた。真柴氏の出征が決まったのである。それに際し、夫人とふたりの子供は真柴氏の郷里に身を寄せることになった。

 秦野の時のような、盛大な出征の見送りはなかった。真柴氏は、出征に先んじて家族を田舎に送り届けることになっていたからだ。出立の前に挨拶に訪れた真柴一家との別れを、私は形一通りには惜しんでみせた。不思議と哀しみが沸き起こらなかった。子供たちは泣いていたが、私は「どうか元気で」と一言だけ声をかけるに留めた。真柴氏は私に握手を求めた。私はそれに応じた。彼の太く硬い手指と広い手のひらに、秦野の手が思い出された。

「またいずれ」

 肩を叩かれ、私は曖昧に微笑した。

「ええ、また」

 形式じみた別れの儀式に、再会の予感はなかった。彼らとはこれきりになるだろうと思った。この口数少ない私を、幸福な家族は『健気にも悲しみを堪えている青年』とでも捉えただろうか。もしそうであれば、それはとんでもない思い違いである。

 ともあれ、私はこうして、ひとりでいることを余儀なくされたのだった。

 

 戦場で命を散らす機会を与えられたほうが、私にとっては幾分か幸福であったかもしれない。戦地に立つということは、少なくとも、私という存在が、国にとってほんの少しでも必要とされた証となるからだ。しかし、元より私は、徴兵検査で落とされていたため、出征の命令が下されることはなかった。

 真柴一家が下宿を去ってからは、外を出歩くことを止めた。自分が国にとっても役立たずだということを、自ら喧伝しているように思えてならなかったからだ。そしてそれは、強ちすべてが誇大妄想というわけでもなかった。庇護者を失った私に対し、同じ下宿の学生たちが、白い目を向け始めたのだ。

 この若者たちは、己のために、国のために、或いはしかし何かのために、学問を志した男子だ。誰の目にも必要とされることが明白な、役目を担った存在であり、私とは対極の位置に立っている。彼らの若く直情的な視線は、私が抱え続けてきた劣等感の、精巧な複製に違いなかった。それをまざまざと見せつけられるのは、身を切られるより辛いことだった。いっそ父親のような罵倒や暴力、井上のような性の欲望を以て、この身体を拘束し、制圧し、直に罰を下してくれたら、まだ諦めもついたはずだ。この間接的な非難に彼らの手段が留まったのは、彼らがみな、田舎から東京に出てきた学生ばかりであったためだろう。私は、極力部屋から出なくなった。

 

 秦野が戦地から戻ったのは、出立から二年半後のことだった。長いようで短いその年月は、卑屈な私の精神の何をも変えなかった。しかし、秦野の心身には、顕著な変化を及ぼしたようだった。

 彼は、何の連絡も寄越さずにふらりと下宿に戻ってきた。冷たい雨がしとしとと降る日の昼過ぎ頃のことだった。私は突然の帰還に驚かされたが、しかし部屋に入ってきた彼に声をかけようとした瞬間、その容貌に、思わず口を噤まずにはいられなかった。

 浅黒く日に焼けた肌、粗野にこけた頬、ぎょろりと露骨に見開かれたその双眸は、絶えず周囲を窺うように、右へ左へと動かされていた。身に着けた国民服は上下とも雨によりべったりと黒く濡れていて、まるで行き場のない野犬という印象だ。

 部屋に入ったのと同じ調子で、彼は無言で歩み寄って来るなり、何を思ったか私をその場に引き倒した。畳に強か背を打ちつける。痛みよりも驚愕に目を見張った。肌蹴た着物と襦袢の下へ、秦野の手が侵入してきたのだ。彼の手指は、硬く乾いてごつごつとしていた。岩のような指が、強い力で痩せた腿を捉えた。荒い息が、つんとした酒臭さを伴って、私の顎をべたりと舐めた。血走った目は虚ろで、私を見てなどいないことは判然としていた。

 もし、この時、彼の目がはっきりと私を捉えていて、さらに彼が一度でも私の名を呼んだなら……例えそれが酔いに任せた所業であっても、私はきっと、彼に身を任せていただろう。――何しろ私には、求められれば応じなければならない義務があったのだから――彼は正気でない、と私は踏んだ。隣の部屋や廊下に聞こえてしまうかもしれないと考え、潜めた声で、彼の名を呼んだ。加え、必死に胸板を押し返す。秦野は暫く、私の首筋や胸元に唇を押し当てていたが、私がいよいよ脚をばたつかせだすと、ようやく身体を離した。それを見計らって、私もすかさず彼の下から這い出した。

 裾や袷を直しながら、私はちらと秦野に視線をやって、愕然とした。先程まで私を力で制圧しようとしていた男の姿は既になかった。酔いなど感じさせない青ざめた顔。胡坐を掻いて、背を僅かに丸め、畳の一点を見つめながら、彼は身体を小さく震わせていた。

「なあ、順二郎」

 彼は上目に私を見た。

「ひとは簡単に死ぬぞ」

 口元は引きつり、力ない笑みが浮かぶ。

 その短くも重い言葉と、彼の様子に、私は、ぞ、とただならぬ悪寒を感じた。しかし彼の手から逃れてしまった私は、もはやどうすることもできず、ただ俯き黙っているばかりであった。

 静かな雨が、庭木の葉を打つ音でもって、私たちの間を埋めようとしていた。

 

 秦野は、戦地での経験を文章に書き起こし、いくつか出版した。かつて少年たちのために心躍る冒険小説を書き綴っていた彼が、それと同じ手で、陰惨な戦場で国のために奮起する大日本帝国軍の兵士たちの様子を記したことは、恐らく彼にとって不本意極まりないことであっただろう。だが、秦野は、小説に対する心意気はどうあれ、現実には紛れもない職業作家だ。作品を書き、その報酬で生活の糧を得ているのである。ひとりきりであれば、彼も自身の矜持を捨ててまで戦争のルポルタージュなど書く必要もなかったかもしれない。

 私さえいなければ、という思いはあった。けれど秦野は、執筆中であっても、常に私を手の届く範囲におきたがったのだ。彼の行動に、私は死の直前の柳を見ている気分だった。彼までもが命を絶ってしまうのではないか。そう考えると、秦野に負担を強いていると理解していながらも、彼ひとりを残して自分だけが死んで楽になるという選択肢を考えることすらできなくなるのであった。

 我が国を取り巻く戦況は日増しに厳しくなっていった。学徒動員や志願入隊などにより、下宿の活気も失われた。昭和十九年に入ると、敵機が頻繁に東京の空を飛び、爆撃を繰り返していた。空襲警報がある度に、下宿の庭に掘られた防空壕に人々が殺到した。秦野は「この建物が爆撃されたなら、庭の防空壕もただじゃすまんだろうよ」とばかにして避難をしなかったので、私もそれに従った。元より杖をつかねばまともに歩けない私が地面を掘り下げた狭い壕に入れば、周囲の邪魔になろうという気兼ねもあったので、秦野のこの非常識な判断は、少なからず私の心を軽くしてくれた。

 だが、下宿のある森川町にも、ついに火の手が迫る事態が起こった。昭和二十年三月十日未明のことである。

 強い北風が窓を揺らし、隙間から部屋に吹き込んでくる夜だった。その頃になると、夜にも警報が鳴ることがしばしばあったので、布団に入るにも服を着込んでおり(かといって、避難をするわけではないのだが)この夜も例外ではなかった。

 夜半過ぎの空襲警報で、私と秦野は目を覚ました。廊下の床板が、避難をする住人の慌ただしげな足運びによってしきりに軋んでいた。

「出ますか」

 燈火管制のため、明かりは灯せない。私は暗い部屋で上半身を起こした。

「いや」

 布団の中で彼が身じろぐ気配があった。短い返事を受けて、私も再び布団に身体を横たえる。だが、一度起き上がってしまったからか、すっかり目が冴えてしまっていた。だからだろう、暫く後に屋外で発せられた、強風の唸りをも切り裂く男の叫びを、私ははっきりと耳にした。

「三丁目がやられた! 菊富士にまで火が回っている!」

 どうやら下宿の庭から聞こえてくるようだった。

「菊富士が!」

 大家の引きつった声がした。壕から出てきたのだろう。

 菊富士とは、森川町からほど近い本郷三丁目に建つ、五階建ての巨大な高等下宿のことである。夜になれば屋根に施された電飾が輝くことが有名だった。昭和十九年に廃業するまで、そこに多くの芸術家・小説家が滞在し、作品の制作にあたったことでも世間に知られている。

 私とて、その存在は知っていた。秦野に連れられて森川町に居を移す際、件の巨大な佇まいを、遠目にちらと見たことがあったのだ。同時にその時、秦野があまり菊富士をよく思っていなかったことを知った。いつか聞いたような恨み節を、彼はこぼした。「自称文士が」と吐き捨てる彼の様子からは、菊富士を、というよりは、そこにしきりに滞在しようとする小説家を憎んでいるような節すら窺えたのだった。

 秦野があれほど好ましく思っていなかった菊富士が、燃えている。木造建築であるから、一度火が移れば全焼するのももはや時間の問題であろうことは、想像に容易い。風向きからいって、私たちの下宿にまで炎が届くことはないはずだ。……果たして菊富士を包む炎も、強風に煽られて誰かの肌を灼き、そこに消えぬ爪痕を残したのだろうか。

 徐に、秦野が布団を払い、立ち上がった。

「……出るぞ」

 促されるままに、私たちは身一つで下宿の建物から出た。

 深夜というのに、外では存外目が利いた。頭上を見上げれば、空の東の方が明るい。それは菊富士のある方角ではない。上野かその辺りに火の手が上がっているのであろうと思われた。

 庭には、見知らぬ顔の年寄や子供が幾人かいた。どうやら、火災の起こった本郷から逃れてきた者たちらしかった。庭に掘られた壕に次々と入っていく。それを誘導していた大家は、秦野に手伝いをするように求めてきた。だが、彼はそれを無視し、路地に出た。遅れながらも、私は秦野のあとを追った。私たちは、そのまま夜明けまで、無言で街を彷徨った。その後下宿に戻り、敷いたままの布団に身体を横たえるなり、泥のように眠ったのだった。

 ――これ以後も、空襲に際して一度たりとも避難の姿勢を見せなかった彼が、どうしてこの時ばかりは部屋を出ようと思い立ったのか。真実は、私には到底知れないことである。だが、三月十日に彼が私に見せた、身を潜めるように僅かに丸められた背中が、目に見えぬ何かから彼がひとりで逃れようとしているふうに見えたことだけは、私にとっての事実であり真実であった――

 同じ年の八月十五日、長く続いた戦争はようやくその幕切れを見せた。同じ東京という土地で何万ものひとが命を落としたというのに、ついに私は、この目に誰の死も映すことはなかった。

 

 

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