その柳の下に[四章]

 

 井上との間に起こったことへの、柳からの追及は免れた。はる恵が口外せずにおいてくれたのだろう。その代わり、預かった写真を渡す機会も得られなかった。それを机の抽斗にしまい込んだまま、ふた月が過ぎた。その間、訪れるものは郵便屋の他はなく、屋敷は不気味なほどに静かであった。

 柳は相変わらず、忙しなく屋敷を出入りしていたが、帰宅の時間は随分早くなっていた。朝方出かけては、昼過ぎには戻る。以降は部屋に籠るか、或いは庭の東屋に掛け、門の辺りをじっと凝視していた。

 そんな柳を、私は何度か自室の窓から覗き見たことがある。遠巻きに目にする彼は、私が知っている彼よりも、幾分か小さく私の目に映った。

 ある時、そうして東屋に座っている柳が、ふと首を捩って屋敷に視線を向けたことがあった。私は、慌ててカーテンを閉めた。目が合ったからだ。そしてそれ以上に、彼の様相があまりにも哀しく恐ろしく思えたのである。私が知り得る、穏やかさ・温かさ・知性・僅かな激情、そういった彼の精神的特質は、この時の彼からは、全く滲み出ていなかった。その姿は、虚と言い表すほかない。暗く、底知れず、外からでは誰にもその全容が掴めぬ、木の幹にぽっかりと空いた洞のようでもある。

 内側から朽ちゆくものの象徴たる洞の存在は、私の身体を震わせた。既に私自身、胸の内に同じものを認めていたからだ。

 以降私は、柳の肉体が樹皮が剥がれるようにぼろぼろと崩れていく夢を、繰り返し見た。かつて柳であった黒いかすだけがその場に残り、私はその様を成す術もなく眺めていることしかできなかった。

 うなされ、夜更けに目覚めると、決まってかたかたと、窓が小さく鳴っている。これは風の音であるのだと自分自身に言い聞かせても、カーテンの向こう、窓の外に、父が、或いは井上が立っているように思われてならなかった。恐怖に縮み上がった私は、眠れぬまま朝を待つ。この悪夢は、一人寝の夜に限って現れるものだから、私から望んで柳と共に夜を過ごすことが増えた。

 ――しかしこれは、真実、純粋に心の虚穴を埋めるためだけの行為であっただろうか。あとになって思えば、柳と過ごす時間を心の慰めとすることを建前としながら、実際は私を取り巻く面倒な一切を忘れることのできる夜自体に、ただならぬ執着を覚えていた気さえする――

 ともあれ、そういった事情から、私の部屋のカーテンは、昼夜問わず閉め切ったまま一切開けられることはなくなった。

 

 窓の外を見ないでも、季節が流れるのは知れた。屋敷の中を漂う空気が熱を孕み、破裂しそうなほどに膨らんでいた。連日身体に纏わりつく倦怠感は、私を一層怠惰にした。動くのも億劫になり、殆ど使われなくなった応接室のソファで、横になって過ごすことが多かった。

 麻の浴衣がよく汗を吸う。一方で、露出した手、首は、ソファに張られた皮がぺったりと触れ、不快だった。特に首筋には、汗で濡れた髪がまとわりつくので、余計に気が滅入った。それでもソファから離れなかったのは、屋敷の中でそこが最も風通しの良い場所だったからだ。細く枯れた右足と、異様に太くなった左足は、ソファの外へと、だらしなく放り出した。裾が乱れていようが、もはや気にもならなかった。

 今年は随分と暑うございますね、と、はる恵は毎日のように口にしていた。六月が肌寒くあったから、落差によるものだろうと、私は決まってそう返した。そのうちに、はる恵が応接室の窓辺に風鈴を吊るした。りぃんりぃん、と涼しげに鳴る音色は、鬱屈した精神と重怠い身体を慰めるのに、いくらか役立った。

 八月にもなると、もはや、柳が屋敷を空けることが当然のようになり、私もすっかり慣れていた。じわじわと、蝉が鳴く。涼やかな風鈴の音。それらの音だけに包まれて、ひとりきりで過ごす時間は酷く穏やかで、少しの哀切を帯びていた。

 そんな折だった。彼が私の元を訪ねてきたのは。

 柳が出掛ける際、客人が来てもすぐに追い返すよう、はる恵に言いつけていたから、まさかここへ誰かが来るなどと、思いもよらなかったのだ。だから、私はこの時も、応接室のソファで横になって、無為に時間を過ごしていた。

 困ります、と悲痛な声で繰り返すはる恵を振り切って、応接室に現れたのは、秦野だった。彼は私を一瞥するなり、厳しい表情を浮かべた。夏生地のズボンの上に、眩しいほどに白い半袖のシャツを身に着けている。それが私にとっては太陽ほどの照度にも感じられ、胸が灼かれるような心地になりながらも、冷静に彼を見据えながら、私はゆっくりと身体を起こした。

 渋るはる恵を引き下がらせ、私は向かい合わせのソファに彼を促した。

 テーブル越しに向き合う。彼は表情を崩さない。唇は、一文字に引き結ばれたままである。

「ご無沙汰しております。先程は、お見苦しいところを――」

 私が微笑を浮かべ――それこそ彼と私の仲なのだから、冗談交じりもよかろうと――失礼を詫びようとすると、

「挨拶は抜きだ」

 秦野は淡々とした声色で、それを一蹴した。風鈴が一際高らかな音色で風を誘う。束ねたカーテンが微かに揺れていた。

「……単刀直入に言わせてもらう。順二郎くん、きみはこの屋敷を出た方がいい」

 鋭い視線が私の目を、強い言葉が私の胸を、射た。衝撃で両肩が震える。使い途のない右足が、ぐずぐずと疼く。それを感じた途端、右手がひとりでに、ソファの上を這う。端に立てかけた木杖に指先が触れると、気休め程度の安堵が、心中に宿った。

「一体、どういうことでしょう」

 平静を装いつつも、口元が引きつってしまっているのがはっきりと判る。愛想笑いなど作る余裕もない。窓の外で鳴く蝉の声は随分と遠くなっているというのに、首筋に伝う汗が衿を濡らす微かな音は、却って明瞭に聞き取ることができたのだった。

「柳先生は、人徳のある御方だ。それは、俺もよく知っている。だがな、ここ数年で、先生は変わってしまった。それに引きずられるように、きみが変わってしまうのを、俺は黙って見ていられん。だからこれ以上、先生のもとに留まるべきではない」

「何を、仰っているのか……」

 喉が渇いていた。汗をかいてしまったせいかと思われた。頭の中が、どろりと融けたように、深く思考することができなかった。

 ふん、と秦野が小さく鼻で笑った……気がした。秦野の精悍な顔の向こうに、痩せた井上のそれが透けて見えた。不意に到来した虚脱感に傾く身体を、反射的にソファに左手をつき、支えた。

「そのように惚けたふりをして、先生を庇うつもりだろう。きみは、あの噂を知らぬとでもいうのか? 周りの連中から、先生の情人とまで揶揄されているのだぞ。もし、きみが先生のもとを離れて、小説を書くことに専念すれば、それらの悪い噂が間違いであると、身を持って示すことができるのだ」

「まさか……私に、作家として身を立てよ、と?」

 右手に、きつく力がこもる。視線をその上へと落とせば、飾り気のない木杖が目に入った。

「そうだ。きみは西山くんを知っているだろう。彼にも話してある。きみさえ頷けば、きみの小説をいつでも雑誌に載せる準備は整っているのだ。それに、すぐに移れる住まいも目星がつけてある」

「しろうとの私に、そのような無茶なことを。秦野さん、あなたは無駄が嫌いと仰ったではありませんか」

「確かに俺は無駄が嫌いだ。だからこそ、考えなしにこのようなことを言ったりするものか。俺はな、きみが先生に縛られているのが耐えられんのだ。きみと先生がただならぬ仲だと陰で囁かれることが、悔しくて堪らん。きみはもっと真っ当な道を歩むべきだ」

「――私が今いる場所が、不当だとでも?」

「ああ、そうだ」

 震える問いに、彼ははっきりと答える。ソファにかけたその身体が、前にのめり、拳がテーブルを打った。

「俺が見たところ、きみは先生の一挙一動を、必要以上に気にしている節がある。きみは、東京に来てから、ひとりで屋敷の外に出たことがあるか? 外出はいつも先生と一緒ではないか? そこに、きみの意思は介在しているか? もしきみが『ひとりで出かける』と言い出したとして、先生がそれを許すと思うか? これを、縛られていると言わず、何という?」

 この時に、声の限り「違う」と叫ぶことができたら、どれほど私は幸福だっただろう。私が真実、柳肇というひとを心底信頼し、敬虔なる彼の信者であったのならば、秦野の主張に対して、心当たりなどひとつもないはずなのだ。

 彼が述べているのは紛れもない事実だった。私はいつも柳の機嫌を窺っていたし、ひとりで屋敷の外に出たことはなく、柳もそれを許さないだろう。かといって、柳に縛られているとは毛頭思わない。その理由は、と問われれば、解らない、としか答えようがないことも、また事実だ。

「それは……ぼくには土地勘がありませんし、足が悪いから」

 適当に繕った言葉に、視線がうろうろと彷徨う。穴だらけの答えだと、自分でも判りきっていた。秦野は、迷うことなくその穴へ向け、矢を射ってくる。

「きみは、杖があれば介添なしにひとりで歩けるじゃあないか。それに、先生が、きみに東京の地理を率先して教えたことがあったか?」

 彼の表情から厳しさは消え失せ、その目には、哀れみのみが滲んでいた。反論の余地などなかった。

 秦野は握った拳の甲で口元を押さえた。同時に鼻をすする音。白に包まれたその両肩が、やけに小さく映る。

「俺も、本当はこんなことを言いたくはない。だが、先生は……、もはや誰の目にも、きみを屋敷に閉じ込めているようにしか見えんよ」

 疲れ果てた調子の声からは、全く力というものを感じない。そんな彼を見ていると、酷く申し訳なさを覚えるばかりだった。彼が苦しむ必要など、どこにもありはしない。誰かが彼の代わりに苦痛を味わわなくてはいけないとすれば、それは間違いなく私であっただろう。

「……ぼくは、望んで先生のおそばにいるのです」

「順二郎くん、きみは本気でそのようなことを言っているのか」

 力ない声の中に静かな怒りが混じる。

「俺は、きみの実力を買っているのだ。初めてきみの小説を読んだ時、正直ぞっとした。荒削りながら、きみの書く小説には、ぬめった沼のような底深い恐ろしさが、そしてその中に奇妙な具合に輝く美しさを感じたのだ。流行りに乗ってもてはやされているだけの探偵小説などよりも、うんと読み応えもある。きみの作品を一編読めば、どんな編集者だって、次はないのかと催促するだろう。それに、作家ならば、作風を好む好まざるなど抜きにして、きみの才能を認めるはずだ。俺が何を言いたいか……分かるだろう」

「先生に、私の小説を読んで頂け、と」

「そうだ。そうすれば、先生もきみの実力に気付き、屋敷を出て作家になることを許してくれるだろう」

 崖淵に立たされた心持だった。秦野の言葉が剣となり、槍となり、その刃の切っ先で私の精神を傷つけながら、私を淵へと追いやっている。この崖から足を踏み外せば、そこに待っているのは、恐らく精神の死だ。そしてそれはきっと、かつて私が望んだ肉体的な死よりも、はるかに辛いものであろう。

 柳から離れて、私に何ができるというのか。柳がいなければ、もはや私という存在に、意味などないというのに。柳によって納屋から救い出されていなければ、とっくに失われていたはずの命だ。それを、その恩人のために使わず、他の何のために使うことが許されようか。

 急激に、頭の芯が冷えていくのを感じた。薄氷を通したような思考をもって見渡す世界は、驚くほど鮮明だった。蝉の声がはっきりと聞こえる。風鈴が微風に揺られ、涼を誘う。

 窓の外では、庭木の緑が強い日差しを受け、一層彩りを深めていた。その手前にいくつも配置された灰色の濃い庭石が、強い日射しによってひりひりと灼かれ、ゆらりと陽炎がたっている。その、幻とも現ともつかぬ揺らぎは、雲がかかれば、或いは太陽が傾いていけば、やがて消えてしまうだろう。

「あなたは、ぼくのことを、高く買いすぎていらっしゃる」

 自然こぼれ落ちる乾いた笑いは、蝉の声に浚われる。

「秦野さん、最初に言いましたよね。あなたに言われたから小説を書くわけではない、ぼくが書きたいから、書くのだと。それは、今でも変わっていません。だから、あなたがどれだけぼくの作品を気に入ってくれたとしても、作家を志すつもりなどないのです。先生がいなければ、ぼくは小説を書こうなどとは思わなかった。それなのに、先生のもとを離れて、どうしてそれを続けられますか」

 自分でも可笑しくなるほどに晴れやかな声色だった。

 窓からはっきりと窺うことのできない夏の空は、きっと眩いほどに青いだろうと思われた。その青は、この時の私の心象風景に、よく馴染むだろうとも。

「俺にとって、先生は恩人だ。お前にとっても、先生は恩人かもしれん。だが、そこまで義理立てする必要があるのか? お前の才を認めず、愛玩物のように傍に置かれるだけで、お前は満足だと――」

「ぼくは」

 秦野が立ち上がる気配。感情的なその声を、静かに打ち崩す。

「…………ただ、それだけを、望みます」

 風鈴の音が、蝉の声が、青に、緑に融けていくようだ。それは爽快で清々しい同化だった。

「順二郎くん、きみと先生は、もしかして本当に……」

 私は、秦野へと視線を戻した。口元が綻ぶ。

「秦野さん、ありがとうございました。小説を書くことを勧めてくださって。書くと決めたのはぼくの意思ですが、そのきっかけを与えてくれたのは秦野さんでしたから。拙いなりに、いくつか小説を書いて、ぼくはようやく、自分の気持ちを整理できたような気がします。

 ぼくの小説ならば、部屋の机の抽斗に。お望みでしたら、秦野さんにすべて差し上げます。要らなければ、後ではる恵に捨てさせましょう」

「おい、順二郎くん……!」

 秦野が、テーブルに膝をついて、乗り越えんばかりに私に迫った。悲痛に歪んだ表情を浮かべながら、私の浴衣の胸元を掴む手は、明らかに震えている。その手に、私は自分の左手を重ねた。同時に右手で、木杖の細かな木目の感触を確かめる。

「先生と引き離されることは、私にとっては死と同然なのです」

 秦野の口からは、もうどんな言葉もこぼれてこなかった。

 

 その日、柳が屋敷に戻ったのは、蝉の声の中に、夜の虫が混じり始めた頃だった。私は彼の帰りを、ずっと応接間のソファで待っていた。玄関で、柳を迎えたはる恵と彼が、小声で、何事か話している。恐らく、主の留守中に訪れた客のことを伝えているのだろう。

 帰宅したその足で応接室を訪れた柳は、私を見るなり「秦野が来たのか」と尋ねた。その酷く青ざめた顔を認めるなり、堪らなくなって、腰を上げる。杖をつき、傍に寄ると、彼は両手を所在なさげに彷徨わせた。

「ぼくは……先生に、謝らなければなりません。これまで、先生にずっと隠し事をしていました。小説を、書いていたのです。どうか、ぼくを叱ってください。手を上げられたとしても、一切お恨みも致しません。すべて、ぼくが悪いのですから」

 私の告白に、柳が驚く様子はなかった。ただ、幼子のように、くしゃりと顔が歪められる。空中で彷徨っていた両手が、私の身体をきつく捉えた。鼻先を掠めた着物の生地の奥から、僅かに酸いにおいが漂う。彼の身体は、床を共にした際と同じ熱さだった。長い間親しみを感じ続けてきた、祖母に似た温度とは一線を画す熱だ。この時は、それが却って、私の心に安らぎを与えてくれた。

「……秦野とは、会ってはいけない。それに西山とも、井上とも、橘川とも」

 ぼそぼそとした声が耳に届く。秦野以外に挙げられた名に、彼は初めから私の行動すべてを把握していたのではないかと思った。――屋敷に尋ねてきた西山と話したこと。抵抗もできず井上に肌を許したこと。そして橘川夫人に、仄かな想いを、瞬間であれ、抱いてしまったこと――もしそうであったなら、柳に対して更なる裏切りを働いていたことになる。

「もう、私に隠れて小説など書かぬと、約束できるかい」

 私は何度も小さく頷いた。決して許しを得たいわけではなかった。父が私を恨んだように、これらは決して許される行為ではないのだ。

 彼は「ならば、よい」と、私の頭を撫でた。親から子に対する慈愛に満ちた許容を感じさせる、優しい手。その感触が呼び起こすのは、胸を焦がすような懐かしさと、魂を灼きつくしてしまうほどの背徳心だ。

「きみは、もう屋敷から……いや、私の部屋から出てはいけない。風呂も厠も、私が付き添う」

 部屋への軟禁が裏切りの罰であるとは、明示されなかった。だが、あくまでもこれは私に対する罰でなければならない。

「それで、構いません。これからは、すべて、先生の仰る通りにいたします」

 下された罰を、私はしかと受け入れた。身体の中で、罰は戒めの鎖となり、これで私は永劫、ただ柳のためだけに生きることができると思った。知らず知らずのうちに不義理な行いを繰り返してしまった私にとっては、唯一にして最上の恩返しであろう。しかしそれは同時に、触れられぬ影にくちづける悲哀を、死ぬまで抱き続けねばならぬということでもあった。

 柳は身体を離すと、私から僅かほど視線を外した。私の代わりに虚を見つめるその瞳を、私は射るように見た。きっと彼は、私の視線には気付かないだろうと思うと、胸を締めつけられる心地だった。柳に渡せずじまいになった写真の中の、祖母に似た微笑の女性。柳の見つめる虚の内には、きっと彼女だけがいるのであろう。

「順二郎……きみには、本当にすまないことをしてしまった。きみを狭い納屋から解放したはずが、私は、きみを」

「柳先生」

 力ない声を、私は遮った。私が彼の口から聞きたい言葉は、謝罪や言い訳などではなかった。

「ぼくは、望んでここにいます。無理に納屋に押し込められているわけでは、ないのです」

 柳は、ちらと私に目を向け、少し困惑したように、ぎこちなく笑んだ。その表情が、私の胸を抉り、昏い虚穴を一層深いものにした。

 応接室から、柳の部屋には、杖をつかず、彼の手を借りて歩いた。この時間に終わりが訪れなければよいと、私は願った。

 その背後、応接室の窓の外で、風鈴が、りん、とひとつ鳴った。

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