その柳の下に[四章]

 

 越えてはならぬ一線だった。それは、いつかの逢摩が時の魔物が、ついに互いの心を喰らいつくしてしまった結果なのであろう。それがさも当然の義務であるかのように、柳とは幾度かの夜を共に過ごした。その際、一言も言葉を交わすことはなかった。口を噤んだまま身体を重ねることで、心に空いた大きな虚穴を埋めようと、私は必死だった。

 肉体的には深く密接な関わりを持ちながらも、精神的には交わらぬぎりぎりの辺りで揺れ動き、その摩擦によって、私たちは徐々に相手の心をすり減らし合っていた。

 それを証明するように、柳はゆっくりとやつれていった。元より血色の悪い顔は、ますます病的になった。部屋から出て、食事を摂るようにはなったが、それでも肉体から生気が抜けてしまったかのように、彼は憔悴していた。はる恵は何らかの病を疑っていたようだったが、すべてが彼にとりついた魔のせいであることは私の目には明らかだった。

 しかし、原因を知っているからといって、それが一体何になろう。彼が私に触れるために伸ばした、骨と皮だけが残ったその哀れな手指を、一体どうして拒否できようか。――だが、それがまさに、心に巣食った魔による所業であったならば、やはり彼の精神を追い詰めてしまったのは、間違いなく私自身なのだ。

 

 柳は屋敷の中で過ごす間、何かしらの書き物をしていることが多くなった。そうでない時は、頻繁に外出した。どこへ行くかは告げずに屋敷を出て、夕暮れ時にはいつも戻ってくる。その際には、必ず柳行李を携えていた。

 その日も丁度、柳は昼過ぎ頃から出かけていた。「根津に行く」との言葉から、あまり遅くならないだろうと思っていた。屋敷には、私とはる恵が残されていた。

 午後三時を過ぎた頃、玄関から呼び声があった。はる恵には聞こえなかったらしく、彼女が出て行く気配がない。自室にいた私は、慌てて杖をついて玄関へと向かった。

 扉を開けると、そこには久方ぶりに見る顔があった。思わず一歩退きそうになるのを、ぐっと堪えた。

「お久しぶりです、……井上さん」

 客人は、私が苦手とする作家の井上であった。袴姿の彼は、相変わらず鋭い目付きで、ぎろりと私を一瞥した。背筋が凍る思いがした。

「先生は、お留守かな」

 彼は、ぎょろぎょろと目線だけで私の背後を窺う。

「午後は、根津にお出かけで」

「……ほう、きみを連れずに」

 井上の口端が片方だけ僅かに上がり、より一層いやらしさを醸し出していた。その眼光に怪しい色が浮かぶ。この場からすぐにでも逃げ出したかった。しかし、私にできたのは、心の中で必死にはる恵を呼ぶことだけだった。

「あの、何か、おかしいでしょうか」

「いや、先生はここ数年、どこへ行くにもきみを伴っていると聞いていたものだから」

「先生は、夕方までお戻りになられません。御用件だけでも伺っておきますが」

 店先で品定めでもするような視線が、私の目の奥に向けられていた。

「では、これを先生に渡しておいてくれ。自宅を片付けさせていたら出てきたものだ。先生がお持ちの分は、きっと燃えてしまっただろうから」

 彼は、着物の袂から四角い布包みを取り出した。包みを開けると、中から一葉の写真が現れる。私が受け取った、その少しばかりくたびれた四角の中に、女がひとり、椅子に掛けて微笑している。その両隣に、男がふたり立っていた。私は、すべての顔に見覚えがあった。男は、井上と柳だ。女はというと、私の祖母に非常によく似た顔立ちをしていた。

「おばあさま……?」

 記憶に残る祖母よりは若いように見えた。随分昔の写真なのかもしれないと思ってはみるものの、しかしそう仮定すると、柳と井上が、今とさほど変わらない容貌であるのは奇妙だ。

「きみのお祖母さんだって?」

 井上は、ふん、と鼻で笑った。

「そんなはずはない、こちらは先生の奥方だよ。地震の際の火事で亡くなられているがね」

「この方が、先生の……」

 打ちのめされた気分だった。祖母と柳の細君。このふたりがまったくの他人であるとは、納得し難かった。それほどに、よく似ていたのだ。もし、私が柳と出会っていなかったら、これを「他人の空似だ」と一笑に付すこともできたかもしれない。だがそこに、ふたりを繋ぐ柳という存在があることによって、私は、知らぬほうが幸せであったかもしれない、確信めいた推察に辿りついてしまったのである。

「ところで、きみ」

 油断があった。先程まで、井上の視線に警戒心を抱いていたというのに。すっかり写真に気を取られていたのがいけなかった。

 呼びかけに、顔を上げる。彼が私の左手を掴んだ。次に気付いた時には、私は玄関の中に押し戻されていて、唖然と井上を見上げていた。

 自分の身に何が起こっているのか、まるで理解が追い付かないほど、彼の行動は唐突なものであった。

 玄関扉が大きな音をたてて勢いよく閉まる。小さな窓しかない玄関は、陽光が遮られたことで、ふっと薄曇りのように暗くなる。そんな中で見上げた井上は、普段は細い目を血走らせ、異常に見開いていてた。

 杖がするりと手の中から抜け落ちる。全身を襲ったただならぬ脱力感に、足元から崩れそうになる。いっそ、その場に倒れ伏し、気を失ってしまえたらどれだけ楽だったか。しかし、私は手首を井上に掴まれたままで、しかも彼がその手を高々と上げるものだから、それも叶わない。私は彼によって、まるで狩りとられた獲物の如く、吊り下げられていた。肩が痛み、表情が歪む。

「何を、なさるのです」

 ひり出した声は震えていた。

「今更うぶを装うとは。……いや、それとも、これも柳先生の御趣向か」

 彼は独り言のように呟いてから、私の身体を壁に押し付けた。非情なほどに冷たい硬さが、いやにはっきりと背に感じられる。全身が怯えたように縮こまった。

「何、久しぶりに会ったきみが、いやに艶めいていたものだから、私もひとつ、その理由を探ってみようというわけだ。きみも楽しめるのだから、異論はなかろう」

 冷えた壁につけた背から、身体中の熱が奪われていくのを、私は確かに感じた。熱い血が、ぞう、とひいていく。頭から、手足から。氷のような体感温度は、過去の記憶を引き寄せるに十分だったらしい。

 不意に景色が変わる。周囲を覆う壁は、冷たい漆喰塗から古ぼけた木張りへと。重厚な木扉は、簡素な板戸へと。私は、気付けば暗い納屋にいた。そして納屋の中で、井上に囚われている。板戸が、がたがたと、激しく音を立てている。風のせいか。或いはその向こうに――

「は、はな……はなして、はなしてください」

 ――隠れなければ。幻と現実の境を失った私は、ただその一心でもがいた。しかし、掴まれているのと反対の方の肩を、きつく押さえつけられ、隠れるどころか、井上の手から脱することすらままならない。

 井上は、下卑た笑みを浮かべ、顔を寄せてくる。生温かくねっとりとした息が、私の鼻先に触れた。

「何故。先生とは枕を共にしているのだろう? そうやって、先生の情人として、何不自由ない暮らしを送っているのだ、きみは。それに、秦野や西川くんにも取り入っていて、あげく男だけでは飽き足らず、橘川の細君にも色目を使っているとか。それなのに、どうして私だけが、きみに触れてはいけない理由がある? 欲しいものがあるなら、私だってきみに与えてやれる。悪い話ではあるまい」

「違う、そんな――」

 否定の言葉は失われた。

 井上の顔の向こう、戸の前に、青白い顔をした父が立っていたのである。憤怒の形相で、父の幻影は私を見ていた。その唇が、ゆっくりと動く。声音は伴われない。だが、私には、その意味するところがはっきりと解った。

『すべて、お前のせいだ』

 私は、また同じ過ちを犯してしまったのだ。そんなつもりはなかったのだと言い訳をしたところで、一体今更に誰が信じるというのだろう。幼い頃、柳に手を取られて歩く場面を周囲にどう思われたのか、私は愚かにも忘れてしまっていたのだ。柳との生活の心地よさに、溺れきっていた。

 無心で、ただ柳にだけ従順であれば、こんなふうにあらぬ噂で誰の名誉も傷つけずに済んだだろうに。すべて、私のせいなのだ。

 父と納屋の幻が、朽ちた樹皮となってめりめりと音を立てて剥がれ落ちていく。現実だけがそこに残された。

 もはや、私は静かに瞼を閉じることしかできなかった。私の行動が過ちであったのならば、こうして井上に触れられることも、あらぬ誤解を招いたことに対する相応の罰であると思えた。

 壁に沿って、身体が滑り落ちていく。それを、井上は止めなかった。壁よりも冷たい三和土に尻を落とし、両足を投げ出す。そうなってようやく、私の手首を掴む感触はなくなった。

 枯れた枝が私の顎に触れた。それは、形だけは柳の指によく似ていた。しかし、その表面は細かくささくれだっている。顎の線を撫でられると、胸を砂で満たしたような不快感があった。思わず口元に手をやり、指を噛む。

「そう、大人しくしていれば手酷く扱ったりはせん」

 その動作を、恭順と受け取ったのだろう。着物の裾が捲られる気配があり、ややあってから、露になった右の内腿に枯れた指が落ちる。両の腿に触れた空気の感触で、まだ締め方の不慣れな褌が、彼の眼前にもうすっかり晒されていることを感じ取る。裸に剥かれているわけでもなし、それ以上に女でもなし。褌を締めた下半身を同性に見られること自体には、恥ずかしさを引き起こす要因などひとつもありはしない。それでも、震えるほどに耐え難き恥辱が湧き上がってくるのは、私自身がその指先に、かけらほどの愛着すら覚えていないためであった。

 不具の右足を、節くれだった五指が上へ下へと撫でていく。意思のない虫にでも纏わりつかれたほうが、まだいくらか耐えられるだろうと思えた。全身が総毛立ち、不快感を余計に増長させる。

 井上は、執拗に右足ばかりを攻めたてた。脚の付け根をざらつく舌で舐めあげたかと思えば、膝頭を指でくじる。そうして今度は内腿を噛み、足の甲をさすり、ついには、五指を一本ずつ咥えて咥内で飴玉のように転がしたのである。それには私も堪え切れずに声を漏らしてしまった。同時に、不快の奥に、ぐずぐずとした痺れのようなものを感じ取る。その感覚のあまりの醜悪さに、自己嫌悪の念が胸いっぱいに沸き立った。

 井上は、私が抱いた僅かなそれに、気付いたらしかった。

「やはり、きみは魔性だ。だが、安心したまえ。きみの精神性とそれとは、何ら関係ない。虫を誘うために樹木が蜜を零すのと同じだ。きみはきみ自身の肉体が、淫らに開花するのを止めることはできない。それを恥じる必要などどこにあろう」

 嘲り混じりに、また鼻で笑った。

 玄関というひらけた場所で淫行に及びながらも、それを全く気にしない彼の様子は、まさに狂気そのものであっただろう。私は一層指を強く噛んで、彼の狂行に耐えるしかなかった。心の中ですら、助けを求めることは許されないと思った。そんな資格は私にはないのだと、自分自身にひたすら言い聞かせることだけが、私にできる唯一であった。

 褌の前垂れが捲られる気配がした。布の下に隠された、私の未成熟な性の部分に、井上の指が近付いているのだ。皮膚と布との境目を、指の腹でなぞられる。布を摩擦する微かな音が、いやに大きく耳の奥に響いた。耳を塞いでしまいたかったが、そうすれば開いた唇の間から、色情に引き出された私の魔が歓喜を唄いだしそうで恐ろしかった。

 きっと元々、うまく締っていなかったのだろう。何せ、褌を締めだしたのは十六になってからだったから。まさかそれが隙となり、他者による征服の手助けをすることになるなどと、どうして想像できるだろう。――否、その考えの甘さこそが、自らを他者に差し出す行為にほかならなかったのである――

 侵犯は、それまでの緩慢な動作とは違い、極短時間で達成された。股布の中、いまだ不揃いの下生えを冷たく乾いた五指が絡めとった。その刹那。

 ひっ、と引きつった声が、確かに聞こえた。それは井上のものではなかった。

「じゅ、順二郎さま!」

 上擦った女の声。聞き慣れたそれは、はる恵のものだ。私はようやく目を開け、助けを乞うようにそちらを見た。声の調子と同じように、はる恵は表情を引きつらせている。

 もはや井上に身を捧げるもやむなしと考えていただけに、はる恵が現れたことは、本当に幸運であった。

 私に覆い被さっていた井上は、小さく舌を打った。

「邪魔が入ってしまったな」

 憎々しげな科白とは裏腹に、厭らしいほどに愉悦を帯びた笑みを口元に浮かべて、あの舐めるような視線をこちらへと寄越す。私はすぐに目を逸らした。彼と目を合わせたら、またいつか同じことが起こるような気がしたのだ。

「今日はこれで退散するとしよう。柳先生にくれぐれも宜しく。では、失敬」

 井上は私から身体を離して立ち上がると、着物の乱れを手早く整え、私に向かってそう言い放ち、何事もなかったかのように平然と去っていった。

 私とはる恵は、それを呆気に取られたように眺めていた。はる恵が慌てて私のもとに駆け寄ってきたのは、玄関扉が、ぎい、と軋みながら閉じたあとだった。

「順二郎さま、順二郎さま、お怪我はありませんか。私がいながら、こんな、何てこと、ああ……申し訳ありません、申し訳ありません……順二郎さま」

 私の着物を整える彼女の指は震え、目には涙が浮かんでいた。そうして、私の背中をさすってくれた手のひらの、柔らかさと優しさが、私の胸中にようやく安堵をもたらした。母の慈愛とは、このような感じであっただろうか。それを殆ど受けたことのない私にとって、この屋敷におけるはる恵の存在は、非常にありがたいものであるように今更ながら感じた。

 はる恵の手を借りながら、壁伝いに立ち上がる。着物があちこち汚れていた。それを、私がするより先にはる恵が払ってくれる。

 その間、私は手放してしまった杖を視線で探した。玄関の隅に、それをすぐに見出す。あ、と声を漏らしそうになる。杖の傍らには、一葉の写真。そこに写るのは、柳と井上、そして――私の祖母の、若き日の現身としか思えない――柳の妻の姿。

 私の視線だけを察したらしいはる恵は、杖と写真を拾い上げ、黙って私にそれらを差し出した。

 受け取った写真を片手に、杖をつき、私はようやくその場から一歩踏み出した。そんな私を支えようと、はる恵が寄り添う。

「もう、大丈夫ですから。その、ぼくが少し大げさに驚いただけで……。井上さんは、写真を届けにいらっしゃっただけなのです。それで、先生がお留守なものだから、ああして私をおからかいになったのでしょう。単なる、お巫山戯ですよ」

 はる恵の行為は、嬉しいものではあった。だが、憔悴しきった様をあからさまに見せれば、それだけではる恵は自身の責任をより深く感じてしまうだろう。私は、彼女の前では平静を装う必要があった。

「そんな、あれが戯れであるはずがありません。順二郎さまにあのように惨い――」

 私の言葉が心外であったのだろう。彼女は声を荒らげた。

「戯れなのです」

 彼女以上に声を荒らげ、私はそれをぴしゃりと遮った。

 彼女の言うことは、尤ではある。玄関で、私の身体に覆い被さりつつ指を這わせる井上の様子は、誰の目にもただならぬ事態に見えるであろうし、実際その通りだ。しかし、私がそれを騒ぎ立てたところでどうなる。この事実が柳に伝えられでもしたら、はたして柳は、私が井上を誘うはずなどないと考えるだろうか。父や井上が誤解したように、柳も同じ誤解を抱くのではないか。

 手にした写真の端が、くしゃり、と歪む。

「このことは、先生には黙っていてください」

「ですが、それでは」

「後生ですから」

 私が強く言い切ると、はる恵はもうそれ以上のことは口にしなかった。ただ、部屋へ戻ろうとする私を支える腕だけは離さなかった。

 夕刻に柳が帰宅するまでの間、私は机に向かい、筆致がいかに乱れていようとも気に留めず、ひたすらにペンを走らせた。文章を書くことで、すべての出来事に対して無心を装うつもりだった。

 そうして生みだされた震える文字たちは、原稿用紙のあちらこちらで、ぽつりぽつりと滲み、輪郭を失ってしまっていたのだった。

 

 

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