その柳の下に[三章]

 

 私が小説を書いたこの頃を境に、しかしそれを起因としない様々な変化が、暮らしの中に現れた。

 まず、秦野が現れる場所が、私の部屋の窓ではなく玄関になったことだ。

 柳に用があると屋敷を来訪した彼は「先日話していたものだ」と、紐で括った数冊の本と原稿用紙の束を私に寄越した。何が何だか解からず目を白黒させる私の様子を、柳はあからさまに訝しがった。だが、秦野が臆すことはなかった。

「俺の小説ですよ。以前会った時に、読んでみたいと彼が言っていたのを思い出したもので」

 いつものように、にいと笑ってみせた彼を横目に、柳はどうにも納得がいかぬといった様子だった。それでも、ようやく事情を察した私が話を合わせると、深く追求をしてくることもなかった。

 数冊の書籍こそ本物の秦野の作品であったが、原稿用紙の束はやはり私の小説だった。私の字の横に赤いインキで文字が書き足されている。秦野のものであろう。(力強く、走るような筆跡であった)

 秦野が施した赤字に沿って小説を手直しするこの過程になって、私はようやく、文章で表した自分自身の心の内を、恐れずに見つめることができるようになったのだった。

 

 同じ年の夏の終わり頃、橘川夫妻が屋敷を訪れた。この時珍しく、応接間での談話に、私も参加していた。

「あら、順二郎さん。随分背が伸びられましたのね。わたくし、あなたをすっかり見上げなくてはいけなくなったみたいですわ」

 夫人の言葉は、決して世辞などではなかった。

 当時私は十六歳であったから、いくら軟弱な体質で、散歩以外はろくに身体を動かすこともしなかったとはいえ、自分でも気付かぬうちに、手足はひょろりと長く成長していた。着物も寸足らずになり、流石にこれでは腕はともかく、不自由な足元を隠すことができないのはどうにも心許ないと、はる恵に頼んで足し布を施してもらったばかりだ。しかしこの年頃の男子にことごとく訪れる急激な成長とは残酷なもので、伸ばしたばかりの丈すら、たった数ヶ月でまた足らなくなってしまう始末だった。

 橘川夫妻の前でも、寸足らずの着物を身につけていたものだから、夫人も気になったのだろう。彼女はこの屋敷に来る誰よりも洒落っ気が強くあったから(とはいっても、大勢いる客人の中で女性は彼女ひとりきりだ)余計にも不格好な私が許せなかったのかもしれない。

 彼女はこの日、珍しく着物姿だった。薄藍の縮緬に黄色い女郎花の柄がよく映える、見るからに上等な品である。加えて、夫人は断髪だ。着物と断髪という、物珍しい取り合わせが、細い首筋をより一層強調していた。衿元の薄藍、血色の良い肌の色、流れるような髪の黒……、それらがひしめきあう首元からは、妖艶な色香が立ちのぼっていて、目眩すら覚えたほどである。

 女性というものに対して極めてうぶだった当時の私は、異性に対する気恥ずかしさから、夫人をどうしてもまっすぐ見ることができなかった。――あとになって考えると、それは私の性的な芽生えであったのかもしれない――

「そうだわ、順二朗さん。わたくし、いいことを思いつきましてよ。洋服を一着、拵えてはどうかしら。馴染の仕立屋がおりますから、そちらに拵えさせますわ。ねえ、あなたも、いい案だと思わなくって?」

 同意を求められた橘川は「そうだねえ」と、曖昧に濁した。

「だが、ね。彼は日がな一日屋敷の中におるのだ。外に出るといっても、そこらをうろつくぐらいのもの。洋服を着て行く場所など……夫人の心遣いはありがたいが、着物で十分だよ」

 そうでしょう、そうしましょう、と少女のようにはしゃぐ夫人に難色を示したのは、柳だ。困り顔の柳に、夫人は「まあ」とわざとらしく声を上げた。私はといえば、口を噤んでただただ小さくなっているばかりだった。

「嫌ですわ、先生。順二朗さんもお年頃なのですから。少しくらい着飾っても、いいじゃありませんの。そうだわ。洋服姿で、ジュリエッタにでも行ってみたらどうかしら。きっと、矢で射られる的の気分が味わえるわ」

「な、なあ、おまえ、順二朗くんが困っているじゃないか。ひとを、そのようにからかうものじゃないよ」

 橘川が、へどもどと夫人をたしなめる。夫人は彼の態度が気に入らなかったとみえて、うんともすんとも返事をしない。代わりに、向かいのソファに掛けていた私へと近付いてきて、おもむろに私の手を取った。そして――ああ、その突飛な行動を、一体誰が予想できただろう――手のひらで、私の手の甲、指、爪の先までなぞって「如何かしら」と甘く囁いたのだ。

 柔らかな皮膚の感触。蜜の如くとろける声。これらは私は圧倒し、思考というものをすっかり奪い去っていった。

 彼女の指は細かったが、私の指のように青白くない。それこそ、化粧を施されず素のまま露になっている首筋と同じで血色が良い。爪も綺麗に磨かれ、その先端はわざとゆるく尖らせているようだった。

 そんな夫人の爪の先が、私の手のひらに秘密裏に立てられる。微かな痛みに我にかえって、私は夫人を見やった。

 唇に塗られた鮮やかな紅は、朝露を纏ったように、しっとりと濡れている。驚き、恥ずかしさ、そして腹の底の方でぞろぞろと蠕き始めた得体の知れぬものの存在が、私の中につぶさに感じられた。

 助けを乞うように、しかし恐る恐る、横目で柳へと視線を向ける。彼の逆鱗に触れてしまうことだけが気がかりだった。

 私の心配は杞憂に終わった。いや、はたして杞憂という言葉で片付けてしまえるほど、それは簡単なものだったか。彼は怒るでもなく、青ざめ、酷く緊張した面持ちで私たちを見ていた。まるで、彼自身が助けを求めているような、そんな印象さえ覚えた。

 心臓が止まってしまいそうだった。気がつけば、私は夫人の手を振り払って、ソファから立ち上がろうとしていた。だが、踏ん張りのきかぬ右足のせいで、すぐにまたソファの上に倒れ伏す。そんな私の姿に「あ」と声を漏らしたのは、柳だったか、橘川だったか。夫人ではなかったように思う。ともかく、私は倒れてしまった身体を上半身だけ素早く起こすと、夫人を見据えた。もはや気恥ずかしさなどどこかへ消え失せていた。

「ご好意はありがたいと存じます。ですが……この通り、ぼくは不具者ですから、身体の線が出てしまう洋服を身に纏うのは……少々、気が重いのです。後生ですから、どうか、どうか、お察しくださいませ」

 私が誰かに向かってはっきりとものを言ったのは、きっとこれが最初で最後だっただろう。普段は相槌を打っているか、受け答えしても二言三言ぐらいで、ひとが変わったかのような私の物言いに、橘川夫妻は呆気に取られていたようだった。

「……先生、今日は本当に申し訳ありませんでした。うちのがとんだご迷惑を。順二朗くん、本当にすまなかった」

 帰り際、私に向かって橘川は詫びた。

「ほら、おまえも」

 夫人はどこか不服そうな表情を浮かべていたが、橘川に促され、渋々といった様子で小さく頭を下げた。

「失礼を致しましたわ。順二朗さんの指先が西洋の貴婦人みたいに美しいものですから、わたくし、きっとあなたには洋服が似合うだろうと思いましたの。どうか、許してくださいましね」

 指先。彼女の指摘にはっとして、思わず両手を背に隠した。恐らく彼女は気付いたのだ。爪紅によっていまだに薄く色づいている、私の十指に。恐らく、それが誰によって施されたものであるのかも。

 彼女は紅色の形の良い唇を不敵に歪め、上目にじっとりと視線を寄越した。上品な貴婦人、色香を振りまく妖婦、はたしてどちらが彼女の本当の顔であったのだろうか。もしかすると、本当の顔などありはしないのかもしれない。

 私はその日、男という性を自身の中に実感すると共に、同時に女という性の底恐ろしさも認めたのだった。

 橘川夫妻とは、それ以来一度も会っていない。

 数日後、柳は橘川夫人のことには一切触れないまま、私に新しく大島の長着を買い与えてくれた。藍の地に細かい格子柄の入った着物は、初めのうちこそ、橘川夫人の首元の艶かしさを思い起こさせ、私を苦悩させたが、それも時間と共に次第に薄れていったのだった。

 

 秋も深まった頃、今度は懐かしい客が私の前に現れた。

 その日、柳は「出版社にどうしても赴かねばならぬ用ができてしまった」と、山のような原稿用紙の束を柳行李に詰め込んで、そそくさと出かけていってしまった。丁度はる恵も買いものに出かけていたが、大方すぐに戻るだろうし、私はのんびりとした心持で、ひとり留守番をしていた。

 好く晴れていて、空が高く蒼かった。庭の木々は、葉を黄色や赤に染め始めている。それを窓越しに眺めていると随分と清清しい気分になって、我慢できずに庭に出た。

「ごめんください」

 杖をつきながら敷石に沿って庭をぐるぐると巡っていると、不意に声がかかった。

 落ち着き払った男の声だ。その声には、僅かながら聞き覚えがあるような気がした。振り返ると、濃い鼠色の三つ揃えに、山高帽を被った身なりの良い男が、玄関の前に立っていた。手には、いかにも重量がありそうなトランクを提げている。

「少々お尋ねしますが、柳先生はご在宅でしょうか」

 男は脱帽しながら、眉ひとつ動かさない。口調も淡々としたものだった。

「……西山さん? 編集者の、西山さんではありませんか?」

 堅く、無愛想にも取れる表情から、私が感じていた懐かしさの正体は知れた。

 彼は、宇都美の家が営む宿に逗留していた柳の元に、小説の原稿を取りに来ていた編集者だったのだ。

「ぼく、順二郎です。あの、宇都美屋の……覚えておいでですか」

 私が歩み寄っても、彼は表情を崩さず、頷くだけだった。

「ええ、勿論覚えていますとも。あれからもう随分経ちますから、あなたもこちらの生活にも慣れたでしょう」

「えっ、ぼくが東京に来ていたことを、知っておられたのですか?」

「あの日、あなたの荷を運んだのは私ですから。先生は、あなたを抱えておられましたので」

「西山さんが……?」

 曖昧な記憶の中の、かたことと揺れる列車。私の隣にあったのは、柳の姿だけだった。だが、実際に西山も付き添っていたとなると、父の暴力によって憔悴しきった私の姿を、彼も知っているということになる。

「そう、だったのですね。その節は、ご迷惑をおかけしてしまって……もっと早くにそのことを教えて頂けたら、すぐにお礼の一言でも申せたのですが」

 無意識に、左手が口元に触れていた。指に歯を立てようとしていたのだ。気付いた途端、惨めな心持になる。行き場のない左手を誤魔化すように、顎を撫でた。指の腹に、微かにざらりとした感触があり、そのことが余計にも私の心を曇らせた。

「本来ならすぐにご挨拶できたらよかったのですが、あれからすぐ、大連に行かねばならなかったものですから」

「大連、ですか」

「ええ。それで、今しがたようやく東京に戻りましたので、その足でまずこちらにご挨拶をと」

 ああ、と私は小さく頷いた。

「そうでしたか。きっとご連絡を頂いていたのでしょう? 先生は、大方また日付を勘違いしておいでなのだと思います。今日は珍しく出版社に行くと仰って、朝からお出かけされていて」

「……どうやら行き違いになってしまったようですね。私もこのあと、出版社に顔を出す予定ですので」

「あれ、西山さんはまだ出版社にお勤めなのですか? 大連に行かれたと仰るから、てっきり今は別のお仕事をされているのかと思いました」

 西山の視線が僅かに泳ぐ。「はあ、まあ」と急に歯切れが悪くなり、明らかな動揺が見て取れた。

「その、変なことをお訊きしてしまって――」

「いいえ、構いません。どのみち、いつまでも隠し通せることではなかったのです。それに、あなたから尋ねてくださったことは、却って良かったのかもしれません」

 言葉とは裏腹に、彼の口ぶりは酷く深刻だ。

「大連へは、出版社の支社立ち上げのために参りました。それを理由に、柳先生の担当からは外されたのです。しかし、それは体裁を繕うための建前にすぎません」

 ざざ、と背後で植木が音を立て、背中が震えた。振り返ったが、植木には雀が一羽とまっているきりで、他には何者もいない。

 私が視線を戻すと、今度は西山がちらと門の方を見やった。私もつられてそちらに目をやる。やはりひと気はない。ただ、柳の木だけがもの悲しげに枝を垂らしているだけだ。

 西山は徐にしゃがみ込み、地面にトランクを寝かせた。

「私は、あるひとから、柳先生の担当を外れるように命じられたのです。そしてしばらく東京から離れるようにとも」

 トランクの蓋が開けられる。中には白いシャツを始めとする衣類が詰まっていた。それらを掻き分けるように差し入れられた手が、トランクの底のあたりを漁る。取り出したのは、厚みのある大きな茶封筒だ。

「――これを」

「先生にお渡しすれば?」

 受け取ったそれには、しっかりとした厚みがある。私が尋ねると、西山は首を小さく左右に振った。

「あなたに、です」

 思わず首を捻る。西山と直接顔を合わせるのはこれが二度目だ。彼から私が受け取るようなものなど、まるで心当たりなかった。

 茶封筒に緘はされていなかった。指先を差し入れて、中身に触れる。指の腹に、近頃よく馴染みのある感触。中から、ゆっくりとそれを引き出す。薄褐色の罫線が目に飛び込む。どうやら原稿用紙の束のようだった。紙面には小さなしわがいくつも寄っている。

 その一行目の二十マスのうち、たった三つだけを、文字が埋めている。この三文字が意味するところを、私は誰よりもよく知っていた。

「ぼくはこれを、納屋に置いてきてしまったのだと――」

 紙に染んだセピヤ色のインキ。見覚えのある筆跡で残されたその三文字は『嵐中記』……。今、私の手の中にあるのは、柳と納屋で別れたあの日、彼が私の枕元に残していった、未完の小説原稿であった。

 死を拒絶した少年の物語が、苦悩の時期にある私の元に再び戻ってきたことは、一体何の暗示であっただろうか。しかし当時の私は、そのことを単に『失物がついに戻った』と表面的にしか捉えることができず、ただ、非常に嬉々とした心持で、原稿用紙を眺めたのだ。

「宇都美屋の納屋から運んだのです。すべてを持ち出すことは難しかったので、あなたが大切にしていると聞いた書籍と、その下にあったこれだけを。……すみません」

 西山は申し訳なさげに言って、頭を下げた。その謝罪の意図が、私には分からなかった。私は「そうですか」と短く応えるほかなかった。

 西山はトランクを手早く片付けると、元のように提げた。被り直した山高帽の鍔が、顔に深く陰を落としていた。

「今日、先生ではなくあなたに会えて良かった。あなたがいまだ先生と共に暮らしている。そしてその小説が未だあなたにとって大切なものである……。たったそれだけの事柄を、自分の目で直接知ることができたことは、本当に幸いでした」

 私の記憶の中の彼は(とはいっても、たった一度会っただけではあったが)心身ともに不動であった。柳にどれだけ罵倒されようが、物を投げつけられようが、岩のように動かぬ男なのだ。少なくとも、このように歯切れ悪く、思わせぶりなことを言い、感情を表に滲ませるなど、私の知っている彼の姿からは想像できないことだった。或いは、仕事を離れた彼はこういった性質の男であったのかもしれない。例えそうであったとしても、彼が言葉の奥に何かを隠していることは、間違いないであろうと思われた。

「それでは、私は出版社のほうで柳先生にお会いせねばなりませんから――」

 頭に浮かんだ考えを実際に私が口にする間もなく、西山は会釈をすると足早に去っていた。あっという間のことだったので「それではまた」とも「ありがとうございました」とも口に出すことができないまま、私の右手は、未練ありげに彼の背を追わんとしていた。門の間を通り抜け、西山の姿が見えなくなっても、私は呆けたように暫くそうしていたのだった。

 ともあれ、私の元に『嵐中記』が再び戻ったことは、私の日常に訪れた最もたる変化であった。

 

 柳の帰宅は、日がすっかり沈んでからだった。

 玄関の扉が開く気配に、私が廊下に出ると、丁度柳が戻ったところだった。

「先生、おかえりなさい」

『嵐中記』が手元に戻ったこともあり、その嬉しさからか、彼にかけた声は普段より幾分かは弾んでいたように記憶している。――数十年も前の出来事を、今になってもこれほど鮮明に覚えているのだから、当時の私の甚だしい喜びようは、見る者にも明らかだったことだろう――柳は力なく私の方を振り返った。

「ああ……」

 気の無い返事を寄越した柳の表情は憔悴しきっていて、まるで朽ちかけた枯木の佇まいだった。今朝は軽々と提げていた柳行李も、蓋を開ければ中に石が詰め込まれているのではないかと思うほどに、いかにも重そうに見え、そのためか、着物の袖に隠された腕からは、酷い気怠さが漂っていた。

「先生、どこかお具合が悪いのでは?」

 これはただ事ではあるまいと、柳の傍に近付こうとすると、すかさず手で制される。

 笑みを浮かべようとしたのか、彼の口元が強ばりながらも、ぎこちなく歪められた。そこに生気はまるで宿っていない。

 私の胸の奥に、砂でも撒き散らしたような、ざらざらとした、嫌な不安が募った。

「いいのだ、順二郎。私は少し……部屋に篭もるとしよう。夕食は要らないと、はる恵に伝えてくれるかい」

「ですが――」

 柳の感情の起伏の激しさは理解していたつもりだったが、それにしても、ここまで弱りきった彼を見るのは初めてだった。

 それまで何も役に立っていないとはいえ、一応彼の書生という立場である私は、最善の対応を必死に考えた。無理にでも部屋まで介添えするべきなのか、それともはる恵に医者を呼んでもらうべきなのか……。

「順二郎、くれぐれも、私の言った通りに頼むよ」

 だが、柳本人に念を押されれば、もはや黙ってそれに頷くしかなかった。私の意思など、所詮その程度のものであった。

 彼の背が書斎に消えるのを見届けて、私は言いつけ通りに、はる恵に夕食の件だけを伝えた。

 私の喉も、食事を通さなかった。心配するはる恵をよそに、早々に食卓をあとにした私は部屋に篭り、眠くなるまで『嵐中記』を繰り返し読んだ。そして読み終える度に、生気のない柳の表情を思い出した。

 私はその夜、原稿用紙の束を抱いて眠った。

[四章↓]

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