その柳の下に[三章]

 

 小説を書くという宣言から数日後、秦野は私のために原稿用紙の束を二冊、さらに万年筆と墨を用意してくれた。――私はそれらを手渡された際、思わず「黒いインキなのですね」と口にしてしまった。柳が作品の執筆に用いるインキはいつもセピヤ色だったからだ。秦野は僅かに不服そうな顔をみせていた。私がその表情の意味に気付いたのは、彼が帰ったあとになってからだった。私はまた、自らの軽率さを恥じた――

 さて、小説を書く、と口に出すのは簡単だが、実際に行うとなると、やはり一筋縄ではいかないものである。

 秦野からは「最初はうまく形にならずとも良い」と助言を受けてはいた。だが、おぼろげながらも形を成すという段階にすら、私はなかなか至ることができなかったのだ。

 原稿用紙の表紙すら捲れないまま、一日、また一日と過ぎていった。それでも、どう書いてよいものか判らない。可笑しい話ではある。何せ、私が書きたいものは既に明確なのだ。しかしそれを文章として表すという行為の、何と難しいことか。

 早くも行き詰まってしまった私は、悩んだ末、とりあえずはこれまでと変わらぬ生活を送ってみることにした。

 朝、起きる。身支度をし、食事をする。柳の部屋で、仕事をする彼の背中を横目に読書をする。(その際には、既に何度も繰り返し読んだ柳の著書を選書した)昼食をとってから、午前中と同じように過ごす。夕方になれば、散歩へ。湯島天神、不忍池、カフェー・ジュリエッタ。鼻に残る珈琲の香り。帰路の途中で杖を取り上げられ、柳の腕に縋って歩くことも時折あった。帰宅すれば、夕食をとり、その後、自室の机の前でひとしきり思案してから眠る――。足が悪く、また柳の世話になっている手前、できることは限られた。この限定的な生活の中から、自分自身の心を僅か断片だけでも代替して語れる何かを探すしかない。

 考えた末に思い至ったのが、湯島天神を題材とする案だ。

 柳の屋敷から不忍池のほとりに出る過程で、必ず通りがかる場所に、湯島天神はある。日中は参拝客がちらほらおり、神社のそばの通りも賑やかだ。だが、散歩から戻る夕暮れ時になると、行き交うひとも疎らになる。このような時間に天神社を参拝する者など殆どいない。夜の群青に融け込んでいく境内は、今にも消え失せてしまいそうなほど暗い陰を纏い、まるで世間から捨て置かれた存在であるかのようだった。

 孤独、静寂、迫る闇。それらは、納屋で過ごした時間を嫌でも思い起こさせる。あの時に感じた不安、恐怖、それらに付随する様々な負の感情を、私は夕暮れの湯島天神の姿に重ねて描くことと決めた。

 こうしてようやく、私は初めての執筆にかかることができたのだった。小説を書くと決めてから、半月以上が過ぎていた。

 秦野から貰った原稿用紙の束。その白い表紙を捲ると、目に飛び込んできたのは、薄褐色の罫線だ。それには見覚えがあった。

『嵐中記』――柳が私のために書いたあれが、確かこれと同じ用紙に書かれていたのではなかっただろうか。

 これから描かんとする私の過去と現在の共通点を、私はこの原稿用紙に見出した。そして思い至る。私は『嵐中記』を一体どこへやってしまったのだろうか。確か、読み終えた後、祖母から貰った本の下に隠したはずだ。もしかすると、納屋にそのまま残してきてしまったのかもしれない。

 だが、荷を纏めたのは私ではないのだし、宇都美の家を出る際の記憶も曖昧なままなのだ。いくら悩んだところで、もはや対処のしようもない。

 小さく左右に頭を振り、考えを打ち払う。

 気を取り直した私は、真新しい万年筆を手にした。その腹に充分に墨を吸わせてやる。金属製の尖りが、白いマス目の中を、闇色の筋で埋めていく。セピヤにはない力強さを感じさせる文字色だ。ペン先が紙を捉える度に、右腕が微かに震えていた。

 

『群青色の果てに、神は居ぬ。闇の外にも、光の内にも。この異様な確信だけが、私を辛うじて人間たらしめている骨子であった』

 

 生まれて初めて書いた小説の冒頭は、確かこんなふうだった。逢魔が時、ひとりの男が、神社の社殿を見つめながら、孤独な人生を回想するという形で語られている。風体こそ違えども、両親に虐げられてきた過去を持つ主人公は、紛れもなく私の写し身であった。

 当時の私にとっては、とにかく書き上げることが精一杯で、小説に必要な緩急や整合性に気を配る余裕などなかった。それでも、半月ほどかけてようやく完成した、原稿用紙十枚ほどのごく短い小説を前にした私の心には、えも言われぬ充足感が宿っていたのである。

 小説を完成させた夜、私は酷く興奮していた。初めて自分で書き上げたものを繰り返し読み直しては、その度に、自分以外に誰もいない部屋のどこかにこれを盗み見る者がいるのではないかという錯覚に囚われ、おどおどと周囲の様子を窺った。思えば、私が何かを成し遂げるのは、この時が初めてだった。ありもせぬ視線に怯えながらも、私は謎の全能感を覚えていた。愚かしくも、その時の私ときたら、柳に頼らぬとも自分ひとりで生きていけるような気さえしていたのだ。

 傲慢な思い違いをしたまま、原稿用紙を片手に椅子の背にもたれかっていると、不意に窓の方が気になった。駱駝色のカーテン越しに、夜の闇が透けている。

 それを意識した途端、目に見えない氷柱が、背を一直に貫いた。反射的に、原稿用紙の束を袖斗へと隠す。左腕を口元に強く押し当て、着物の袖の上から腕を噛んだ。

 心臓の鼓動が早まっていく。

 草履が土を踏む音が、確かに私には聞こえていた。

 ここは東京なのだ。宇都美の家の捨て置かれた納屋ではない。

 そう自分自身に言い聞かせる。だが、意思に反して、身体は凍えたように震えていた。

『産まれてすぐに殺しておけば、こんなことには』

『お前はとんだ疫病神だ』

 耳の奥で蘇る、低く唸るような憎々しげな声の残響。

 引きつった悲鳴は、押し当てた腕のせいで、荒い吸気音へ取り替えられた。椅子に掛けたまま、床を蹴る。後ずさることは叶わない。次第に均衡が崩れ、私は派手な音をたてながら、椅子ごと後ろ向きに倒れた。

 激しく窓が叩かれる。

 カーテンが揺れた。

 硝子越しに、室内を窺うものがある。

 それは間違いなく私の父だ。

 空いた右手だけを使って必死に床を這う。父の怒りから逃れたい一心だった。

「順二朗!」

「順二朗さま、どうなさいましたか!」

 私が辿り着くより先に、扉は開かれた。血相を変えた柳とはる恵が飛び込んでくる。

 口元に腕を押し当てたまま、床に這いつくばる私がさぞ異様だったのだろう、ふたりは驚愕に目を見開いていた。

「一体、どうしたというのだ」

 蒼い顔をした柳の手によって、私はすぐに助け起こされた。はる恵は、私の顔を覗き込むなり、柳に何事かを早口で告げてから、すぐに部屋を出て行った。

 恐る恐る窓に目をやる。もう、カーテンは揺れていない。窓を叩く音もしない。そこには誰もいない。いるはずがない。それらはすべて、私の後ろめたさが見せた幻想だったのだ。――何しろ、私は、書き終えたばかりの小説の中で、主人公となって、暴力を振るうばかりの父親に鉈を振り下ろし、殺していたのだから――

 窓辺を確かめてから、私はようやく腕を下ろすことができた。酷く噛みしめていたため、歯形が薄く残った布地は少し唾液で濡れている。

「ごめんなさい、先生。何でもありません。……少し、あの、椅子に座ったまま眠ってしまったようで。それで、うっかり床に倒れてしまっただけなのです。だから、その、本当に何も」

 口をついて出たのは、あからさまな嘘だ。この場所に存在するはずのない幻想の中の父親に怯えるあまり、椅子から転げ落ちてしまったことを、柳に話すのは、恥ずかしいことであるように思えたのである。それまで私は、柳に訊かれるままを答え、散々彼の腕に縋ってきたはずだった。だがこの時ばかりは、自分の失態を口にすることはおろか、柳が親切心から私を助け起こしてくれることすら、私には酷い辱めであるように感じられたのだった。これは、私の中に、男としてのささやかな矜持が芽生えたという確かな証明であっただろう。

 自ら身体を起こし、怪訝そうに眉をしかめる柳の腕から抜け出す。両手を床について膝立ちになり。そこから自力で立ち上がろうとしてみるが、やはり杖なしでは難しい。

「何でもないとは言うがね……。ともかく、肩を貸そう」

「要りません」

 見兼ねた柳が私へと手を伸ばしてきたが、羞恥から、ぴしゃりとそれを拒否した。

 しかし柳は、構わず私の腕に触れてくる。

 乾いた音が、部屋に響いた。柳の手を、反射的に払いのけてしまったのだ。

 瞬間、私は美しい薄紅色を見た。柳によって施された爪紅だ。小説を書いている間は全く気に留まらなかったその色が、洪水のように押し寄せ、私を責めたててきた。そして、自身が施した薄紅によって、その手を弾かれた柳の心情たるや。

 柳は表情に驚きを覗かせていたが、すぐに微笑んだ。しかし細めた目には、どこか悲しげな色が浮かんでいる気がしてならなかった。

 私によって払われた手を、彼はそのまま私の頭にのせると、乱れていた髪をそっと梳いた。無意識による二度目の拒絶はなかった。

「私が悪かった。だから、泣かずともよいのだよ、順二朗」

「……泣いてなど、いません」

「そうだな、どうやら私の見間違いだったようだ」

 腕で目元を拭う。涙など流れていなかった。

 柳の手が離れていった。私は黙って、床を這うようにベッドへ向かう。柳はもう手を差しのべることをしなかった。

 ベッドに横になったところに、はる恵が戻ってきた。手にした盆に載っているのは、湯呑みと水差しだ。

「では、私は部屋に戻るとしよう。ゆっくりやすみなさい。――はる恵、後は頼むよ」

「かしこまりました。おやすみなさいませ、旦那様」

「ああ、おやすみ」

 ふたりのやりとりを、私はベッドの上からぼんやりと見つめていた。扉が完全に閉まるまで、柳の視線は私の様子を窺っていた。

 はる恵は、椅子をベッドの傍に動かすと、座板の上に盆を置いた。空の湯呑みに水差しから水を注ぎ、私に差し出しでくる。

「痛むところはありますか」

 優しい声色に、小さく左右に首を振って答える。両手で湯呑みを受け取り、一口飲む。心地良い冷たさが喉を滑り落ちていくと、少しばかり頭がすっきりとした。そうなると湯呑みを掴む指先の薄紅が、また気になり始める。湯呑みを盆の上に戻すと、私は両手を掛け布団の中に隠した。

「椅子からお落ちになった?」

 ひとつ、頷く。

「あまり、旦那様にご心配をかけられませんよう。順二朗さまのことを、いつも気にかけていらっしゃるのですから」

 意図はどうあれ、柳が私のことを気にかけてくれていることは、私自身が身をもって実感している。宇都美の家で出会った時から、彼は見ず知らずの私に親切にしてくれたのだ。また、父から暴力を受けていた私を、東京に連れ出し、こうして寝食の世話までしてくれている。

「……どうして、先生は、ぼくにこんなによくしてくれるのでしょうか」

 掛け布団の下で、両の拳を握る。薄紅色の爪はその中へと埋もれた。

「ひょっとすると、先生はぼくの父に、何か義理のようなものがおありなのでしょうか」

 私の独り言めいた問いかけに、はる恵は戸惑いの表情を浮かべ、口ごもった。彼女はきっと、私の知らない柳の事情を知っているのだろう。しかし、女中である彼女が、主人である柳のことを、簡単に言いふらすはずもない。

 仮に、彼が私に何らかの才を見出して(そんなものが自分にあるなどと、私自身はかけらほども思ってなどいないが)私を書生とすることに決めたのであれば、手伝いもしないことを多少なりとも咎め立てするだろう。しかし、ここに来て数年経っても、そんな様子はない。ならば、柳には、宇都美の家に義理のようなものがあり、それ故私の面倒を見てくれていると考えるのが、流れとして当然のことだろう。

 無礼にも手を振り払った私を、柳は叱責しなかった。その表情、態度を思い返す。

 そこから更に記憶を遡っていく。

 彼に縋り歩いた逢魔が時の街角。東京に向かう列車の中。故郷の湯治場街。柳が滞在していた、文机の置かれた六畳間。そして、薄暗く寒風吹き込む納屋。それらすべての時所で私に向けられていた柳の優しさは、単なる義理人情によるものだったのではないか。もしかしたら、私自身に対する愛着のようなものは、彼の心の中に一切存在しないのではなかろうか。

 魔に囚われたかの如き行いの数々すら、彼にとっては、子をあやすための他愛もない遊戯にすぎなかったのかもしれない。

 いや、間違いなくそうなのであろう。勝手に得心し、同時に、落胆する。まるで暗室のような彼の心の一端に、ようやく触れられたような気がしていた。それすらも、私の思い違いだったということだ。

 不具の右足を、そして薄紅色の爪を覆い隠すこの掛け布団を、今すぐに引き裂いて、窓から投げ捨ててしまいたい気分だった。

「……もう、寝ます」

 それらの衝動を胸の中で押し殺し、何とか一言だけ捻り出す。はる恵の顔を直視することはできなかった。きっと彼女もまた、私に合わせる顔はなかっただろう。

 はる恵は「おやすみなさいませ」とだけ残し、そそくさと逃げるように私の部屋から去っていった。ベッドの傍の椅子に、盆に載った水差しと湯呑みが残されている。その向こうにある机の、その角という角が、刃物のように鋭利なものとして、私の目に映った。

 宇都美の父、暗い納屋、祖母の面影。袖斗に隠した過去の具現に、この夜、これ以上触れたいとは到底思えなかった。

 私はただ、柳のことだけを考えて眠った。

 

 窓越しの密会は続いた。

 小説の完成から数日後、私の元を訪れた秦野は、原稿用紙にしたためられた処女作を手にするなり、無言でそれに目を通した。

「随分詩的で幻想趣味な文章だが、うん、悪くないな」

 不敵に笑んで、彼は続けた。

「現実離れした幻想は、論理からは限りなくかけ離れたものだからな。小難しい論理なんぞ、理解できるのは極少数だけだ。だからこそ、感覚でしか解せない幻想趣味な小説こそ、大衆に向く。すべての人間が、空を飛ぶために必要な知識や理屈を学べるわけではないが、鳥になって羽ばたく空想は誰にだってできる。それと同じだ。

 言葉で形作られた幻想の中でのみ、荒唐無稽な事柄も真実となる。それをいかに、読み手に享受させるか? この部分が、小説の大衆性に大きく影響を与えるのだ。書き手が文学的芸術性を重んじ、策を弄すれば弄するほどに、創作物はエゴイシズムの塊に成り下がる。それは大衆の感覚とは程遠いものだ。俺が書きたいものでも、広く求められているものでもない。

 そういった技巧を凝らすことばかりに囚われた自称文士らの、頽廃的な自己陶酔に付き合わされるのは、正直うんざりだったのだ。こういった、荒削りでも、純粋かつ新しいものが、俺は読みたかったのだよ、順二朗くん」

「はあ」

 興奮を抑えきれない様子の秦野に気圧され、曖昧な相槌を打つ。

 あの夜、柳が私に対して向ける親切心の理由に心当たってからというもの、活力はすっかり削がれてしまっていた。何をしようにも、頭に浮かぶのは柳のことばかりだ。たとえ隣に柳本人がいようとも、私が頭の中で勝手に造りあげた、彼の心の模型にばかり気がいってしまう始末だった。

「暴力的でありながらも繊細な無神論だ。架空の探偵を活躍させるために行われる殺人劇なんかより、よっぽど訴えかけるものがある。特に、この――」

 私の口から漏れた深い嘆息に、原稿用紙に目を落としていた秦野も、訝しげに顔を上げた。

 彼の話を聞いていなかったわけではない。ただ、耳から入った彼の言葉は、頭の中をぐるりひと巡りして、そのまま反対の耳から出ていってしまったようで、結局私の中には、その片鱗すら残っていなかった。

「……どうした、浮かない顔だな。こうして自分の書いたものを褒められるのは好かんのか?」

「あ、いえ、そういうわけでは……」

「何だ、今日はいつにもまして歯切れが悪いな。またどこか具合が悪いんじゃないか」

 彼に話せるはずなどない。柳のことを考えていた、などと。いや、話せたら、いっそ楽だったのかもしれない。『私がこんなにも、柳先生のことを考えてしまうのは、一体どうしてなのでしょうか』そう、彼に訊けたなら、たったひとり苦悶する日々から抜け出せたのではないか。

 実際は、自分自身で解からないことが、他人である秦野にそれこそ理解できるはずもないとは思っていた。しかし解決の糸口は見出せずとも、言葉にするだけで少しは何かが変わったかもしれない。……だが、やはりそれは私にとって不可能なことだったのだ。

 この線引きは、柳に対する(極めて半端な)私なりの精いっぱいの義理立てであった。そしてその根底には、私の行いによって癇癪を起こした柳が、宇都美の父のように酷い暴力を振るうのではないかという恐怖も少なからず存在している。私を救ってくれた柳に限って、有り得ないと思いたかった。だが、暴力を振るうその原動力は、激しい感情の起伏が引き起こす衝動だ。小説の中で父親を殺してから、私はその現実に気付かされた。柳の親切が好意によるものではなく、何かに対する義理立てに過ぎないのだとしたら……癇癪の末、柳が私に暴力を振るうことはないと、誰がはっきり断言できるだろうか。

「近頃少し、暑いので」

 嘘の上塗りに、胸が痛んだ。これから先、彼や柳に対して、一体どれだけの嘘を重ね続けることになるのかと思うと、夏にもかかわらず背中がうすら寒くなる。

 秦野は「そうか」と頷くだけだった。鋭いようで鈍い、彼の妙な感性に、この時ばかりは感謝した。

「余計なことかもしれんが、きみさえよければ少し添削をしてもいいか。きっと、そこから見えてくるものもあると思うのだが。勿論、これ以上読まれては堪らんというのであれば、止めておくが。……どうだ?」

「一向に構いません」

 原稿用紙の束を片手に伺われ、短く返す。私の返答に、秦野は、初めて使いを頼まれた子供のように嬉しげな面持ちだった。

 挨拶もそこそこに背を向けた彼が、青々と茂る柳の下をくぐり、門から出て行くまで、一度も振り向きもしないその姿を、私は静かに見送った。

 秦野の姿が見えなくなった途端、脱力する。椅子の背にもたれていながらも、身体がぐらりと傾いた。危うく転倒しそうになり、慌てて窓枠を掴んだ。だが、窓枠にかけた指先も、そこだけ雪の中に閉じ込めたかのようにぶるぶると震えていて、呆気なく外れてしまった。床に落ちて尻餅をつく。幸いにも椅子が倒れることはなかったので、心配するほど大きな音はたたなかった。

 無様な格好のまま、深く安堵の息を吐く。

 酷い虚脱感と罪悪感が、血液と共に身体中を隅々まで巡っていた。私はそのまま、床の上に寝そべった。

 瞼を閉じてもなお、窓から差し込む光が目の奥まで届いてくることが、腹立たしくも悲しかった。

 

 

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