その柳の下に[二章]

 

「あれはまだ、年号が大正に変わってすぐのことだ。俺はまだ、今のきみくらいの歳だった。その頃、巷では柳先生の小説が流行っていてな。俺が暮らす田舎の貸本屋でも、借り手がひっきりなしに来るような人気だったのだ。俺も、そこで先生の小説に出会った。最初に読んだのは、子供向けに書かれた冒険小説だったから、俺にも何とか読むことができたのだ。

 先生の小説は、まだ幼かった俺に衝撃を与えた。その頃は、毎日野良仕事の手伝いばかりだったから、先生が描く少年達の、胸躍る冒険譚に、それはそれは憧れたのさ。特に魅かれたのが、海だ。俺は山育ちで、海を見たことがなかった。だのに、どうだ。先生の小説を読むと、見たこともないはずの青い海が、頭の中に広がるのだ。俺は幼心ながらに感動した。どうして、文章でこのようなことができるのかと考えた。そして繰り返し、先生の小説を読んだ。そのうちに、俺も先生のような文章を書きたい、作家になりたいと思うようになっていった。

 毎日毎日、何年にもわたってそんなことを考えた挙句、ついに俺は田舎を飛び出し、東京に出てきてしまった。先生の小説を出している出版社だけは、予め調べておいてな。それが、十七の年だった。

 ようやく辿り着いた出版社の前に立って、そこを出入りするひとたちに向かって、俺はこう声をかけた。『柳肇先生でいらっしゃいますか』と。そりゃあもう、片端からあたったさ。何せ、先生がどんな顔をしているかなんて知らなかったのだからな。

 そもそも、先生に会ってどうなるというものでもなかったのだが……その時の俺は、まあ、若かったんだな。とにかく先生に会いさえすれば、先生のような小説を書けるのだという思い込みがあったのだ。

 はは、それでな、ここが、おかしいところなのだ、順二郎くん。

 俺はてっきり、作家はみな、原稿を自ら出版社に届けに行くものと思っていた。だが、先生はその頃既に名が売れていたから、編集者が自ら先生の自宅に赴いて原稿を受け取っていたのだ。そんなことも知らずに俺は、先生はいつ来るのだろうと、飯も食わずに、そうやって先生が現れるのを待っていたのだ。

 そうしていたら、あっという間に二日経った。何も食ってない、だが金もない。そろそろ行き倒れになるしかないのか。そんな俺を見かねたのか、出版社の人間がひとり、声をかけてきた。『柳先生に連絡を取ってやる』とね。思えば、最初から出版社の者に取り次ぎを頼めば早かったかもしれない。きっとこれが、俺の人生でもっとも考えなしで無駄な時間だっただろうな。

 こうして、俺は柳先生と対面することが叶ったのだ。

 先生は、どこの馬の骨とも分らん俺の話を、真剣に聞いてくれたよ。先生のような作家になりたいのだ、という、具体性のない、非凡な夢語りを。そしてすぐ、知り合いがやっている下宿を紹介してくれた。金のない俺を気遣って、その家賃も肩代わりしてくれたのだ。『書くことに集中しろ。金は作家になってから返してくれたらいい』とな。その上、時折屋敷に俺を呼んで、食事を振る舞ってくれることもあったのだ。

 それから俺は下宿の部屋に籠ってひたすら書いた。先生からこれほどまでに多大な恩を受けておいて、結果『作家にはなれなかった』ということにでもなったら、申し訳が立たんだろう? 意地があったのだよ。先生の顔に泥を塗ることはできないという、意地が。

 その甲斐あって、十九の年に、ようやく雑誌の片隅に、作品を載せてもらえることになった。さらにありがたいことに、その評判が良く、そこから切れ間なく仕事の依頼がくるようになったのだ。

 ……俺は初め、先生に書生にしてくれるように頼んでいた。けれど、こうして作家となった今、書生にならなくて正解だったと思っているのだ」

 滔々と流れた言葉はそこで切られた。

「……何故ですか?」

 秦野は右手で顎を撫でる。

「先生の偉大さを知っているからこそ、そんな先生の書生であるという重圧に耐えながら小説を書き続けることは、恐らくできなかっただろう。借りた金も、受けた恩も、すべてお返しするのだという気概で書いたからこそ、今があるのだ。こう見えて、重責には弱いのだよ、俺は」

 彼の顎に添えられた手。その五指は、太く節くれだち、厚い皮膚に覆われている。苦労を知っている手だ。それに比べ、私の指先の、何と細く頼りないことか。上京したばかりの秦野に、期待をかけて援助をした柳も、彼の指を見ただろうか。そして私のこの指を見て、何と思ったことだろう。

 柳のことなど頭の片隅に追いやっていたはずが、私はいつの間にか、柳のことばかりを考えていた。

「……柳先生が、そんなに高名な方だと、ぼくは知りませんでした。ただ、作家先生とだけしか」

 柳の著書は、十冊も手元にあった。しかしそれでも、彼が著名な作家なのだと思い至らなかったのは、私の耳に、柳に対する世間の評判が一切届かなかったからだろう。

「そうだろうな」

 私の告白を、秦野はさも当然のように受けた。

「作家として先生のことを深く知る者を、先生が書生にするとも思えん。奥方を亡くされて、きっと先生も寂しかったのだろう。だから順二郎くん、きみを」

「えっ、奥方?」

 あまりの驚愕に、私の身体が大きく震えた。

「先生は、ご結婚されていたのですか」

 たとえ柳に妻があったとして、単なる居候の私には、何の関係もないことだ。だのに、私はその事実を知り、酷く動揺していた。

「秦野さん、先生には、本当に奥様がおられたのですか? お亡くなりになったのは、いつなのです?」

 秦野の腕を掴み、矢継ぎ早に尋ねる。興奮していた。杖が地面に倒れるのも構わず、彼に詰め寄る。

 秦野は僅かにたじろいだが、すぐに私の手を剥ぎ取った。明らかな困惑がその表情に滲んでいる。それを目にした途端、私の胸に暗雲が立ち込めた。

「……きみはそのことも知らなかったのか。これは、まずいことを教えてしまったな。くれぐれも、先生には黙っておいてくれ。俺がうっかり口を滑らせたなどと、言わないでくれよ」

 その念押しに、私は返事をすることも、頷くことさえもできなかった。

 柳には、妻が――愛した女性がいた。その事実が、私の心の真ん中に、大きな穴を穿った。そこから冬のように冷たい風が吹き上がってくる。まるで、私の心だけが、厳寒の納屋に引き戻されてしまったかのようだった。

「ともかく、小説だ」

 秦野は再び椅子から立ち上がった。

「言ったように、学のあるなしは関係ない。もし、きみに少しでも書きたいという気持ちがあるのなら――」

「おい、秦野!」

 怒気を帯びた声が、少し離れた場所から聞こえた。反射的に背筋が震え、振り返る。屋敷の入口辺りに、柳と橘川夫妻の姿があった。声を上げたのは井上のようで、彼はひとり足早に東屋へと向かってきた。

「先生にろくすっぽ挨拶もなしに、彼と何をやっている」

 秦野に対しての苦言であるはずなのに、何故かその視線は私に向けられている。刃物のように鋭利なのに、どこかじっとりとまとわりついてくるような目つきに、生理的な嫌悪を覚えた。背筋にぞうと冷たいものが走り、思わず目を逸らす。

「ああ、井上さん。この通り、ちょっと話をしていただけですよ」

 井上の異常な視線に、秦野はまるで気が付いていない。後方の柳ばかりが気がかりなのかもしれない。

 私がそっと長椅子から立ち上がろうとすると、すぐに私のそばに井上が寄って来て、足元に転がっていた杖を拾い、杖を差し出してくる。

「杖がないと、立ち上がれないだろう」

 秦野の話など、井上はまるで聞いていないようだった。

「……あの、ありがとうございます」

 杖を受け取り、改めてその場に立ち上がる。その頃になってようやく、柳と橘川夫妻が東屋へと辿り着いた。

「やあやあ、順二郎くん。元気かい?」

 橘川が井上と私の間に割り込んで、にこにこと笑いながら私の肩を叩いた。

「はい。橘川さん、奥様も、お変わりありませんか?」

 無理矢理に笑みを作り出す。

「ああ、変わりないよ。しかし、きみも、相変わらずだなあ。ぼくなんかに、そんなに丁寧に振る舞ってくれなくてもいいんだよ」

 橘川が苦笑すると、彼の後ろから細君が顔を出した。白を基調とした上品な洋服姿で、珍しい断髪だ。肩の上で切り揃えられた黒髪が、会釈と共に優雅に揺れる。

「あら、私は順二郎さんのような礼儀正しい方は、素敵だと思うけれど。順二郎さん、うちのひとの言うことなど、気になさらないでくださいね」

 大きな瞳が細められると、長い睫毛が一層際立つ。赤い唇は、言葉を紡ぐ度、蠱惑的に艶めいた。

「すっかり人気者だな、順二郎くんは」

 秦野が、からからと笑う。その背後から、柳がぬっと覗いている。彼の目は、周囲の和やかな空気を一切無視して、私だけを見つめていた。笑っているでも怒っているでもない。ただ少しだけ、哀切を含んだような視線だった。

「彼をからかうのではないよ、秦野くん。……順二郎」

 静かに名を呼ばれ、自ずと身体が強張る。

「先に中に入っていなさい」

「……分りました。それではみなさん、ぼくはここで失礼致します」

 誰の顔も見ないまま軽く頭を下げてから、私は東屋をあとにした。

 屋敷に入るまでの間、背中には柳の視線を痛いほどに感じていた。

 

 自室に戻るなり、杖を壁際に立てかけると、ベッドに臥せた。部屋の中は、ほのかに太陽の匂いが漂っている。その暖かさに、胸が押し潰されそうになる。

 私には、柳のことがまるで理解できなかった。

 柳は優しいし、親切だ。けれど、私に対して、彼は一体何を望んでいるのだろうか。

 私が屋敷にいても、何の役にも立たない。それどころか時折軽はずみな言動で、彼を怒らせてしまうことだってある。それなのに、どうして彼は、この期に及んでも私を傍に置くのか。

 同時に、私は、私自身のことも解らなかった。

 私を救ってくれた柳に対しては、恩義と申し訳なさを感じているばかりだった。しかし、柳の細君の話を聞いて、私が抱いているものがそればかりではないことに気付かされたのだ。胸にぽっかり空いた大きな穴の底から露わになったこの感情は、熱く、どろどろとした粘性を持っている。どこか闇に似ていて、その全容を掴むことは難しい。

 私はこの日初めて、自分自身を恐ろしいと感じた。叫びだしたい衝動を、指を噛んで殺した。涙が溢れる。数年前、納屋で同じようにして、父に悟られぬように泣いたことが想起され、余計に悲しくなった。祖母に会いたいと強く思った。祖母の温もりならば、この恐れを拭い去ってくれるような気がしたのだ。

「順二郎」

 遠く小さく聞こえたのは、柳の声のようだった。現実のものか、それとも記憶の中の声だったかは、判らない。

「先……生?」

 掠れた涙声で、呼びかけに応える。返事はない。薄目を開けようとするが、窓から差し込む日の光が、私の瞼をそっと押さえてきた。胸の奥にまで、その温もりがじわりと染みていく。

 暖かい。祖母の手も、太陽のような安心感のある温度だった。

 ――祖母の手と、柳の手の温かさは、似ていたのではなかったか。そして私は、あの温かさにこそ、救われたのではなかったか――

 温もりに身を委ねるうちに、私は眠ってしまっていたらしい。目を覚ました時には、もう窓からの日差しはなかった。

 窓際に置いたままになっていた椅子に柳が掛けている。私に向けてじっと視線を送る彼の表情には、ただただ穏やかな色が滲んでいるのみだ。

「秦野くんに、何か言われたかい」

「あ……」

 心臓が大きく跳ねる。秦野との会話は、秘密にしておくという約束だ。だが既に、ふたりでいるところを目撃されてしまったのだから、何も話していないと言い訳するのは不自然だろう。

「その、たいしたことでは」

 話を濁そうとすると、柳は途端、眉根を寄せた。怒らせたかと思ったが、しかし彼の目はどこか寂しそうだった。

「私には話せない?」

「そうではありません」

 柳が肩を落として口にした言葉を、半ば叫ぶように否定する。

「その……先生が、井上さんたちとお話をしている間に、たまたま秦野さんが来られて、それで、ぼくがひとりでいたものですから、退屈だろうと、秦野さんの昔話をしてくれていただけなのです」

 完全な虚言ではなかったが、ただ、肝心な部分は省いている。だからこれは、結果的には、私が柳についた初めての嘘だった。

 嘘は棘だ。そう痛感した。無数の小さな棘が胸を突き刺し、その痛みが私を酷く苦しめていた。私のついた嘘を、ほかならぬ柳の手によって、この場で暴かれることを望みながら、暴かないで欲しいとも願っていた。そうして生じた矛盾が、さらに鋭い棘となって私を苛んだ。

「彼の? ……そうか、そうだったか。それなら、いいのだ」

 頷く表情はすっかり和いでいた。その表情に、私はこの矛盾した望みの一方が成就したことを確信する。同時に、安堵に撫で下ろされた胸の裏側を、より深く棘が抉った。

「秦野くんは、作家というものに思い入れが強いからね。色々と面倒なことも言っていたろう」

「ええと、自分はインテリ連中とは違うのだ、と」

 まさか今更嘘だったなどと言えるはずもないから、上手い具合に話を合わさなくてはならない。慎重に言葉を選んでいく。

「はは、やはりきみも聞いたか。あれは、彼の口癖なのだよ」

 愉快そうに膝を叩いた。

「彼は自分が、尋常小学校までしか出ていないことを、酷く気にしていてね。そんなことは、人生の中においては取るに足らないことだと、何度も言い聞かせているのだが、当人にとっては、なかなかそうもいかないらしい。いやはや、難儀な男だよ。その割に、口が過ぎることもあるが」

 秦野について語る柳の口ぶりは、随分と柔和だ。ジュリエッタでは、ふたりの間に不穏なものしか感じられなかったから、彼らが険悪な仲なのではないかと、最初は勘ぐっていたのだ。しかし、秦野と柳、それぞれの話から察するに、どうやらそれは私の勘違いであったらしい。

 私は、秦野のことは嫌いではなかった。勿論、柳のことも嫌いであろうはずがない。だから、そんなふたりの関係が実際に良好であるという事実は、私にとって嬉しいことであった。

「先生のこともお話しになっていましたよ。恩人だ、とても優しいひとだと」

 だから、柳に対しての賛辞を、つい口にしてしまった。

「……私を?」

 怪訝そうな表情を僅かに浮かべる柳を目にして、私はまた自分の失言に気付かされたのだった。

「買い被りすぎだな、秦野くんは。……私は、優しくなどない。誰よりも利己的で、我儘な人間だよ。彼が気付いていないだけでね」

 口元に、自嘲気味の笑みが浮かぶ。殴られるよりも強い衝撃が、私の身を襲った。怒りを向けられる以上に、罪悪感が掻き立てられる。

 柳を困らせたいわけではない。怒らせたいわけでも、悲しませたいわけでもない。それなのに、いつだって私の発言は裏目に出る。彼には笑っていて欲しいと思うのに、気付いた時にはそれを壊してしまっている。

 自らのすべきことが、益々解らなくなっていくばかりだった。

「さあ、そろそろ散歩に行く時間だ」

 不意に柳は立ち上がると、壁際に立てかけられていた杖を、私へ差し出してきた。咄嗟に頷くことしかできず、おずおずとそれを受け取る。

 杖で身体を支えながら、左足を床に下ろす。右足は、附属品のようについて来るが、左右で長さが合わない。それを杖で調整する。着物の裾から覗く左右の足は、もう倍ほども太さが違う。端から見れば、何とも薄気味の悪い姿だっただろう。

「今日は気分を変えて、神保町まで歩いてみようじゃないか。あそこはミルクホールが多いのだよ。ジュリエッタと違って若い客が多いから、きっとこの時間は賑やかだろう。ひとつ、寄ってみるとしようか」

 柳は先だって部屋を出て行った。急いで、そのあとを追う。聞き慣れた木杖の音は、しかしこの時ばかりは悲愴気に響いた。

 

 日暮れ前の神田神保町は、湯島や、ジュリエッタのある根津とはまったく違う活気に満ちていた。聞いた通り、詰襟を着た学生や、秦野に似た格好の青年など、若者の姿が目立つ。どうやら周囲に学校があるらしく、そのためか古書店が多く建ち並んでいた。

 私たちは、適当なミルクホールを選んで入った。そこの客も、学生が殆どであった。

 私はミルクを、柳は珈琲を、そしてシベリヤという菓子をひとつ頼んだ。夕食前なので、菓子はふたりで半分に割って食べることにした。

 シベリヤというものを目にするのは初めてだった。見た目から、てっきりどら焼きのようなものかと思いきや、カステラと小豆餡が、どら焼きにはない不思議な一体感を持っている。しっとりとした生地は舌触りも良く、ミルクと合わせて食べるとより美味かった。

 感じたままを、私はやや興奮気味に、柳に伝えた。柳は何度も頷いて、話を聞いてくれた。

『美味いものは心を豊かにしてくれる』とは、かつて彼が教えてくれたことだ。あれから何年も経って、ようやくその言葉の意味が理解できた気がして嬉しかった。

 ミルクホールを出る頃にはもう夕暮れ時で、まちはすっかり茜色に染まっていた。

 学生街を離れると、人の姿もまばらになった。その誰もが、家路を急いでいるのか、周囲の様子などまるで関係なしといった様子だ。

 帰路も残り半分を過ぎた頃、柳は突然足を止めた。何事かと、私も歩みを止め、彼を見る。

「順二郎。杖を寄越しなさい」

「でも、杖がなければ、うまく歩けません」

 杖に、そして右足に目を落とす。醜いその足は、申し訳程度に下駄を履かされている。左足に比べれば殆ど地面に付くことがないそれは、不自然に綺麗なままだ。

 杖を渡さずにいると、柳は痺れを切らしたように、杖身を掴んだ。

「私の腕に縋ればいい」

 口元に浮かぶのは穏やかな微笑。これと似た光景を、私は知っている。まだ納屋で暮らしていた時のことだ。あの頃の私は、世間知らずで、今以上に愚かであった。考えなしの行動が、私と父の仲を決定的に引き裂いたのだ。その戒めとしても、私はもう誰の手も借りずに歩かなくてはいけない。だからこそ、柳もこの杖を与えたのだと私は考えていた。だのに、再び柳の手を借りて歩くなど。

「ですが」

 たじろぎ、後ろに退こうとすると、杖身を捉えていた柳の手が、私の右手に重なった。その温度にどきりとする。

「……丁度、逢魔が時だ。もし知人の誰かに見られて何か言われたとしても、その時は『大方、きみは魔のものを見たのだろう』と笑ってやればいい」

 からからと、珍しく強気な笑い声に押され、恐る恐る杖を握る右手から力を抜いてみる。それを感じとってなのか、柳は私の右手首を握り、身を寄せてきた。私の着物が、彼の着物に触れる。その僅かな衣擦れの音が、妙に耳に残る。倒れそうになる杖を、柳が反対の手で受け止めた。

 幼い頃と違い、私の右足はもうまるで使いものにならない。だから、単純に手を引かれるだけでは、とても歩くことなどできなくなっていた。右手で彼の二の腕あたりを必死に掴み、彼の左手が私の肩を支える。

 かつてと形は多少違えども、しかし私は、確かにまた彼と共に歩んでいた。その事実が、胸を震わせる。

 からんからんと、下駄が鳴る。ひと組は彼の。もうひと組、不自然な私の下駄の音が、それに続く。

「きみの故郷でも、きみの手をとって歩いたね」

「そう、ですね」

「故郷のことを思い出すのは、辛いかい」

「いえ」

「では……、こうして私に手をとられるのは、嫌?」

 困惑した。訊きたいのは、私の方だった。

『自らの力で動き、生きよ』

 そういった想いから、彼は私に杖を与えたのではなかったか。

「……嫌では、ありません」

 酷な問いだとは感じた。だが、嫌だなどと、答えられるはずもない。これまで決して口にすることはなかったが、私は心の底では、柳とまたこうして歩きたいと願っていたのだから。

「そうか、それならいいのだ」

 私の返答に、柳は満足そうに目を細めた。すっかり頬が緩んでいるのが、横目にも見てとれた。

 私は、何も言わなかった。その代わり、彼の腕に縋る右手に込めた力が、無意識に強まるのだった。

 当時の私自身すら気付かなかったその意図に、はたして柳は気付いただろうか。

[三章↓]

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