その柳の下に[二章]

 

 その年の十二月に、大正天皇が崩御。元号は昭和と改められた。たった数日ばかりの昭和元年を終え、明くる昭和二年になると、柳に面会する客が多くなった。そんな中でも、秦野だけは暫く屋敷を訪れなかった。

 訪問客の殆どが柳を慕う若手作家や出版社の人間であったが、その中でもふたりだけ、明らかに他とは様子が違う人物がいた。頻繁に屋敷にやってきては、応接室で長い時間、柳と話をしているのだ。

 ひとりは、柳以上に痩せぎすで、目つきが鋭い、井上という中年の作家。

 もうひとりは、恰幅の良い交易商で橘川と名乗った。(こちらは時折妻帯して屋敷を訪ねてきた)

 彼らがどうしてこうも頻繁に柳のもとを訪れるのか、最初は不思議でならなかった。しかしそのうちに、彼らがかつて柳から金銭的な援助を受けていたことを、柳本人から聞かされた。ふたりは、その後の生活ぶりや仕事の様子などを報告に来るため、来訪の頻度が他の客よりも高いのだということだった。しかしそれは建前上のことで、話す内容の大半が雑談であり、自分は単なる暇つぶしに使われているに過ぎないのだと、柳は苦笑していた。

 柳家が相当な資産家であるらしいことは、様々な面で私を納得させた。金を出し惜しむ様子がないことも、使用人付きの広い洋館で暮らしていることも、資産家であるならば説明がつく。

 彼に対する理解をひとつ深めると同時に、柳について殆ど何も知らなかったのだという事実を改めて突き付けられたようで、複雑な心持であった。

 さておき、井上と橘川である。井上は、屋敷を訪れる時はいつもどこか草臥れた着物姿であるのに対し、橘川は英国で仕立てたという、見るからに上等な背広を身に着けていた。このように共通点のない格好と、職業も違うふたりが、実は帝大時代の同級生であるという事実は、少なからず私を驚かせた。

 これらのことを私に教えてくれたのは橘川だ。彼が身振り手振りを交えて思い出話を滑稽に語り出すと、そのうちに柳が呆れ顔で「喋りすぎだ」と釘を刺すのが常だった。この様子があまりに可笑しく、楽しかったので、私はふたりの横でそれを眺めては、笑っていた。そうすると、そのうち橘川と柳も一緒になって笑い出すから、それがまた私を嬉しくさせるのだった。

 一方井上はといえば、その鋭い目で、私のことをいつも値踏みするように見るばかりで、私とも言葉を一言二言交わす程度だった。柳の客人であるのだから、避けるのも失礼だろうと思ってはいたものの、内心、私は井上のことはあまり好きにはなれなかった。

 

 昭和二年が半分ほど過ぎた六月。屋敷を訪れる客人と度々話をするようになった以外は、柳と散歩に出るか、書棚を漁るだけの生活が続いていた。相も変わらず、私はただの役立たずのままであった。

 その日は明け方まで雨が降っていたが、午後になってからは好く晴れた。天候が回復したのを見計らったかのように、井上と橘川、そして橘川夫人が、三人で連れ立って屋敷に現れた。

 柳は早々に、三人を連れて応接室に入ってしまったので、私は仕方なく、自分の部屋で本を読んで過ごすことにした。

 窓から射し込む、初夏のまだ優しい陽光。明るい窓際まで椅子を引いて、そこに腰を下ろす。柳の書棚から本を選んでくる時間がなかったので、私は久しぶりに、祖母から与えられた柳の著書を手に取った。

旧紅ふるきくれない

 そう題された一冊は、中でも特に繰り返し読んだものである。

 全部で十編の短編小説が収められており、その一編一編が、時代も、舞台となる国も全く異なる。しかしこの十編は、ひとつの共通点によって繋がっていた。それが、作中に必ず用いられている紅色だ。紅色を表現しているのは間違いなく文字の羅列だというのに、そこから想像される鮮やかな色合いの美しさは作品毎に違った味わいがあり、またそれぞれがあまりに眩しく輝いて見え、読む度に目の前がくらくらとするのだった。

 勿論、私が『旧紅』の素晴らしさを実感したのは、東京に暮らし始め、より知識を蓄えてから後のことである。納屋にいた頃もこの作品を気に入ってはいたのだが、難語の連なりが、理解を阻んでいたのだ。

 捲る頁の一枚一枚は、やや日に焼け、或いは繰り返し触れる私の手垢のせいか、やや茶味がかっている。

 紙と紙が、擦れ合う。離れていく。また合わさる。その間に、私は紙の上の文字を目で追っていく。まばゆく輝くような、しかしどこかしっとりとした紅が、頭の中に広がる。そして、それは身体中を駆け巡った。手足の指の先、胸、腹。まるで血液のように、私の内部を、柳が描いた紅色が支配している。それは、染みるような温かさを持っていた。

 不意に目頭の奥が熱くなり、瞼の上から右手で両目を押さえる。

 この感覚、この温度。作中から確固とした何かを感じ取っているというのに、しかしこれまでに得た知識をもってしても、そのものの正体を、私は暴けずにいた。

 こつこつ。小さく硬質な音が、私を現実へと引き戻す。その音は、すぐ傍の窓から聞こえてきた。本を閉じ、座ったままそちらへ視線をやる。

「やあ、順二郎くん」

 窓硝子の向こうに、見覚えのある、ハンチング帽を被った男が立っていた。

「秦野……さん?」

 私が名を呼ぶと、彼は口元に、にいと笑みを浮かべ、再び窓硝子を叩いた。

 その意図を察し、観音開きの窓を押し開ける。滅多に開け閉めをしないものだから、加減が判らず、予想以上に窓枠が軋んだ。秦野は、口元に人差し指を当て、目配せする。

「久しぶりだな。その後、具合はどうだ」

「あの時は、その……すみませんでした。今は、もう大丈夫です」

 小声で聞かれ、同じように声を潜めて答える。

「そうか。それならいい。きみのことが気になってはいたが、三日空けたぐらいでは、さすがに先生もまだ覚えているだろうからな」

 秦野は苦笑する。確かに、柳はジュリエッタでの一件から十日ほどの間、秦野のことを思い出しては怒りを噴出させていた。(私は、いつ秦野が屋敷を訪ねてくるかとひとりひやひやしていた)しかしそれ以降は、他の訪問客への応対や仕事に追われ、秦野のことを口にしなくなっていたのだ。柳が宇都美屋に宿泊していた時にも、西山との約束の日を勘違いするということがあった。また、ジュリエッタで聞いたところによると、秦野が送った葉書のことも、柳はすっかり失念していたようだった。どうやら、柳は少し忘れっぽいところがあるらしい。秦野もそれを充分に承知をしているようだ。

「ところで、今しがた井上さんと橘川さんがここへ来ただろう。橘川さんは細君も連れて」

「えっ、おふたりをご存知なのですか? それに、どうしてこちらにいらっしゃることが分かったのです?」

 井上と橘川は、柳より若い。といっても、実際のところ、年齢はひとまわりも変わらないだろう。かといって、秦野と友人であると思われるほど、三人の年齢が近いようにも見えなかった。

 秦野は窓枠に両腕を載せた。室内で椅子に掛けた私と、視線の高さはさほど変わりない。

「井上さんは同じ作家だからと、先生が紹介してくれたのだ。橘川さんは、たまたまここで何度か会った。気さくなひとだから、俺なんかとも親しくしてくれているよ。ふたりが友人だとは、最初は知らなかったが」

「そうだったのですか。では、今日はご一緒にこちらへ?」

「いや、一緒というわけではない。ここに来る途中の三人に偶然上野駅で出くわしたから、知っていただけのことさ。それに俺は、先生に用があるならば、必ずひとりで来ると決めているのだ。話の腰を折られるのは嫌いでね」

「時間の無駄だから?」

 訊くと、彼ははたと真顔になり、すぐに小さく笑いを吹き出した。

「正解だ。俺が言ったことを覚えていたな」

 私の言葉に気を良くしたようで、彼はさも愉快そうに、窓の縁を手のひらで数回叩いた。

「もう解かっているだろうが、俺は用もないのに、ここへ来るような無駄なことはしない。実は、俺は今日、きみに話があってきたのだ」

 彼は目を細めた。

「ぼくに、ですか?」

 私の問いに、大きく頷く。

「ああ。話を先生に聞かれてしまっては、きっとまた叱られるだろうから、少し、庭に出られるか?」

 暫し思案する。秦野の言う通りにすれば、また柳の機嫌を損ねてしまうかもしれない。しかし、屋敷の敷地から出るわけではないし、天気も好い。少し庭に出て話すくらいであれば、気分転換にもなるだろう。

「少しなら」

 考えた末、私は秦野の誘いに乗ることにした。ゆっくりと椅子から立ち上がり、壁に立てかけていた杖を取る。

「そういえば、きみは足が悪かったのだな。中に入って、手を貸そうか」

 歩きだした私の背に、そう声がかかる。

 杖を用いることにも、随分と慣れていた。柳から与えられた杖は、既に私の右足だった。

 もう誰の手を借りずとも、私はどこまでも歩いて行けた――否、そうしなければならなかった。他でもない柳が、それを望んでいたのだから。

「いえ、ひとりで歩けますから」

 ちらと振り返り、秦野に向けた言葉は、自分でも呆れるほどに刺刺しいものだった。胸に沸き上がった、理由もわからぬ苛立ちを、酷く慚悔する。

「……すぐに出ます」

 自身の言葉が孕んでいた刺を、慌てて隠す。彼に、その刺が触れたかどうか、私に知る術はない。

「そうか、わかった」

 頷く彼は、顔色ひとつ変えなかった。

 

 柳の邸宅は、洋風建築の平屋だ。しかし、それとはうって変わって、屋敷と外塀の間には、不釣り合いな日本庭園が広がっていた。

 庭のところどころに石灯篭が置かれ、隅には東屋がある。門柱の傍には古い柳が一本生えていて、塀沿いには若い庭木が並ぶ。その根元を縫うように様々な植物が植えられていて、季節ごとに違った色の花を咲かせるのだ。この時は、紫陽花が鮮やかな紫色の萼を広げ、それが鞠のように黄緑色の茂りを彩っていた。

 屋敷の裏手には小さな池があり、ほとりには枝ぶりの良い松が植えられている。これらの正面に位置する部屋が、柳の私室だ。私に与えられた部屋は、玄関のすぐ右手。左手には応接室がある。どちらも、南向きの表庭に面していて日当たりが良い。

 門から玄関まで、そして東屋や裏手の池までは、丁寧に敷石がされている。そのため、私が玄関から出るとすぐに、杖の先が敷石を叩き、かつ、と軽い音が鳴った。手の甲に、頬に、じわりと感じる太陽の温もり。天気はすこぶる好いというのに、敷石を踏む足は重い。

「悪いな」

 言葉の割に、口元には、初めて会った時のようなまるで悪びれない笑みが浮かんでいた。彼の癖なのかもしれない。

「いえ……。それで、お話とは、一体何でしょう」

 ちら、と応接室の方を見やる。もし窓辺から柳がこちらを窺っていて、秦野との話を訊かれてしまったら――。

「東屋で話そう」

 秦野も同じことを思っていたらしい。私と目が合うなり庭の端を指さすと、そう促される。断る理由はなかった。

 東屋の存在は当然知っていたが、近付いたのはこの日が初めてだ。それどころか、庭に出ること自体、外出の際に通り抜けるのを除けば、片手で数えるほどしかない。その茅葺屋根の下には、木製の長椅子が置かれていた。そこに腰を下ろす。暖かな日差しが遮られたこの場所は、心持ち肌寒い。

 秦野は長椅子には掛けず、私と向かい合うように、東屋の柱に背を預けた。

「……以前、ジュリエッタで会った時、きみは何も書かないと先生が言っていたな。あれは本当なのか?」

 前置きもなく尋ねられ、杖を握る手に力が籠る。問いかけの内容から、彼が柳の言葉を信じていないことは明白だ。

「……はい」

 暑くもないのに喉が乾いていた。何とか最低限の答えを捻り出すが、秦野は私を黙って見つめるだけだ。彼を納得させるだけの材料を、私はここで提示しなければならなかった。

「実は……」

 疑念にまみれた視線に胸を刺されたようで息苦しい。耐え切れず、目を逸す。彼は私のその行動を、咎め立てはしなかった。

「ぼくは生まれてこのかた、学校というものに通ったことがないのです。そんな学も教養もないぼくに文学なんて、とても」

 私は何も持たない。何ひとつできることなどない。改めて、この事実を自ら口にした途端に、秦野にこうした質問を浴びせられていることすらも、恥じ入るべきことであるように思えた。

「小学校を出ていないって? きみが?」

 そこに、秦野が追い討ちをかけるものだから、私はしゅんと項垂れ、小さく縮こまるしかなかった。

「ふむ」

 彼がひとつ声を漏らす。その頭の中で、一体どのような思考が巡らされているのかと、気が気ではなかった。首筋にじっとりと嫌な汗が伝う。

「詳しい事情を訊くつもりはないが……それにしては、きみはちっとも粗野な感じがしないな」

「えっ」

 驚きに顔を上げる。先生の書生たる者が、文学をしないだけでなく、小学校すら出ていないとは――そう蔑まれるとばかり思っていた私には、秦野の言葉は意外でしかなかったのだ。

「あ……その、実家が、宿を営んでいましたから、そのせいかもしれません」

 確かに私は、粗野とは言い難い人間であったかもしれない。だからといって、上品であるはずもない。学校に通っていない分、私が無教養であることに違いないのだ。彼にそのような印象を与えてしまったのであれば、それは恐らく、納屋暮らしの間に培われた私の卑屈な精神によるものだと思われた。

「成る程、厳しく躾けられていたのだな」

 合点がいったように小さく数回頷く。私が挙げたもっともらしい理由で、彼はようやく納得したらしい。

 ――あれも躾であったのだろうか。

 東京に来てからずっと思い出さないでいた、父から受けた暴力のことが、ふと頭に浮かぶ。

 打たれた頬、蹴り上げられた背や腹、骨まで食い破られるような痛み、私を見下ろす父の、僅かに悲しみが滲んだ憤怒の顔。当時の私を支配していたのは、諦念のみだった。「あれは躾だったのだ」と肯定するには、行き過ぎた折檻であったと思う。しかし父の心情を鑑みれば、あの行為を折檻であると言い切ってしまうのも(酷く今更のことではあったが)残酷なことである気もした。父は宿屋の当代として、当然のことをしたまでなのだから。

 気付けば唇を噛み締めていた。不自然に細い右足が、じくじくと疼く。せめてこの足さえまともに動いてくれたら、或いは父や家族に迷惑をかけることもなかったのだろう。

 だが、もしそうであれば、こうして柳と東京で暮らすこともなかったのだ。それを考えると、私はどうにも複雑な心持だった。

「では、読み書きはまるでできないのか?」

「……その、秦野さん、どうしてそのようなことを、ぼくにお尋ねになるのですか」

 私のことをあれこれと聞いて、一体何になるというのか。私には意図がまるで解からなかった。目の前にいるのは、何もできない、いや、環境に甘えて何もしようとしない、愚かしいほどに怠惰な人間だと、彼も既に承知しているだろうに。

「これは、俺の勘なのだが」

 彼の指先が、ハンチング帽の鍔に触れた。目深になるよう被り直してから、顎を手で撫でる。

 ややあって、帽子を浅く被り直した。口元には微笑が浮かんでいる。私が知っているニヒルなそれではなく、ひとの良さそうな笑みだ。

「きみならば、面白い文章を書く気がするのだ」

「……ぼくが?」

「ああ。最初は、先生の書生ならば良い作品を書くのだろうと、勝手に期待をしていただけだった。だがな、ジュリエッタで、俺と先生の話を聞くきみの……なんといったらいいか、鬱蒼とした森の中で迷った子供のような表情を目にしたら、まんざら勘違いでもない気がしたのでな」

 彼が口にした比喩に、心臓が大きく鳴った。森で迷う子――まるで『嵐中記』の主人公ではないか? 「死にたくない」そう叫ぶ、あの少年。

 秦野が『嵐中記』のことを知るはずがない。あれは、柳が私に直接くれたものなのだ。だから、これは偶然の一致にすぎなかった。

 そうと解っていても、動揺は抑えられない。

「最低限、読み書きさえできれば、これまでひとつの作品も残していなくとも、今後書くことができるだろう? だから訊いたのだ。そして、これも勘なのだが……恐らくきみは、読み書きができるだろう」

 私の胸中など知るはずもない秦野は、流行の推理小説に出てくる探偵のように、自身ありげにそう言ってのけた。

「その顔は当たりだな。やはり、俺は読みがいい」

 目が合うと、秦野はふふんと得意気に鼻を鳴らす。私はつい失笑した。彼の言動に、たった今まで過去についてぐずぐずと思い悩んでいた私の心が、ふっと軽くなったようだった。降参とばかりに、私は軽く両手を挙げた。

「秦野さんは、変わった方ですね」

「何、作家なんて、みんな変わり者ばかりさ」

「そんなことを言うと、柳先生や井上さんに叱られますよ。きっと」

「ああ、ふたりとも、自分が変わっているなんて、これっぽっちも思っちゃいないからな」

 冗談めかして、かつかつと笑う。私もつられて、声を出して笑った。無心に声を出して笑うことなど、もしかすると、この時が初めてだったかもしれない。

 ――あとになって思えば、秦野という男は何と裏表のない人間だったのだろう。それを無意識のうちに捉えていたからこそ、私は彼に対し心を開き、信頼することができたのかもしれない――

「それにしても……読み書きができるからといって、学のない私にいきなり文学をせよというのは、少し乱暴なのではありませんか?」

 笑いながら口にしたそれは、些細な問いかけのつもりだった。これまでの彼の発言を、揶揄したいわけではなかった。だが、結果的にはそうなってしまったのかもしれない。

 秦野の笑みが固まり、私は内心ぎくりとした。

 誰しも、他人に触れて欲しくないものがあるのだとは、当時の私も重々理解しているつもりでいた。私にとっては、宇都美の家でのこと。柳にとっては火傷のこと……。

 だから、秦野の表情が変わった瞬間、彼のそういった不可侵な部分に触れてしまったのだと気付き、すぐに自らの軽口を酷く後悔した。

「俺は何も、きみに文学者になれと言っているわけではないぞ、順二郎くん。それに、小説を書くことができるのは、高等教育を受けた奴らだけの特権という考えは間違いだ。ああいった者にかぎって自ら文士などと名乗り、夜毎集まっては洋酒を飲み交わし、より芸術的な文学について、高尚な論理ばかりを並べ立てている。……俺はああいったインテリ連中とは違う」

 口早に並べたてられる言葉の中に、少なからず侮蔑の念が感じられたのは、私の思い過ごしではなかっただろう。

『インテリ連中』が誰を指しているのか、私には皆目見当もつかない。しかしその怒りの鉾先がいつこちらに向くのかと恐ろしく、慌てて彼に何度も頭を下げた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ぼく、秦野さんに失礼なことを言ってしまったのですね」

 いつだってこうだった。相手の怒りを目の当たりにするまで、自身の過ちに気付けない。その様の、何と愚かしく、幼稚なことか。そんな惨めな気持ちに、杖をきつく握って耐える。硬い節が、手のひらの肉に食い込んだ。皮膚越しに骨と擦れ合い、ごり、と嫌な音が鳴る。

「あ、いや……謝るのは俺の方だ、すまない。顔を上げてくれないか。きみは何も悪くない」

 彼は歩み寄るなり、俯く私の肩を叩いた。

「……今のは、きみに対してというよりは、自分に対しての言葉なのだ。柳先生の前でも、時々同じようなことを口にしてしまって、怒りを買うのだよ」

 顔を上げると、決まりの悪そうな苦笑いが目に入る。

「そう、なのですか」

 そのぎこちなくも和らいだ表情に、私は心底安堵した。秦野もまた柳のように、癇癪を起こしてしまうのではないかと思っていたからだ。

「それでは……秦野さんは、ぼくのような者でも、小説を書けるとお思いなのですね?」

 頭の中で彼の話を反芻し、暫し思案してから尋ねる。

「そうだ」

 秦野は頷き、私の隣に腰を下ろした。椅子の上に垂れた着物の端に、彼の手が触れる。はっとして、思わず着物を引いた。秦野はといえば、私の着物に触れたことも、着物の端が引き去られたことも、特に気に止めていないようだった。

「小説というものは、学のある者だけによって牛耳られていてはいけない。学のない大衆をも楽しませ、愛され、親しみやすいものであるべきだと思うのだ。今は随分、大衆文芸も広まってきたが、それでもまだまだ不十分だと、俺は考えている。そのためには、お高く止まった学者気取りの作家には絶対に真似のできない、それこそ大衆自体の目線を大いに組み込んだ作品を、世に多く出していかなければならない。

 だからこうして、素質がありそうな者を見つけては、何か書かないかと誘って回っているのだ」

 時折、ハンチングの鍔を指先で弄ぶ。その頬はやや紅潮していて、口振りもどこか興奮した様子だった。熱を帯びた彼の語り口に、私はすっかり魅入られていた。一途な情熱を、私は秦野の中に感じた。柳と過ごす穏やかな日々の中には、なかったものだった。

 柳は私に感情をぶつけることはあるが、そこに私が積極的に触れることは憚られていた。柳自身が、それらを私に見せまいとしていることに、気付いてしまっていたからだ。

 だが、秦野は違う。彼は何も隠さない。自身の不可侵な領域も、喜怒哀楽、すべての感情すら、出会ってまだ間もない私に対しても、惜しみなく見せた。私はそのことに、いたく感動したのだ。そしてその初めての感動は、私に秦野という人物に対しての、一時的な陶酔をもたらした。

「小説を書くことがお好きなのですね」

 うっとりとした心地だった。もしかすると、頬に薄らと朱すら差していたかもしれない。

「ああ。こうやって、好きな小説を書いて飯が食えることが、俺は幸福で堪らないのだ。先の地震で、世話になっていた出版社がやられてしまったのを聞いた時には、もう駄目かと思ったが。それでも柳先生の尽力で、大阪の出版社を紹介して貰って、しばらくあちらに住まいを移して書いていたのだ。先生は、本当に優しいひとだ。きみも先生の書生なら、よく知っているだろう」

『先生の書生』という、その一言が、私の熱に水を差す。この時ばかりは、柳の書生であるという現実は、頭の片隅に追いやっていたかったのだ。そのことを考え始めてしまえば、私はまた、自分が役立たずの穀潰しだという罪悪感に苛まれながら、鬱屈した思想に取り付かれてしまうからだ。

 今だけは、そういったものから解放されたかった。

 私はわざと彼を見つめて、じっと悲しげに顔を歪めてみせた。

 この時の浅ましい表情、そしてそれを操る心も、酷く醜悪なものに成り下がっていたに違いない。私は長い人生の中で唯一この時だけ、柳肇というひとのことを、一時の気の迷いとはいえ、疎ましく思ったのだった。

 私の明らさまな表情に、流石の秦野も気付いたようだった。私が晒す醜態に、彼は一言の苦言も呈さず、ただ困ったように小さく笑った。

「……ひとつ、昔話をしよう」

 それを肯定とすり替えた私は、まんまと柳のことを忘れ、彼の語りに没入することができた。

 

 

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