その柳の下に[一章]

 

 柳が去った日の晩、久方ぶりに、父が納屋を訪れた。

 勢いよく戸を開けるなり、早足に歩み寄って来ると、父は無言で私の頬を殴った。衝撃で私が倒れ込まないよう、胸ぐらを戦慄く指先で掴み、何度も繰り返し平手を打ち付けた。

 すぐに両頬は腫れあがった。口の中も切れてしまったようで、私は自分の血の味というものを、この時初めて味わった。(じんわりと舌の上に広がる、鈍くぼやけたそれは、朽ちた金属のにおいを嗅いだ際に舌先を掠めるものとよく似ていた)

「役に立たないだけでなく、よりによって色目をつかって客をたぶらかすなど、お前は一体どういうつもりだ」

 父はこめかみに青筋をたて、目を吊り上げ、私にがなった。無意識に、ひい、と掠れた悲鳴が漏れた。

「ぼ、ぼくは、何も」

 叱責の理由がまるで解からず、恐怖に震えながら小さく左右に首を振る。

「何も知らんとは言わせんぞ。お前が外で客と寄り添って歩くのを、近所の連中が見ておるのだからな。どんな申し開きも今更通用するものか。うちがお前に客取りをさせとるともっぱらの噂になっているのだぞ。宇都美屋も落ちたものだと、みんな鼻で笑っておるわ」

 目の前が、白黒と忙しなく明滅する。父が言わんとしていることを、私はようやくながら察した。

 柳と外を散歩した時、足の悪い私に柳が手を貸してくれたのを、見ていた誰かがそんな風に揶揄したのだろう。さほど広くない街だ。代々この場所に暮らしている者が殆どであるため、噂はその良し悪しに拘わらず、瞬く間にひとからひとへと伝わる。今回のことも、その末に家族の耳に入ったのだろう。

 私は、世間というものを知らなすぎた。子供だったのだ。柳と過ごす時間は、私だけの特別なものであると錯覚していた。故に、まさかそれを他者が訝しげな目で見ているなどと、想像だにしなかったのである。

「違います、違うのです父さま」

 必死に否定を繰り返しながらも、既に弁解の余地などないことは、父の様子からは勘付きはしていた。確かに私は、事実として、柳に手を引かれて歩いていたのだから。それに、客を取るという噂に根拠がないことは、宿の主である父自身が、一番よく知っている。

 父は着物が汚れることも厭わず、土間の上に力なくへたりこんだ。両手で顔を覆い、大きく溜息を漏らす。その身体が普段より、ひとまわりもふたまわりも小さく映った。消沈した父の姿に、私は動揺を隠せなかった。何せ、記憶の中の父は、いつも烈火の如く怒っており、このように力を落とした姿を目にしたことなど、一度もなかったのだ。犯した罪の重大さは、もはや私の目にも明らかだった。

「生かしておくのではなかったわ。産まれてすぐに殺しておけば、こんなことには……。お前はとんだ疫病神だ。これまで生かしてやった恩も忘れたか。これでは、代々宿を守ってきた先祖に顔向けできん。宇都美屋は終わりだ。すべて、すべてお前のせいで――」

 結局、宿の泊まり客である柳が常に私の傍にいたために、誰も私に対して口出しをできなかっただけのことだったのだ。決して父の考えが軟化したわけではなかった。私には納屋の外へ出ることはおろか、生きていることすらも、やはり許されてなどいなかったのである。

 そんなことは、私とて、頭のどこかで理解をしていたはずなのだ。だからこそ私は何度も「死にたい」と思ったのではなかったか? それなのに、柳の優しさに甘えることを覚えた私は、愚かで、取り返しのつかない思い違いをしてしまったのだ。

 夜も更け、ようやく父が去ったあとの納屋の布団の中で、私は骨まで蝕む痛みに必死に堪えていた。

「死んでしまいたい」

 口走り、そして考える。

 ――死ぬとは、どういうことだろう。この命がなくなるとは、一体どんな感覚なのだろう。死とは冷たいものか。それとも熱いのか。死ねば私というものは、どうなってしまうのか――

 解からない。難語が解せなかったように、火傷を知らなかったように、私は死というものに、少しの理解もなかった。それにも拘らず、再び死を望んでいる。これを少しも歯がゆいとは思わない。だが、かわりに恐ろしいと感じた。その恐怖が、何によってもたらされているものかは判らない。それでも、死というものが、ただただ恐ろしく思われたのだ。

 もしも柳が、私に死に方、そして死というものを教え説いてくれていたならば、この得体の知れぬ恐怖を、私は克服することができたのだろうか。或いは柳が東京に戻らず宿に留まっていたとしたら、私が再び死を願うこともなかったのかもしれない。

「柳先生……先生……」

 か細い呼び声は、夜の闇に溶けていくばかりで、誰の耳にも届きはしない。暗い納屋にひとりぼっちの私は、柳が残していった『嵐中記』の主人公のように「死にたくない」などとは叫べなかった。また以前のように孤独な生活を送るのであれば、死んだ方が幾分もましだった。

 柳が帰京した夜以降、父は毎晩のように私を折檻した。怨み言を吐きながら、土間に私を突き落し、背中や腹を蹴る。それなのに、どうして、私は死ねなかったのか。何の役にも立たないひ弱な身体は、肝心な時に限って悲しいほどに頑丈だった。吐き出す唾に血が混じっても、眠れぬほどに身体中が痛んでも、不思議なことに私は死ぬことができず、痣だらけの身体を抱えながら、父をはじめとする家族に対する心苦しさに苛まれる日々が続いた。

 

 折檻が始まってから、十日目か、二十日目か。それとももっと経っていたかもしれない。――気を失うように眠り、殴られては目を覚ます生活の中では、時間に対する感覚が酷く曖昧になってしまって、記憶も明瞭ではない。それでも、この日はとても暖かい日だったように思い出される――私を目覚めさせたのは、突然の暴力ではなく、背中を撫でられる感触だった。

 接触に対し、身体が反射的に強ばり、丸まった。殴られて舌を噛まぬよう、歯を食いしばる。しかし、一向に拳が振り下ろされる気配はない。

「ああ、順二郎くん。辛かっただろう、痛かっただろう。酷い痣だ。それに、随分痩せてしまって」

 降り注いできたのは、父の怒声ではなかった。

「柳……先生……?」

 聞き覚えのある声に、身体から要らぬ力が抜けていった。腕で体重を支え、上半身を起こそうとすると、みぞおちのあたりに鈍痛が走り、顔をしかめる。それでも身を捩って、声の主を確かめずにはいられなかった。

「先生、先生」

「ああ、私だよ」

 縋るような呼びかけに、短い、しかし充分な返事。

 痩せた頬、小さな鼻、僅かに生やされた髭、細められた目には、懐かしい優しさが滲む。そこにいたのは間違いなく、私が敬愛する、柳肇そのひとだった。

 宿に逗留していた頃に比べ、髪は綺麗に撫でつけてあり、身に纏っているのも着物でなく、洋装だ。濃い鼠色の背広の上下、白いシャツ、紺のネクタイ……。それらによって、彼の雰囲気は私が知っているものより幾分か違っていたが、しかし、その顔形は、全く別れたあの日と何ら変わりない。

「無理に起きなくてもいいのだよ。寝ていなさい。……すまないね、東京に戻ったらまたすぐここへ来るつもりだったのだが、あれこれ整えるのに、思ったより時間がかかってしまった」

 柳は私の身体を横たえると、胸の上に布団を掛けてくれた。目覚めたばかりだからか、それとも、毎晩殴られていたため意識が朦朧としていたのか、私には、その時の彼の言葉を噛み砕く力もなかった。

 何故ここへ来たのか。一体何を整えたのか。そんな簡単な疑問を呈することもできず、私はただ、自分の中にあった唯一の気掛かりを口にした。

「先生、小説を、お忘れでした」

「嵐中記だね。きみはあれを読んだかい」

「あ……、ごめんなさい」

「謝らずともいいのだ。あれは私が、きみのために書いたのだからね」

「ぼくのために?」

 森の神の試練を乗り越える少年の姿が、死を否定するあの言葉が、すべて私に向けて書かれたものであることに、私は驚きを隠せなかった。

「そう。気に入ってくれているといいのだが」

「……頂けません」

「どうしてだい」

 拒否の言葉を責められもせず、優しく問われることが、もはや私には心苦しく思われた。

「ぼくが生きていては、迷惑になってしまうのです。先生も、ぼくのところにいれば、悪く言われてしまいます。だから、ぼくはこのまま、ここで死のうと思うのです。だから、あの小説を、頂くことはできません。これから死のうというぼくには、あの小説は、とても辛いのです。

 先生は、ぼくに死に方を教えてはくれませんでした。だからいまだ死に方は分かりません。けれどもしかすると、このままものを食べなければ、そのうちに死ねるのではないかと思うのです」

 瞬間、彼が僅かに眉をしかめた。

「……私はきみに、生き方を教えると言った。きみに何かあれば、私が助けるともね。だから私は、再びきみのもとへ来たのだ。順二郎くん、もう悩まずともいいんだ」

 柳の静かな声色が、耳朶をすり抜ける。

 死ぬ。生きる。死ぬ。生きる。

 私の頭の中で、その、たった二語、しかし極めて重要な二語が、ぐるりぐるり、円を描くように回っていた。言葉の合間を縫うように、身体のあちこちが痛んだ。

 酷い目眩がした。柳の顔が、白く霞む。胸の奥底から込み上げてくるのは、重量感のある熱。この正体について思考する余裕など、私には残ってなかった。

「もう誰も困らせたくはないのです。ぼくさえいなくなれば」

 まともに回らなくなった舌で、確かそう呟いたと思う。

「きみがいなくなれば――」

 柳の手が、私の手を包んだ。初めて会った日と、何ら変わりない温もりだ。それは祖母から感じた温かさに似ていながら、しかしはっきりと違う。

「――私が困るのだよ。だから、死ぬなどと、二度と口に出してはいけない」

 靄に包まれた意識は、心地よい温もりの中へと沈んだ。

 

 夢を見ていたのだろう。周囲は真っ暗で、誰の姿も、自分自身すらも見えない。けれど、不思議とその会話だけは、鮮明に耳に残っている。

「こちらには、長らくお世話になりまして、大変感謝しております」

 穏やかな口調。柳の声。

「あ、ああ、柳先生……礼など、とんでもない。こちらこそ、先生のような高名な方をお世話させて頂いたことは、当宿末代までの誉れにございます」

 狼狽えた様子の低い声は、父だ。

「実は本日改めてこちらを伺ったのにはわけがありまして。ひとつ、お願いをきいて頂きたいのです」

「はあ、なんでございましょう」

「結論から申しましょう。こちらの順二郎くんを、是非うちの書生としたいのです」

「順二郎を、ですって?」

 上ずった甲高い声は、母のものに似ていた気がする。

「ですが、その、順二郎は身体があまり丈夫ではありません。そのため、家業の手伝いすらできない有様でして……ですから、先生のところでお役に立てるとは、とても思えませぬ」

「私はみなさんご存知の通り、作家ですから、手伝いには力も要りませんし、無理をさせるつもりもありません。彼はいつも離れに閉じこもってばかりのようですから、このままでは余計に身体も衰えてしまいましょう。僅かでも身体を動かすほうが、彼にとっても良いことだと思うのです。……こちらを」

「これは」

「仕度を整えるのに、お使い頂ければと」

 そこで会話は途切れた。音のない、闇の世界だけが続く。

 次に目を覚ました時、私の身体は、納屋の冷たい布団の上ではなく、かたことと揺れる列車の中にあった。

 

 列車の中で、柳はずっと押し黙っていた。私はといえば、列車の揺れにあわせてじくじくと痛む身体をさすりながらも、ぼうっと痺れたような頭で、夢と現の間を行ったり来たりするばかりで、周囲の様子を伺うこともできずにいた。

 途中、大宮という駅で列車を乗り換え、上野という駅で下車をしたが、その間にどれほどの時間を要したかは判らない。ただ、駅を出た時、あたりはすっかり暗く、あちらこちらの店先には、既にぽつぽつと灯りが点っていた。

 駅からはタクシーに乗った。タクシーどころか、自動車というものを目にすることすら、初めての経験だ。その後部座席に乗せられてもなお、私は夢見心地だった。

 車を降りたのは、塀に囲まれた一軒の洋館の前。周囲に建物はあるようだったが、駅周辺のように明かりはなく、もの寂しい。

 門のすぐ内側には、一本の大きな柳の木。地面に向かって垂れる細い枝々が描き出す漆黒の陰影は、まだ幼かった私には、非常に気味悪く思えたのだった。

「ここは」

「私の家だ」

「先生の家? では、ここは東京なのですか? どうして?」

 しきりに首を捻る私の肩に、彼はそっと手を置いた。

「いいかい、順二郎。きみは今日から、私の書生として、ここで一緒に暮らすのだよ。

 ……ところでどうだい。柳の家の前に柳の木など、笑い話にもならないと思わないかい?」

 東京。書生。それらはあまりに唐突な話だった。だが、状況を飲み込む間もなく繰り出された柳の冗談に、私は思わず吹き出してしまった。

 家のことが気掛かりでなかったといえば、嘘になる。彼が私を書生とした真意も、計りかねた。けれども私の中に、初めて生家を離れた不安などはもはやなく、むしろ柳と暮らすことへの期待と安心感が大きかった。納屋で過ごした間に私を苛み続けてきた死への脅迫観念は、生家を遠く離れることで、ようやくその姿を潜めようとしていた。

 

 大正十三年、冬。私はこうして、以後数年間にわたる、長いようで短く、そして安寧と苦悩が入り混じる、柳との同居生活を始めたのだった。

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