その柳の下に[一章]

 

 あくる日の朝、男は再び私のもとを訪れた。

 私がまだ寝床の中でうとうととしていると、戸が勢いよく開いた。家族の誰かだと思い、慌てて飛び起きる。そんな私を見て、入口で彼がからからと愉快そうに笑った。彼の吐く息が、真っ白な雲のように広がっては消えていく。

「やあ、おはよう。まだ眠っていたかい」

「おはようございます」

 挨拶を返してから、私は、くん、と鼻を鳴らした。納屋中に味噌の匂いが漂っていたからだ。男は盆を持っていた。その上には茶碗と汁椀、そして小鉢が載っている。

「今そこできみのお兄さんに会ってね。きみのところへ食事を運ぶというから、恐れながら私がその大役を引き継いだのだよ」

 彼はふふんと自慢気に、そう口にした。

「えっ、ぼくと会うことを、教えてしまったの」

 祖母の腫れた顔が思い出され、私の顔は恐怖に引き攣り、身がすくんだ。

 私の横に、盆が置かれた。箸が転がり、ことことと鳴る。

「安心おし。お兄さんには、充分に言い聞かせてあるからね。それに、もし何かあっても、私が必ず、きみを助けてあげる。だからきみは、少しも心配しなくていい」

 彼は、前日にそうしたように、また私の頭を撫でた。

 きっと私はこの時から、祖母にはなかった不可思議な魅力を、男の言動に感じていたのだと思う。そうでなければ、世間から隔離された生活を送っていたとはいえ、初対面の男が吐くまるで具体性のない甘言を、何ひとつ疑うことなく、どうして信じることができただろう。彼は、私が理由もなく心を差し出したくなるような、そんな奇妙な雰囲気を纏っていたのである。

「さあ、部屋から私の膳も運んでくるとしよう。少し待っておいで。ここで一緒に食事をしようじゃあないか」

 男が踵を返し、背を向けた途端、私の口から「あ」とひとつ声がこぼれる。同時に彼へと手を伸ばし、綿入れの端を、まるで赤子が母親を求めるように、むんずと掴んでいた。

 男が振り返る。

「どうかしたのかい」

 尋ねられたが「あ、あ」と、口からは言葉にもならない声が出るだけだ。

「宇都美、順二郎くん」

 彼がくすりと笑う。私は目を丸くした。

「どうして」

「さあ、どうしてだろう?」

 はぐらかされ、ますます疑問が深まっていく。

 彼が口にしたその名は、他でもない、私自身のものである。しかし名を告げた覚えはない。だから私は『彼はもしかすると、ひとの心を読む術を備えていて、それによって私のすべてを、既に把握しているのではないか』などと推理した。ところが、その考えすらお見通しとばかりに「私は奇術師などではないからね」彼は目を細めた。

「私がきみの名前を知っていたことを、きみは奇妙だと思うだろう。けれど、それはとてもよいことなのだよ。疑問は、つまるところ、好奇心だ。対象に興味があるからこそ、ひとはそこにあらゆる疑問を持つ。そして好奇心を持つということこそ、私がきみに教える『生き方』の、最初のひとつだ。……さあ、これできみは、突然押しかけてきた、見ず知らずのこの私という人間に、ようやく大いなる興味を向けてくれたのではないかね?」

 両端が吊り上げられた彼の口元は、どこか満足そうだ。ゆっくりと、しかし予め作られていた科白の如き堂々とした口ぶりに、私はすっかり魅了されていた。

 彼の口調は、私がまだ母屋で暮らしていた頃、祖母に連れられて行った神社の縁日で聞いた、屋台の店主の客寄せ口上を思い起こさせた。祭りの賑わいの中で、人々の熱気に揉まれた当時の情景を思い浮かべると、時間を越えてなお、私の胸に高揚感が沸き上がり、身体が宙に浮いたような感覚に陥る。それは、どこか予感めいた心身の昂ぶりだった。

「あなたは一体、何者なのですか?」

 彼の綿入れから手を離す。そして私は初めて、彼に問うた。彼は二度、頷いた後、

「私が何者なのか。それに答えるのは、食事を済ませてからにしよう。順二郎くんもよく知っていると思うが、ここの宿の味噌汁には、山菜が入っているのだよ。そしてそれはどうやら、温かいうちのほうが旨いらしい」

 茶化すように言って、彼は今度こそ、納屋を出て行った。

 

 うちは宿を営んでいるため、家族全員が食卓に揃うということは殆どなかった。加えて、各人が食事にかける時間は極めて短く、食事中に口を開くようなことはない。(その中で、家業に携われない私は、急いてものを喉に詰まらせることのないよう、ゆっくりと時間をかけて食事をしていたため、肩身がさらに狭かった)暮らしを納屋に移して以降は、与えられるから食べるだけという、極めて受動的な行為に成り下がっていたように思う。

 だから、彼が飯をひと口食べては私に話しかけ、味噌汁をひと啜りしてはにこやかに笑う、その挙動ひとつひとつが、無性に気になってしかたがなく、とうとう私は彼に「食事中は、喋ってもよいものでしょうか」と尋ねてしまった。

「ふむ、本当はいけないのかもしれないね。しかしね、さっきも言ったが、ここの味噌汁は本当に旨いのだよ。米も、この近くで収穫されたものだそうだね。水が良いのか、土の違いか、気候によるものか。私には見当も付かないことだが、とにかくこれまで東京で食べてきたものより、味が優れているようだ。

 旨いものは、心を豊かにする。歯触りや、舌に広がる様々な味は、我々の感覚を研ぎ澄ましてくれるのだ。鋭敏な五感を存分に堪能することができるのは、食事をしているこの時のみだと思うと、どうにも黙っていられなくてね。きっと私の性分なのだろう。

 ああ、折角だし、きみにも解かるように説明しようか。例えば、順二郎くん、この味噌汁に入っている山菜だ。それをひとつ、かじってごらん。そして、どんな感じがするか、私に教えてくれないかい?」

 彼は、悪びれる様子もなく、逆に私に問いかけた。

 言われるままに、椀の中から山菜を摘み上げ、口に入れる。

 それは、春のうちに収穫され、保存のために天日で干された蕨だ。舌の上では柔らかく、ふっくらとしているが、噛みしめれば繊維質の歯触りがある。噛み潰したそこから、蕨に浸透した味噌の味、そして山菜独特の灰汁っぽさが、僅かにじんわりと浸み出す。

 感じたままを彼に伝えようとするが、適当な言葉が口からは出てこない。当時身につけていた語彙の範囲では、私が感じたことを言い表すには事足りなかったのだ。

 困った顔をしていると、彼が「難しいかい」と訊いてくる。私は正直に頷いた。

「口にすることはできずとも、きみは今、このひとつの山菜から、多くのことを感じたはずだ。普段の食事では、きっと気にも留めなかったことだろう。これに気付けたことだけでも大変な幸福だと私は思うのだが、きみはどうだい」

「……解かりません」

 この感覚が幸福なものだとは、私には到底思えなかった。食事はこれまで、私に苦痛しか与えてこなかったからだ。

「ですが、歯がゆいです」

「ほう、歯がゆいとは」

「言葉が出ないことが、歯がゆいのです。蕨をかじっても、いろいろな味を感じても、どうそれを伝えていいか、解からないのです。それだけではなくて、ぼくは本を読んでいても、解からないことがあると、同じように思うのです」

「ふむ」

 私が告げると、彼は急に渋い顔を浮かべた。そしてぐっと押し黙ると、残りの飯と味噌汁をあっさりと平らげ、箸を置いた。私も口を噤んだまま、箸を進めた。味噌汁を啜る。蕨を噛む。僅かしか残っていないはずのえぐみばかりが、やたらと舌に残った。

 沈黙は、私が食事を終えるまで続いた。彼の態度の急変ぶりから、半端に終わった話題に再び触れようなどとは、もはや思えなかった。

「……あの、火傷というものは、どういうものなのでしょう」

 箸を置いてから、私は切り出した。彼ならば私の疑問に対する答えを持っているだろうと踏んだのだ。

「火傷」

「はい。大地震で火事になって、多くのひとが火傷をしたのだと聞きました。肌を火で焼かれるとなるのだとか。ぼくの持っている本を読んでも、解からなかったので」

 畳の上に積んだ十冊の本に視線をやる。祖母から与えられた文学作品だ。

 古代ギリシヤを舞台にしたものであったり、旧い日本を描いていたり、近代であったり、様々な時代や見たことも聞いたこともない場所で繰り広げられる物語は、私に多くの知識を植え付けてはいた。だが、読めない字や、理解ができない言葉もまた多かった。

「君は……」

 男の口から漏れたのは、生気のない声だった。

「解らないことは、何でも知りたいと思う質なのだね」

「えっ?」

 彼の、影が差したような暗い表情を見て、私はようやく、何かまずいことを訊いてしまったのではないかということに気が付いた。

「あの、ごめんなさい」

 咄嗟に謝罪を口にすると、彼は口元に僅かながらの微笑を取り戻した。

「いや……謝るのは私だ。すまない。おかしなことを言ってしまった。知識欲も、生きる上では大切なことだ。きみは、死にたいとこぼしていたが、それにしては旺盛な好奇心を既に持っていたらしい」

 語りかけてくる彼の言葉は、私に向けられているというよりは、どこか独り言じみたものだった。そうして彼は、どことも言えぬ場所に視線をやって、乾いた笑いをこぼした。その様は、幼い私にとっては、少し不気味に感じられた。

「私はきみに『生き方』を教える。昨日も言ったが、それは、きみに死んで欲しくないからだ。ひとが死なないためには、多くのことを知らねばならぬ。自ら死を選ぶのは諦めた者だけだ」

 ぼそぼそとした呟きに、ひと言も返せないでいると、つい今までの陰鬱さを一体どこへやったのか、

「どれ、ではきみに火傷というものを教えてあげよう」

 彼は急に明るい調子になった。

 そそくさと綿入れを脱ぎ、畳の上に置く。そして、紺絣の着物の右袖を、肩のあたりまで捲ってみせる。

 二転三転する彼の表情に呆気に取られつつも、彼の身体を目にした途端、そんなことなど、すぐに頭の片隅へと追いやられた。

 露になった彼の左肩から肘のあたりまでの皮膚が、長く幅広の棒でも埋め込まれたように、一本の線状に隆起していたのだ。その部分は、表皮よりも生々しい肉色をし、酷く張りつめていた。

 今にも破裂してしまいそうなそれが心底恐ろしく、私は震えあがった。

「これが……?」

 彼がひとつ頷く。

「あの、痛くはないのですか?」

「引きつるような感じはあるがね。もう痛みはないよ。触れてみる?」

 その誘いに、慌てて首を左右に振る。

「どうして火傷を」

「私も先の大地震で火にまかれたのだよ。家も殆ど焼けてね。燃えた柱が倒れてきてしまって……いやあ、参ったよ」

 苦笑した肩がすくめられた。袖をなおし、再び綿入れを羽織る。よほど寒かったのか、彼はぶるりと身体を大げさに震わせてみせた。

「それで、家を建て直している間、療養も兼ねて、ここに逗留しているというわけだ。とはいっても、なかなかゆっくりもしていられないのだが」

 彼は、ふたり分の食器を、種類ごとに重ねていく。陶製のそれらが、触れ合う度に乾いた音をたてた。

「なぜですか?」

「年が明けたら、すぐに仕事をしなくてはいけないのだよ。来月末には原稿を取りにくると、つい先日、編集者から手紙が届いてね。ろくに見舞いにも来なかったというのに、催促だけは忘れないのだから、たまったものじゃないよ」

 私は首を捻った。

「原稿? 編集者?」

「雑誌にね、小説を連載しているのだよ」

「作家先生なのですか」

 目を見張る私の表情を窺いながら、彼はにんまりと笑った。青白く痩せた頬が、この時ばかりは赤々として血色が良く見えた。

「名前を聞けば、きっときみは、もっと驚くことだろう。……さて、ようやく、きみの最初の疑問に答えられるね」

 息を飲んで、私は彼を見つめた。初めて得られる回答を前にして膨らんだ期待が、心臓を急かしていた。

「………私の正体は、作家の、ヤナギハジメだ」

「柳、肇」

 膨張を極めた期待は、音もなく破裂した。真っ新になった頭の中に、ふたつの字がはっきりと浮かび上がる。改めて尋ねずとも、彼の発した音にこの二字が充てられることは明白だった。

 彼が告げたのは、祖母と別れてから二年間、私が唯一心の拠り所としていた十冊の本――その著者の名だったのだから。

 

 年が明けてからも、柳は一年近く宿に滞在していた。

 その間、彼は毎日私と食事をし、納屋に持ち込んだ文机の上で小説を書いたり、また逆に、彼が泊まる客室に私を招き、隣に座らせて執筆をしたりすることもあった。

 初め、私は納屋から出ることを拒否した。だが、柳に「閂がされているわけでもなし」と手を引かれると、暗いこの納屋で二年の間に培われた卑屈さは、蒸かした芋の皮でも剥くように、あっけなく剥がれ落ちた。そうしてそこから年相応の童心が顔を出し、それが私を、ついに納屋の外へと導くに至ったのだ。

 納屋から彼の部屋に辿り着く間に、親兄弟に出くわすこともあった。しかし、彼らは皆、外を歩き回る私を目にしても、何も口出しをしてこなかった。酷く叱られるであろうと思い込んでいた私が、そのことに驚いていると、柳はこう耳打ちした。

「ほら、ご覧。きみは外に出ることができるんだ。きみさえ望むなら、いつだってね」

 彼の言葉を、私はすっかり鵜呑みにした。肝心の、納屋で暮らすことになった経緯や理由などは、頭の中からすっかり消し去ってしまっていた。ようやく生きることを許されたのだと思ったのだ。この時、無上の喜びの中に、私は立っていたのだった。

 小説を書かない日、柳は私を散歩へと連れ出した。何軒もの宿屋が建ち並ぶ通りをぶらぶらと歩き、時には街外れの神社にまで足を伸ばすこともあった。足が悪いためうまく歩くことができない私の歩みに、彼は不満を漏らすどころか、歩調を合わせ、さらには手まで引いてくれた。

 私が歩みの遅さを詫びると「丁度のんびり歩きたいと思っていたのだ」と決まって微笑で返される。そんな気遣いを受ける度に、感謝と申し訳なさ、そして安堵が溢れ、彼に対する親しみは増していく一方だった。

 柳は作家ということもあってか、その知識の豊かさには目を見張るものがあった。道端に生える木や花の名前も、知らぬものがないほどだ。また子供好みの奇怪な民話などを、次から次に語り聞かせてくれ、私もそれらに熱心に耳を傾けた。

 自分の知識を披露する彼の表情は穏やかで、それを目にする私までもが安らかな気持ちになったものだ。

 しかし、反対にこんなこともあった。柳が以前話していた雑誌の編集者に、たまたま私が出くわし時のことである。

 柳は私をなるだけ編集者に会わせないようにしていたのか、編集者が来る際には、ひとりで部屋に篭っているのが常だった。しかしこの日だけはどうしたことか、私が柳の部屋にいる時間に、編集者の男が現れたのだ。

 柳は渋々といった様子で、鉢合わせになった編集者を私に紹介した。

 男は西山と名乗った。背が高く、目鼻立ちのはっきりした容貌に、鼠色の背広がよく似合う、真面目そうな男だ。随分と若い印象があり、年齢を確認したわけではないが、外見からは柳よりもかなり歳下であるように感じられた。

 催促された原稿は、まだ完成していなかった。どうやら、柳が締切の日付を勘違いしていたらしい。

「あとで送る」と背を丸めて文机に向かう柳。対して西山は「頂くまで帰りません」と硬い表情を崩さないまま、そこを動こうとしない。そんなふたりの間に挟まれ、どうしたものかと悩んだ私は、柳の気を散らしてはならぬと、西山を外へと連れ出すことを思い立った。

 そのことを告げると、柳は酷く嫌そうな顔をした。そして癇癪を起こしたように一気に怒りを噴出させ、聞き取れないほどの早口で西山を責めたてたのである。普段青白い顔も、耳まで紅潮していた。

 私は一体何が起こったのか理解できず、般若の形相で捲し立てる柳の姿に震えあがった。しかし西山は表情を崩さず、畳の上に座したまま、真っ白な原稿用紙や座布団をいくらぶつけられようが、そこから動こうとしない。

 そのうちに柳の方が疲れ果ててしまったのか、

「私はよそで書く」

 鼻息荒く、彼は文机と原稿用紙を抱えた。私もペンとインキ壷を持たされ、半ば押し出されるように部屋を出た。

「あの、西山さんを残してきて、よかったのですか」

 納屋の畳の上に文机を置き、一息ついたところで、私は恐る恐る尋ねてみた。

「順二郎くん、きみは……きみは私よりも、西山くんを気にかけるのかい。私はね、私は……ああ、順二郎くん、順二郎――」

 すっかり怒りの収まったとみえる顔には、今度は涙が伝っていた。彼はうわごとのように呟いて、私を懐に引き寄せると、きつく抱き締めた。私はされるがまま身を任せるしかなかった。

 どれほどの時間そうしていたかは分からない。やがて何事もなかったかのように、彼は何の名残惜しみもなく私から身を離した。そして一言も発しないまま、私に背を向けて文机の前に座った。執筆にかかった彼を、私はただじっと見守った。

 食事もとらずにペンを走らせ続け、夜更けになってようやく原稿は完成した。それを携え、私は柳とともに部屋に戻った。西山は、言葉通りまだ座って待っていた。散乱していたはずの座布団と原稿用紙だけが、文机が置かれていた場所に丁寧に重ねて片付けられていたのだった。

 柳と過ごした一年ほどの間に起こったそれらの出来事から、私は、彼の精神はどうやら不安定であるらしいと、否応でも気付かされることとなったのである。

 

 柳と過ごす時間が終わりを迎えたのは、大正十三年十一月。長らく建て替え工事をしていた彼の屋敷が、ようやく完成したのだ。

 翌日東京に発つとの旨を聞かされた私は、身を引き裂かれるような苦しみに襲われた。柳の前にも拘わらず、すぐさま布団にくるまり、わあわあと泣き喚いた。

 大声を出さずにはいられなかった。声と共に、この悲しみをすべて吐き出してしまいたかった。祖母が私の前から去っていった夜よりも、胸の奥が切なかった。手も、足も、頭も、腹の中までもが、きりきりと締め上げられるように痛んだ。

 柳は、取り乱す私の背中を、布団の上から撫でてくれた。しかしその感触は心を落ち着かせるどころか、余計に悲しみを掻き立てていくばかりで、私はさらに激しく泣いた。

 そのうちに泣き疲れて、どうやら眠ってしまったらしい。私が目を覚ますと、外は既に明るかった。隣に柳の姿はなく、代わりに、枕元に原稿用紙の束が置かれていた。

 薄褐色の罫線で区切られた、幾つもの小さな白い箱の中には、ぽつぽつと文字が納まっている。セピヤ色のインキで書かれたそれには、見覚えがあった。

 原稿用紙を数えてみると全部で四十枚ほど。少し目を通してみると、そこには、やや子供向けと思われる小説が書き下ろされていた。(祖母から与えられた小説の文章より、うんと易しい言葉でもって、それは記されていた)

『嵐中記』

 一枚目にはそうある。これが題名なのであろう。

 祖母が私に十冊の本を残したように、柳もまた、この一編の小説を置いて、私の元から去っていったのである。

 鋭い痛みを伴う孤独感が、私に原稿用紙の束を捲らせた。

 そこに記されていたのは、幻想的な冒険小説だ。

 ――好奇心から、集落の端にある鎮守の森に踏み行った少年が、そこで嵐にあい、道に迷ってしまった。嵐が過ぎ去るのを岩影で待つが、一向に風が吹き止む様子はない。さては、これは森の神の罰であろうか。このまま死にたくないというその一心で嵐に立ち向かい、少年は森を進んでいく。そこに次から次へと、人知を超えた試練が襲いかかる――物語は未完であった。雑誌用に書きかけた原稿を、柳が忘れていったのかもしれない。私は枕元の十冊の本を二段に分け、その下に原稿用紙をそっと隠した。大事な原稿であるならば、失くしてはならないと思ったのだ。

 原稿用紙の束が目に入らなくなると、途端に住み慣れた納屋がやけに広く感じられた。格子窓から射し込む光は、土間の上を冷たく照らしている。

「死にたく、ない……」

 ふと口からこぼれたのは『嵐中記』の主人公の科白だった。

 主人公の少年は、当時の私と同じくらいの歳だろう。彼もまた、森の中でひとりきりだ。似た境遇にありながらも、一方は死にたいと漏らし、また一方は死にたくないと口にする。この違いは、一体どこから生み出されるものなのだろうか。

 だがそれを考えると、自然と柳のことが思い出された。そうなるとまた悲しみが込み上げてくるので、私は本の下に隠したこの小説のことを、無理矢理に忘れることにしたのだった。

 

 

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