冬の百合とシンデレラ

 

 私が通っていた高校に、理由なき迫害は、確かに存在した。

 真っ黒な髪が陰気だの、生意気にスカートを短くするなだの、馬鹿馬鹿しくて笑ってしまいたくなるほど些細なことで、私にくってかかる同級生が何人もいた。いや、何人もいなければならなかった。何故なら、本当に弱い者は、群れねば何ひとつ為せないからだ。彼女らが手を出してくることはなかったから、大抵は相手にしなければ済んだのが幸いだった。

 それでも、やはり面倒に思えていた。狭い箱の中に押し込められて、誰もが鬱屈とした気持ちで日々を過ごし、そのはけ口もまたこの矮小な世界のどこかに見出さなければ生きていけない、そんな屈折した学校生活を。

 だから早く社会に出たかった。私はこんな弱虫たちとは違う。強い人間なのだと、身をもって証明してやりたかった。いじめが恐かったのではない。誰かを迫害しないと自分を保てない、そんな同級生たちと同じ空気を吸うことが嫌だったのだ。

 私は、高校を一年とそこら通ったところで辞めた。私に対する同級生のささやかないじめが、一体どこから漏れたのか知らないが、あろうことか世に露呈されてしまったのだ。意図せずいじめ被害者の親というレッテルを貼られ、同情の眼差しを向けられることに、プライドの高い両親は耐えられなかったのだろう。私を別の学校に転校させようと話が、当然のように持ちあがった。私としては、うんざりするような学校生活からようやく解き放たれたというのに、また同じようなことを繰り返すのはごめんだった。

 両親にも、同じような危惧があったのかはわからない。しかし『もう学校には通わずに働きたい』という私の申し出に、親は二つ返事で了承してくれた。そうして退学から僅か一ヶ月で、私は家を出ることになったのだ。

 決まっていたのは、実家から随分離れた街で父親が契約してきた賃貸アパートだけ。家賃光熱費は仕事が見つかるまでの間は両親が負担し、給料が出るようになればそれを返済しなければならない。このアパートでひとりで暮らしながら仕事を見つけるようにいわれ、そして今日、最低限の荷物だけを持って私は引っ越してきたのだった。

 そうして、親の手を離れて初めて過ごした、このたった一日。

 親が私のことをどう思っていたかは知らないが、それでも、間違いなく私は護られていたのだと。そして私は、ひとりでは何もできないのだと、思い知らされたのだ。

 見知らぬ街。

 見知らぬ人々。

 身を切る冷たい風。

 きらきらと、輝く光は遠く、遠く。

 手なんて届かないほど彼方に。

 そして無力感に苛まれる私の目の前に現れたのは。

 

 * * *

 

 蜘蛛の糸で救われるほど、私は良い行いなどしていないだろう。強くひけば、昇るまもなくきっとぷつんと切れてしまう。

 けれどそれでも、触れ、掴め、と糸が言っている気がした。魅惑的な甘い香りで、私を誘っていた。誘惑から目を背けるように、手の中の冷たさで心を誤魔化す。グラスをぐるりと揺らせば、たちまちにオレンジ色の大波がおこる。その中心では小さな渦が巻いた。それを見つめる。

「行き場のない、子猫みたいな目をしてる」

 ぐる、ぐるぐるり。

 彼女の言葉が、回る、回っていく。渦の中へと飲まれていく。

「あなたの目、好きよ」

「え」

 ぱしゃ、と水音がした。手の力が抜け、傾いたグラスから中身がテーブルへとこぼれたのだ。グラスを伝うカクテルが、私の指先までもを濡らす。

「あ、ごめんなさい私――!」

 慌ててグラスを置き、自分のおしぼりでテーブルを拭いた。こぼれた量がほんの少しだったので、テーブルはすぐに元通りになる。

「よく謝る子ね」

 テーブル上で忙しなく動いていた私の手を、不意に彼女がとった。そして指先に、柔らかな感触。彼女は、おしぼりで私の指先を拭っていた。

 背筋がふるりと震える。冷たさに、ではない。それを証拠に、甘い痺れが全身を支配していた。

 唇がわななく。初めての感覚だった。

 湿ったタオル地が、爪の先を、関節を、指と指の間を、じっとりと這う。オレンジ色の夢の名残に脅かされてなどいない場所まで、清められていく。

「……は」

 吐いた息が熱を帯びていた。頬が、体が熱かった。そんな私の様子を見て、彼女の口元が満足げな色を浮かべる。そうしてようやく、おしぼりをテーブルに置いた。彼女は、やや上目使いで私を見ている。彼女の瞳には、揺らめくキャンドルの灯と、私だけが映っていた。きっと私の目も、同じ。

「ねえ」

 滑らかな手のひらが、私の手の甲を撫でた。再び、ぞ、と微弱な電流を流されたような痺れが私を襲う。

「こうしてあなたの前には私がいて、私の前にあなたがいる。あなたは百合の香りに惹かれた。私はあなたの目に惹かれた――これ以上、私たちに理由が必要かしら」

 目が眩んだ。同時に心臓が早鐘を打つ。

(私は、弱い)

 強くなんてなかった。ただ、群れることすらできなかっただけなのだ。私のいるべき場所は、ここではないと自分自身に言い聞かせ、どこかに、誰かに、救いを求めていただけだったのかもしれない。だから私は、暗闇のような街の中で、香り高く咲く百合に心を奪われた。

「私たち、今日初めて会ったのに、おかしい……でしょうか」

 じんと痺れ、蕩ける頭で、抗う。常識だとか、道徳だとか、思いつく限りのものに。そんなことに、もはや意味なんてないけれど。

 彼女は何も言わなかった。

 ただ、変わらぬ微笑を浮かべたまま、形の良い唇を、私の手の甲に軽くあてた。

 揺れる灯り。静かなキス。

 そっと唇が離れてゆく。小さな赤い花弁を残して。そこには確かに、細い糸が繋がっていた。

「おかしくなんてないわ。だって、シンデレラは、初めて出会った王子とたった一晩で恋に落ちたのよ」

 ――私のこれまで生きてきた世界なんて、本当にちっぽけだった。そこから抜け出したばかりの私が、この街で出来ることなんて、きっとまだなかっただろう。でも、それでも今は、彼女のためならばどんなことだって出来る……そんな気さえする。これは、私がこども故の、ただの強がりだろうか?

 私は頭を左右に振って、浮かんできた考えを打ち消した。

 グラスをとり、その中身をぐっと飲み干す。

 幾分かぬるくなってしまったそれが、とろりと私の喉を流れていく。体の内から、弾けるような甘さに浸った。ふわり、漂う百合の香りを強く意識する。

 そうして再び私は、妖しい夢に囚われた。

 舞踏会に足を運んだシンデレラも、きっと、私と同じような夢を見ていただろう。

(ああ、この夢が、長く続きますように)

 冬の街で見つけた、冷たい風の中で凛と咲く百合の花に、いつまでも寄り添っていたいと、私は願った。

(了)

1頁 2頁

       
«

サイトトップ > 小説 > 同性愛 > カサブランカ・オードトワレ > 冬の百合とシンデレラ