カミさまのいうとおり!第2話

 

 

 ぽこん、と軽い音。福禄の装備したプリントソードが、再度私の頭を打った。勿論、ほんの峰打ちだが。

「オオミミハリネズミとは、厄介だな君は」

「……へ?」

 福禄の口から飛び出した言葉に、思わず間の抜けた声を出してしまった。

 困った。オオミミハリネズミとやらを、私は知らない。名前からして、ハリネズミのすごいやつだとは思うのだが……。そういえばよく考えてみれば、ハリネズミなんて図鑑でしか見たことがない。そんなハリネズミですら『体に針がついている』という情報しか知らないというのに。それよりすごいハリネズミなんて、想像がつくはずもない。

 ごくり、と唾を飲む。――イチかバチか、言ってみるしかない。

「そ、そうです、私の心は臆病なオオミミハリネズミのように目の前の外敵に怯えているんです!」

 意を決して振り絞った声が、細い廊下でコダマのように反響している。

 そして、当然の如く訪れる沈黙。静まり返る廊下。ああ、やはり彼が言った通り、廊下は本来静かであるべきなのかもしれない。仮に背筋が凍りつきそうになるような静寂さをもとから廊下がたたえていたとしたら、今私がこの耳が痛くなるほどの静けさに気まずさを覚えることもきっとなかったに違いない。

 ――もしこの世界にカミサマがいるなら、どうか、どうかこの空気を打ち破る力を私に下さい。今すぐ。

「……まあ」

 そんな私の願いを知ってか知らずか、いや、恐らく知るはずもない福禄が、その重い口を開いた。

 彼はそれからしばらく「あー」だの「えー」だの、散々言葉を濁した挙句。

「その、なんだ、すまないな」

 申し訳なさそうに、謝罪の言葉を口にした。

「はあ」

 何故、謝られたのだろう。どちらかといえば微妙な雰囲気を作り出した私が謝る場面だと思うのだが。いやしかし、そもそもその原因を作り出したのは彼なのだから、やはり彼が謝罪してしかるべきなのか。けれど彼がおかしげなことを言ったのは、私のハリネズミ発言を受けてのことだから、ここは私が謝って――ええい、もう、どうでもいいじゃないか。喧嘩両成敗だ。私がこの場所を訪れた本来の目的は、こんな下らないことで言い争うことではない。彼が謝ったのだから、私も謝って、それでこの話を終わりにすればいいのだ。和解だ、とにかく和解しなければ。

「私こそ、すいま」

「頭、弱かったんだな」

 私が謝罪をしかけた瞬間、とんでもない言葉が耳に飛び込んできた。

 そして私に向けられる、同情のまなざし。……やめてくれ、そんな憐れむような目で、私を見るな!

 屈辱と恥辱に耐えられず、私は思わず握りしめた拳を突き出した。入学式の、あの日のように。数秒前に決意していた和解のことなんて、一瞬で頭から吹き飛んでしまっていた。

 しかし、拳が捉えたのはターゲットのみぞおちではなかった。ハッとして、福禄の顔を見上げる。したり、と彼は不敵に微笑んでいる。

「やはり君は、オオミミハリネズミだな」

 言いながら福禄は、自身が纏った上着の中に手を差し入れた。そしてそこから取り出したのは。

「そ、それは……」

 私は、唖然とした。まさかこんなものを隠し持っていたなんて。なるほど、私のパンチが通らないはずだ。福禄仁、彼もまた、侮れない男のようだ。

 どこかの窓が開いているのだろう、二人の他に人気のない廊下に、爽やかな五月の風が吹き抜ける。

 福禄が差し出した大量のプリントが数枚、清風に煽られて床に落ちた。私はしゃがみこんで、それを拾い上げる。

 手にした紙には、明朝体の大きな字で『天高七福神計画概要』と書かれていた。

 

 

 第一実験室内は、ひんやりとした空気に包まれており、整然と並んだ椅子や器具からは、ここがほとんど使用されてないことが伺えた。にもかかわらず、塵ひとつ落ちていないのだから、よほど綺麗好きな人間が清掃に当たっているに違いない。

 実験用の大きなテーブルの前に座り、私は福禄から渡された計画書に目を通した。膨大な量の書類なので、目を通すといっても本当に触りの部分だけだ。

「……『戸別補償制度の廃止、農業従事者主体によるJAの代替団体の設立、農産物の価値・価格見直し、農業教育の推進、放置田畑の積極的売買推進』……先輩、これはちょっと、話が飛躍しすぎなんじゃ」

 書類を読み上げながら、テーブルの向かい側に同じく腰かけている福禄に目線を移す。

 各項目の詳細は未読だが、それでもこれが途方もない計画ということは理解できた。

 確かに、今の農業界は元気がなく、後継者も減り、改革が必要だ。この学校の現状からもそれが分かるほどに。私も農業界を盛り上げていきたい気持ちは十分にある。けれど、この計画が改革かと訊かれれば、答えはノー。これは改革ではなく、現状の破壊だ。今あるシステムを壊してしまえば、後々後悔しても二度と取り戻すことは出来ない。状況が芳しくないからといって、長年培ってきたこの国の農業を、壊滅の危機に晒していいものか。

「――君は、農業が好きなんだろう」

 唐突に、福禄が私に尋ねた。

「好きです」

 淀みのない言葉で答える。

 私の返答が満足いくものだったのか、彼は小さく笑みを浮かべた。柔らかな微笑みだ。春に綻ぶ野花のようだと感じた。真面目一辺倒の印象だったが、根は優しい人なのかもしれない。

「そうか」

「そうです」

 窓の外からは、鳥の鳴き声がした。きっと、仲間を呼んでいるのだろう。

 太陽が傾きかけている。オレンジ色の陽光が、室内を照らし始めた。

「今農業に必要なのは」

 福禄は、まっすぐ私を見据えながら、言葉を紡いだ。真剣な眼差しに、思わず息を飲む。

「君や僕のような、外部からの風だ」

「外部……?」

「農業界には保守的な人間が多い。農業に係わるほとんどの人間が、今のこの状況を良くは思っていないだろう。だけど、行動を起こす勇気はない。自分が持っているものを、失うのが恐いからだ」

 彼が語ったことには、私も心当たりがあった。

 小さな農家のほとんどは、先祖代々受け継いできた土地で農耕を行っていた。けれど後継者不在と農家の高齢化が相まって――減反政策などによるところもあるが――耕されることのなくなった田畑が多く存在している。この田畑を持ち主が手放して、誰かがまとめて管理・利用すれば問題はないのだが、担い手の少ない今の農業界でそれが実現できるはずもない。それ以上に、持ち主が田畑を手放したがらないのだ。どんなに荒れて、農作を行ってすらいなくても『代々受け継いできた土地だから』という理由で、売ることを拒む。

 気持ちは、分からないでもない。けれどそれでも、私は思うのだ。そんな大事な土地を荒らしたままにしておいて先祖は喜ぶのか、と。

「農業界を立て直すには、一度既存のシステムを壊す必要があると僕は思う」

 福禄が言いたいのは、つまりはそういうことだ。

 しかし、しかしだ。

「――先輩、一度死んだものは、生き返らないんですよ」

 今でこそ、力の弱い業界なのだ。これを壊すとなれば、片田舎で細々と営む農家の多くは立ち上がる力も残らないだろう。そして海外からの安価な輸入食品によって、日本の食卓は完全に蹂躙されてしまうこととなる。

「では、君は日本の農業が、じわりじわりと真綿で首を締められるように、ゆっくりと死んでいく姿が見たいのか?」

「そんなこと」

 ――あるはずがない。

 言いかけ、ぐっと言葉を飲み込んだ。ひざの上で握った拳を握りしめる。

 一体何なのだ、私は。どうしたいのだ、この国の農業を。予想以上に壮大かつ過酷な計画を知って、動揺したのか? 考えが、矛盾だらけではないか。『農家がかわいそう』? 本当に酷い上から目線だ。

 このままでは遅かれ早かれ農業は死ぬのだ。いや、死ぬのではない。殺されるのだ。知識のない一般国民に、政府に、世界に、日本の農業は、殺されてしまうのだ。

 農業が、この国から消えてしまっていいのか?

 あの土の匂いを、収穫の喜びを、誰も味わうことがなくなってしまう……それでいいのか?

 駄目だ、それは絶対に駄目だ。

「……出来るんですか、本当に。農業界の再興が」

 私は視線を伏せ、絞り出すように言葉を発した。今は、福禄の顔を見たくなかった。彼は、本当に農業の将来を真剣に考えているのだ。――それに比べて、私ときたら。

「『出来るのか』ではない。『やる』んだ。僕らには『行動する』という選択肢しか用意されていないんだよ」

 俯いたままの私の視界に、福禄の手が差し出された。五指こそ細いが、大きな手だ。初めて出会った日に握手を交わした時には何も感じなかったのに、今は彼のこの手が、とても頼もしく思える。

「僕の手を取れ、弁財。君が必要だ。君には、誰にも負けない勇敢さがある。……オオミミハリネズミのように、な」

 きっと今、福禄は笑っているはずだ。先程私に見せたような、優しげな表情で。

 ――私を、必要としてくれている。

 彼の言葉は、私に不思議な高揚感をもたらした。

 ドキドキといつもより早く脈打つ心臓は、毘沙門から告白を受けた、あの日を思い起こさせる。

 私はゆっくりと、福禄の手に自分の手を重ねた。彼の少し高い体温が、てのひらから伝わる。

 ――逃げている場合じゃない。

 顔を上げ、まっすぐに彼を見据えた。二人の視線が、交差する。

「私、やります」

 遠くから、部活動に励む生徒の声が聞こえた。

 太陽は更に傾き、夕日に照らされた教室全体が輝いて見える。いや、実際に輝いているのかもしれない。私たちは今、険しくも輝かしい未来への一歩を踏み出したのだから。

 重ねた手に、力を込める。

「一緒に、やらせてください」

 福禄の目を見つめながら、私は言った。

「……あ、ああ」

 私の方をじっと見ていたかと思うと、福禄は急に呆けたような顔で、何とも歯切れの悪い返事を寄越した。そしてきょろきょろと視線を泳がせ始め、そのうちにそっぽを向いてしまった。

「あー……、うん、そうだな、うん。頑張ろうな、弁財」

 ははは、と笑いながら、彼は差し出していた手を引っ込めた。

 本当に、何なのだ一体。今までの勢いはどこへいってしまったのか。この態度も、何か考えがあってのことだろうか。

 全く、読めない男だ。

 

 結局、その後は十分と経たないうちに解散となり、大量のプリントの束を鞄に詰め込んだ私は、一人家路につくこととなった。

 福禄はというと、片付けがあるらしくそのまま実験室に残っている。聞けば私と同じで電車を使うということなので、片付けを手伝うから一緒に帰ろうと誘いはしたのだが、何故か頑なに拒否をされてしまったのだ。

 数時間前にかや子と別れた玄関で靴を履きかえ、校門をくぐったところで、ふと立ち止まる。振り返り、校舎を見上げた。三階の端に、ぽつりと明かりの灯った部屋がある。第一実験室だ。

 福禄は、片付けにそんなに手間取っているのだろうか。やはり、無理矢理にでも手伝えば良かった。

 けれど、必要以上に整頓されたあの教室の、一体どこを片付ける必要があったのだろうか。次に会った時にでも訊いてみようと、私は思った。

 

 茜色の空が、徐々に濃紺へ塗りつぶされていく。

 カラスの鳴き声を頭上に聞きながら、校舎を背に歩きだす。

 無意識にポケットに差し入れた手が、かさりと何かに触れた。歩みを止めないままに、それを取り出す。福禄からの、呼び出しの手紙だった。

 二時間程前、ラブレターだと騒いでいたかや子の姿を思いだす。

 ぺらぺらの茶封筒は、ポケットに入れられていたことでさらに皺だらけになってしまっていた。

 ――ラブどころか、オオミミハリネズミだもの。

 あのやりとりで恋が芽生えるなんて、あるはずもない。

 人通りもなく外灯すら疎らな薄暗い歩道で、私は可笑しくなって、小さく噴き出してしまった。

 かや子には、明日きちんと話さなくてはいけない。あの手紙はやはりラブレターなんかじゃなかったこと。そして、あの計画のことも。

 右手に携えた、鞄が重い。福禄から渡された計画書のせいだ。しかしそれは枚数の多さだけによるものではなく、計画書に込められた福禄の想いと、重責に対する私自身のプレッシャーも相まってのことだろう。

 ふわりと柔らかな風が吹きぬけた。少し肌寒いその風は、私の心を引き締めてくれるようだった。

 

 青葉瑞々しい、爽やかな五月。

 収穫に向け動き出す、重要な時。

 私は、私たちは、今まさに動き始めたのだ。

(続)

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