カミさまのいうとおり!第2話

 教室の壁に掛けられたカレンダーに、大きな数字の5が踊る。

 高校に入学してからの最初の一ヶ月は、あっという間に過ぎ去ってしまった。入学式の際には満開だった桜も散り落ち、枝には既に瑞々しい若葉が繁っていた。開け放された教室の窓からは、爽やかな緑の風が流れ込んでくる。

 ああ、愛すべき草木の匂いだ。

 私はそれを肺いっぱいに吸い込んだ。

「琴子、帰ろ」

 呼ばれ、私は声のほうへ視線をやる。長い髪をポニーテールに結った女子生徒が、微笑みを浮かべてそこに立っていた。

 彼女は宇賀かや子。入学初日に、人生最大の試練に直面した私を応援してくれた心優しき少女だ。入学式の次の日、私は早速彼女に交際を申し込み、晴れて友人関係を結ぶことが出来たのだ。

 あの日は本当に、寿命が縮むようなことが何度も起こったものだった。今思い出しても動悸が激しくなってしまうほどだ。ああ、若くして深刻な心臓疾患を抱える羽目になってしまうとは。私の野望達成に、早くも陰が差した気分だ。

「なあに、落ち武者みたいな顔しちゃって」

 一ヶ月前のあの日を思い出し、うんうんと唸っていた私の肩を、かや子が優しく叩いた。

 はっと我にかえった私は、いやまあうんと、言葉を濁す。今更過ぎたことを考えても、仕方ない。私が生きるのは過去ではなく、今と未来なのだから。

「ねえ、かや子」

「ん?」

「考えたんだけど、落ち武者は酷いと思うの」

 私の言葉に、当のかや子はきょとんとした顔をしている。――ここは、盛大に笑いをとれるところだと思ったのだが。

 頭の上に、目に見えるほど大きなハテナを浮かべているかや子を見ていたら、こちらの方が可笑しくなってきてしまった。

 

 

 今日の放課後は、かや子と隣町まで出かける予定だ。隣町に天然酵母パンの店が出来たらしく、今朝登校してすぐ、かや子に散々「行こう行こう」とねだられた。特に用もなかったし、かや子の頼みであれば致し方ない。

 かや子は寮生だ。学校から十分歩いた場所にある寮に一度荷物を置いてから、電車で隣町に向かうことになっている。私はというと、件のパン屋がある町の、そのまた隣町の実家から電車で学校に通っている。

 教室からようやく下足箱の前まで辿り着く。周辺一帯には、独特の汗臭いような土臭いような、何ともいえない臭いが漂っている。長時間この場所にいたいとは、誰も思わないだろう。私とて、同じ思いだ。

 自分の下足箱から、革靴を取り出し、床に放る。そして自分の履いていたスリッパを脱ぎ、空の下足箱に手早く突っ込んだ。

 ぐしゃ。

 スリッパを入れた途端、くしゃりと紙を潰したような音がした。

「あれ、なんか変な音がしたよ」

 それはかや子にも聞こえていたようで、私の下足箱を覗き込んでくる。私も中を覗く。下足箱の奥に、スリッパと内壁に潰された茶封筒が見えた。長四形の、薄っぺらい、安っぽい封筒だ。手を伸ばし、それを回収する。封筒の表面には、ミミズのような何かが書かれていた。

「……何これ」

 指先で摘んだ封筒が、私とかや子の目の前でぴらぴらと揺れる。するとかや子が突然、ハッと息を飲んだ。

「大変よ、琴子。これは恋文に違いないわ」

 その言葉に私はぎょっとする。

 文房具屋に行けば、百枚入りのものが数百円で買えるような茶封筒の中身が、何故、恋文という結論になってしまったのだろうか。確かに、薄すぎる封筒の中に紙切れのようなものが透けて見えるが、私にはこれが到底恋文――いや、ラブレターには見えない。ラブレターなんて代物を生まれてこのかた一度も貰ったことのない私でさえもそう思うのだから、この封書がラブレターであるはずがない。そもそもラブレターというものはもっと可愛らしい、例えばイチゴやハートの柄とか、そういった封筒で送られてくるものではないのだろうか。いやしかし、それは女子が男子に対して送る場合のことであって、今回のように男女逆の場合は、もしかすると茶封筒でラブレターを送るのがセオリーなのかもしれない。何しろ私にはラブレターを送った経験も送られた経験もないのだから、そもそもこれらはすべて私の憶測にすぎないのであって――。

「……こ……琴子! しっかりして!」

「あ、っと、ごめん」

 かや子に肩を揺すられ、我に返る。彼女の言葉があまりにも衝撃的だったもので、つい考え込んでしまった。いけない、これは私の困った癖だ。

「それで、かや子、何でこれが恋文なのよ」

 皺だらけの茶封筒をかや子に突きつけ、私は問うた。

「え? だって『弁財琴子様へ』って書いてあるし……」

 言ってかや子が茶封筒を指差す。

「……どこに?」

「だから、ここに書いてあるじゃない」

 私が向けている訝しげな視線を物ともせず、かや子が封筒の表面に書かれたミミズをなぞった。もしこれが文字だとしても、現代日本で解読出来るような類のものではない気がするのだが。

「いい? かや子。もしこのミミズが仮に文字だとして、さらに仮にあなたが言うように『弁財琴子様へ』と書かれていたとするわよ」

「仮にじゃなくて、本当に書いてあるんだってば」

 かや子が不満げに声を上げるが、それはあえて無視をする。

「もしこれがラブレターだと認定されるなら、私宛に来る郵便物は全部ラブレターってことになるじゃない。年賀状も、暑中見舞いも、美容室から送られてくる販促の手紙も、ラブレターじゃないでしょ?」

「でも、下駄箱に入ってたよ」

「下駄箱に宛名の書いてある封書が入っていたらラブレター? いいえ、かや子。それは違うわ、ノンよ、ノン! 何故ならこの下駄箱は、広い校内においてもっとも確実に望んだ人物にコンタクトが取れる場所……いわば、学校内における郵便ポスト的役割を果たしているの。だから恋文以外にも様々な封書が投函されるわ。決闘状に不幸の手紙、参観日のお知らせまで!」

 声高らかに主張し、その勢いで私は封筒の封を切った。びり、という見た目通りに安っぽい音と共に封筒の口が開き、そこから白い紙切れが見えている。またかや子に何か言われないうちにと、私は素早く紙を抜き取り、折られていたそれを広げた。

 冬の北海道を思わせる、一面の白。その純白を汚すように書かれていたのは。

 ――別に、ラブレターを期待してたわけじゃないのだけど。

 何とも言えぬ脱力感が私を襲い、それに押し出されるように深い深い溜息が零れる。

「ほら、ラブレターじゃ、ないでしょ」

 言って、紙切れを差し出す。

「ええっと『放課後、第一実験室まで。福禄』……。琴子、これって」

 私でも理解できる日本語で、そこに印字された文章をかや子が読み上げた。

「うん、ただの呼びだ――」

「やっぱりラブレターなのね!」

 かや子はきゃあと黄色い声を上げ、私はお手上げとばかりに肩を落とした。何を言っても聞く耳はないらしい。これが優しい彼女の唯一の欠点であろう。

 ――機械で印字されたラブレターなんて、それこそごめんだわ。

 玄関の外では、緑の装飾を纏った木々が、手招きをして私を校外へと誘っているようだった。

 天然酵母パンは、どうやら今日はお預けになりそうだ。

 

 

 かや子とはそのまま玄関で分かれた。寄り道の件は謝罪したが、呼び出しの手紙をラブレターと勘違いしたままのかや子にとっては、もうそんなことはどうでもいいようだった。

「がんばって!」と鼻息荒く、興奮した様子でかや子は学校を後にしていった。明日学校で会う時には、今日これから起こることを根掘り葉掘り訊いてくるに違いない。

 それを考えると多少気が重いが、呼び出されてしまったからには仕方ない。

 福禄先輩からの呼び出しとなれば、用件は『天高七福神計画』についてであろう。入学式の日に、この漠然とした計画について軽い説明は受けていたが、今日に至るまで詳細は知らされていない。あの日彼は「後日連絡する」と言っていたが、この手紙が初めての連絡だった。

 第一実験室は、校舎の三階南端にある。昨年をもって廃止されてしまったバイオテクノロジー学科の生徒しか使用することがないという、現在では存在意義のない教室だ。第一実験室だけでも十分だというのに、第二・第三実験室まで存在するのだから、ここまでくると施設維持費の心配すらしてしまう。生徒数も激減しているというのに、本当にこの先この学校は運営していけるのだろうか。

 そこまで考えたら、身震いがした。天岩戸高校の現状に、日本の農業界が重なって見えたからだ。

 慌てて首を振り、不穏な考えを払う。――何を弱気になっている? この学校を、農業界を盛り立てていこうと、あの日心に誓ったではないか。

 第一実験室の扉を目の前に、私は大きく深呼吸をした。

 この学校に入学してから一ヶ月間、のうのうと、ごく一般的な学生生活を送ってきた。けれど、この扉をくぐってしまえば、それも終わる。終わってしまう。放課後、かや子と一緒に天然酵母パンの店に寄り道するなんてことも出来なくなってしまうかもしれない。

 本当にそれでいいのだろうか。私が本当に求めていたのは、平穏な自給自足生活だったはずだ。

 のんびりと、自分が食べる物だけを自分で育て、自然の恩恵を身に余る程感じながら、傲慢な態度で農家を泣かせる一般消費者に苛立つことのないような田舎で、ひっそりと暮らす。そう、それが私の夢、だった。

 ――でも、やっぱり見て見ぬ振りなんて出来ない。

 もしかすると、当の私こそ、傲慢だったのかもしれない。自分さえよければそれで良いと、ずっと思っていた。けれど、駄目だ。それじゃあ駄目なのだ。厳しい現状を把握しつつ行動を起こさないなんて、私が心の中で糾弾し続けてきた愚かな消費者とさして変わらないではないか。

 行動を起こせ、弁財琴子。これは改革だ。レボリューションだ。そして同時にこの腐った時代を一新するためのムーブメントでもあるのだ!

「時には! 起こせよ! ムーブメ」

「うるさい」

 男の声と同時に頭に軽い衝撃が走る。私が決意の雄叫びを上げたと同時に、目の前の扉がスライドし、中から出てきた男子生徒によって頭を叩かれたのだ。

「なかなか来ないから迎えに行こうかと思えば、これだ。君は小学校で習わなかったのか? 廊下では静かにしなさいと」

 目の前に現れた男は、筒状に丸めたプリントの束を右手に持っていた。恐らくこれが私の頭にヒットしたのであろう。彼の眼鏡の奥で忌々しげに細められた目が、痛い程の視線を私に注いでいる。ああ、やめてくれ。全身を裁縫針で刺されているかのような気分になるではないか。これぞまさに針のムシロ。きっと今なら、ハリネズミの気持ちだって理解出来てしまうぞ、私は。

「丸めたプリントで人を叩いてはいけませんと、先輩は習わなかったのですか。あなたのその心無い一撃で、私の心は遥か遠くの大陸に棲息するハリネズミのように恐怖に打ち震えてしまったじゃないですか」

 男の――福禄の顔を見上げながら、言い返す。

「どうしてくれるんですか、私のハリネズミハート」

 ずい、と一歩、福禄ににじり寄る。

 私の様子を一瞥して、福禄は呆れ顔を見せた。

 

 

 

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