陽炎

冬の百合とシンデレラ



 薄暗くなってきた冬の街中を、私は足早に歩いていた。
 買い物をしようと思い立って家を出たのは昼すぎだったというのに、その買い物もろくに終わらせられないうちにこんな時間になってしまうなんて、思いもよらなかった。あまりの計画性のなさに、我がことながら落胆する。
 右手に下げた大きな紙袋をちらと見やって、私は大きく溜め息をついた。
 せめて、完全に暗くなってしまう前に、自宅アパートに帰りつきたい。その思いとはうらはらに、歩けば歩くほど、自分の現在地を見失っていく。
(駅、どっちだったっけ……)
 足を止めて誰かに尋ねればいいのに、けれどそうしてしまえば、このまだよく知らぬ街の中で、ひとりだけ置き去りにされてしまうような気がして、怖かった。
 地理も満足に把握しないまま買い物に出るなんて、そもそも間違いだったのではないか。
 そう思い始めれば、気分が落ちていくのは早い。歩みも、それに合わせるように自然と遅くなっていく。
 高校を中退して、こんな中途半端な時期に一人暮らしを始めたのは、諸々の事情もあったが、何より実家から一刻も早く離れ、ひとりの社会人として自立したかったからだ。それなのに、初日からつまづいてしまうなんて。思わず下唇を噛み締める。ざらり、と乾いた唇の感触。そこに、冷たい冬の空気が刺すように触れた。
 歩道に面した店から漏れる光は、それぞれが温かく、星のように輝いて見える。すれ違う人々は皆笑顔を浮かべている気がした。どちらも、今の私にとってはあまりに眩しい。けれど私自身の意思で踏み入れたこの街から、今は逃げ出す力もなく、ただそれらを視界に入れないように下を向くのが精一杯だった。
 歩道に敷き詰められた橙色と黄土色のタイルが、じわりとその四角い形を崩して、その境目が混じり合う。
 強い無力感が、私を包んでいた。体が酷く重い。
 ここはどこなのだろう。
 私は、どこへ行きたいのだろう。
 そしてどこへ行くべきなのだろう。
 出せない答え。けれど本当は、知っているべき答え。
 ぐずぐすと、鈍く回転する頭。しかし不意にそこが、ぱ、と明るい色を持った。
(香りが)
 冬の街に不釣り合いな、蕩けるほどに甘い芳香が、私の鼻をくすぐったのだ。それはどこか高貴で、凛とした美しさすら感じさせる。見えもしないものに『美しい』なんて言葉は適当ではないかもしれないが、それでも確かにその香りは美しかったのだ。
 無意識に私はその香りを目で追っていた。
「あ……」
 目に飛び込んだのは、鮮やかな青。思わず感嘆の声がもれた。寒々としたこの街で、その色は一際異彩を放っている。
 深い青色のロングコートを身に着け、セミロングの髪をなびかせるそのひとの姿に、私の視線は釘付けになった。百合の香りは、この女性から漂ってきたらしい。尾をひくように、細い糸のような余韻が、女性と私の間をつないでいた。しかし徐々にその青い背中は遠ざかっていき、モノクロの群衆に飲み込まれていく。百合の香りは、もう随分遠くなっていた。
(糸が、切れてしまう)
 不意に、心細さをかきたてられる。街と私を繋ぐ唯一が、その芳香であるように思えてならなかったからだ。だから、遠ざかるそれに対して、私が一抹の寂しさを覚えたのは当然のことだった。
「待っ――」
 待って。
 そう言いきらぬうちに、私は駆け出していた。道標の糸を手繰るように。
 
 * * *

 白い合皮が張られた柔らかなひとり掛けソファに腰を下ろすと、埋もれてしまいそうなほどに体が沈んだ。照明がほとんど落された店内は、客席のローテーブルに置かれたキャンドルの灯火でゆらゆらと妖しく照らされている。BGMとして流されているゆったりとしたジャズが、白と黒を基調に揃えられた内装を、さらにシックな雰囲気に仕立てている。
「いらっしゃいませ」
 白いシャツに黒いスラックスを身に着けた店員らしき男が、挨拶をしながら、私におしぼりを(これもまた、黒色だ)渡してくる。テーブルを挟んで私の対面でソファに腰を下ろしているその女性も、同じようにおしぼりを受け取っていた。あの青いコートは、既に店員によってクロークにかけられてしまっている。
(何やってるんだろう、私……)
 街で見かけた百合の香りを纏った青いコートの女性と私は、初対面にもかかわらず連れだって、小さなバーに入っていた。
 あのあと、私はこの女性のもとに駆け寄り、思わずその腕をひいてしまったのだ。
『待って。待って……下さい』
 息を切らしてそう口にした見ず知らずの私に、彼女は驚いた様子も見せず、
『それじゃあ、こちらにいらっしゃい』
 口元に上品な微笑を浮かべ、さらには逆に私の手をひいて、彼女の進行方向とも、私の進行方向とも違う道に向かって歩き始めた。私から呼び止めて置きながらも、しかしこの状況にまったくついていけず、私は手をひかれるままに、彼女の後ろを歩いた。
 そもそも、この女性を呼び止めてどうするつもりだったのか。それは私自身も分からない。道を尋ねるだけで終わったかもしれないし、その勇気すら出ずに、呼び止めたことを謝罪して、またひとり街で惑うだけだったかもしれない。けれどあの時は、彼女から漂う香りを逃したくない、ただその一心だった。
 こん、と軽い音。何かがテーブルを叩いたのだ。はっとする。ぼうっとしていたようだ。白いコースターの上に、オレンジ色の液体が注がれたグラスが置かれていた。小さな逆三角錐型グラスの口端には、チェリーとセルフィーユが飾られている。私が頼んだわけではないから、恐らく彼女が注文をしたのだろう。彼女の前にあるグラスは、南国の海の色で満たされている。
「勝手に注文してしまったけど、よかったかしら」
 よく通る澄んだ高音。それはどこまでも広がる冬の青空のようで、夏に咲く大輪の百合のようでもあった。その音に揺すぶられたように、胸が震える。心なしか鼓動が速い。きっと、非日常なことが起こりすぎたせいだ。この出来事が夢だと言われたら、私はあっさりと信じてしまうことだろう。
「いえ、あの、でも私……」
 私が言いかけると、彼女は唇の前で人差し指をそっと立ててみせる。
「それはね、ノンアルコールのカクテルなの。あなたの好みに合うといいのだけど」
 そしてすべて見透かしたようにそう口にした。どきりとする。何故、と訊きかけたところで、彼女は軽くウインクしてみせた。それを目にして、私は言葉を飲み込む。私がこんな場所とは縁遠い未成年であることを察して、気を遣ってくれているのだと、そこでようやく気付く。
「……ありがとう、ございます」
「いいのよ。私が勝手にあなたをこの店に連れ込んだのだから――ごめんなさいね」
 そう尋ねられ、思わず頭を左右に振る。
「い、いえ。こちらこそ、その……ごめんなさい」
 元はといえば、こちらから声をかけたのだ。それなのにこうして謝られると、何だか申し訳ない気持ちになる。
 彼女は何も言わず、ただ微笑を浮かべ、小さな海を湛えたグラスを手にした。ガラスの壁にぶつかった海の端から、ゆらりと波がたつ。ざざん、と潮騒が聞こえてきそうな気がした。
 私も彼女に合わせて、グラスをとる。互いのそれを軽く当てる。ち、と鳴る高音。グラス同士のキス。私の手元で、鮮やかなオレンジ色の夢が揺れた。目眩がしそうなほど、きらきらとすべてが輝いている。先ほどまで身を置いていた冬の街と同じだった。けれど不思議と安心感があるのは、きっと、この香りのせいだ。
 唇に感じる無機質な冷たさ。ゆっくりとグラスを傾け、中身をひとくち、飲み込む。
 それは甘い夢だった。舌の上にゆっくりと広がる様々なフルーツの味は、常夏の海辺で過ごす、蕩けるほど優美な日々のような幻を、私に見せる。高熱に浮かされたように、頭の芯がぼうっと痺れていた。
 テーブルに戻したグラスを、焦点の定まらない目で見つめる。初めての感覚に、変な薬でも入っているのかと勘ぐってしまう。けれど、店内には私たちだけではなく、他にも複数人の客がいる。そんな場所で、おかしげなことをするはずもない。ならば、この感じは、一体なんなのだろう。アルコールも入っていない飲み物で、まさか酔ってしまったとでも?
 ――いや、違う。私を酔わせているのは、グラスの中で揺らめく未知なる常夏の国の夢幻ではなく、
「百合の香りが気になるかしら」
 沈黙を破った唐突な彼女の言葉が、私の胸を刺した。ぐ、と息ができなくなる。その瞬間に、ぴったりと焦点が合う。彼女に。切れ長の目を、雪のように白い肌を、妖艶な赤を纏った唇を、私は、見た。
 そう、芳香だ。私を夢の世界へと落としたのは、高貴でいて甘い、この白百合の香り――そしてそれは同時に、冷たく凍えそうな冬の街から、私を救い出してくれた糸でもある。
 私の口から言葉は出なかった。何と言っていいか分からないのだ。だからただ、頷くしかなかった。
「これはね、特別な香水なの。カサブランカ・オードトワレ……ひとの心を捉える不思議な香り」
「心を、捉える……」
 無性に喉が乾いていた。
「そう。あなたのような、迷いびとの心を、ね」
 先ほどまでの甘い夢は、遠い過去のように思えた。震える指で、テーブル上のグラスに触れる。ひやりとした感触は、冬の街の冷たさを思い起こさせる。

 * * *

 私が通っていた高校に、理由なき迫害は、確かに存在した。
 真っ黒な髪が陰気だの、生意気にスカートを短くするなだの、馬鹿馬鹿しくて笑ってしまいたくなるほど些細なことで、私にくってかかる同級生が何人もいた。いや、何人もいなければならなかった。何故なら、本当に弱い者は、群れねば何ひとつ為せないからだ。彼女らが手を出してくることはなかったから、大抵は相手にしなければ済んだのが幸いだった。
 それでも、やはり面倒に思えていた。狭い箱の中に押し込められて、誰もが鬱屈とした気持ちで日々を過ごし、そのはけ口もまたこの矮小な世界のどこかに見出さなければ生きていけない、そんな屈折した学校生活を。
 だから早く社会に出たかった。私はこんな弱虫たちとは違う。強い人間なのだと、身をもって証明してやりたかった。いじめが恐かったのではない。誰かを迫害しないと自分を保てない、そんな同級生たちと同じ空気を吸うことが嫌だったのだ。
 私は、高校を一年とそこら通ったところで辞めた。私に対する同級生のささやかないじめが、一体どこから漏れたのか知らないが、あろうことか世に露呈されてしまったのだ。意図せずいじめ被害者の親というレッテルを貼られ、同情の眼差しを向けられることに、プライドの高い両親は耐えられなかったのだろう。私を別の学校に転校させようと話が、当然のように持ちあがった。私としては、うんざりするような学校生活からようやく解き放たれたというのに、また同じようなことを繰り返すのはごめんだった。
 両親にも、同じような危惧があったのかはわからない。しかし『もう学校には通わずに働きたい』という私の申し出に、親は二つ返事で了承してくれた。そうして退学から僅か一ヶ月で、私は家を出ることになったのだ。
 決まっていたのは、実家から随分離れた街で父親が契約してきた賃貸アパートだけ。家賃光熱費は仕事が見つかるまでの間は両親が負担し、給料が出るようになればそれを返済しなければならない。このアパートでひとりで暮らしながら仕事を見つけるようにいわれ、そして今日、最低限の荷物だけを持って私は引っ越してきたのだった。
 そうして、親の手を離れて初めて過ごした、このたった一日。
 親が私のことをどう思っていたかは知らないが、それでも、間違いなく私は護られていたのだと。そして私は、ひとりでは何もできないのだと、思い知らされたのだ。
 見知らぬ街。
 見知らぬ人々。
 身を切る冷たい風。
 きらきらと、輝く光は遠く、遠く。
 手なんて届かないほど彼方に。
 そして無力感に苛まれる私の目の前に現れたのは。

 * * *

 蜘蛛の糸で救われるほど、私は良い行いなどしていないだろう。強くひけば、昇るまもなくきっとぷつんと切れてしまう。
 けれどそれでも、触れ、掴め、と糸が言っている気がした。魅惑的な甘い香りで、私を誘っていた。誘惑から目を背けるように、手の中の冷たさで心を誤魔化す。グラスをぐるりと揺らせば、たちまちにオレンジ色の大波がおこる。その中心では小さな渦が巻いた。それを見つめる。
「行き場のない、子猫みたいな目をしてる」
 ぐる、ぐるぐるり。
 彼女の言葉が、回る、回っていく。渦の中へと飲まれていく。
「あなたの目、好きよ」
「え」
 ぱしゃ、と水音がした。手の力が抜け、傾いたグラスから中身がテーブルへとこぼれたのだ。グラスを伝うカクテルが、私の指先までもを濡らす。
「あ、ごめんなさい私――!」
 慌ててグラスを置き、自分のおしぼりでテーブルを拭いた。こぼれた量がほんの少しだったので、テーブルはすぐに元通りになる。
「よく謝る子ね」
 テーブル上で忙しなく動いていた私の手を、不意に彼女がとった。そして指先に、柔らかな感触。彼女は、おしぼりで私の指先を拭っていた。
 背筋がふるりと震える。冷たさに、ではない。それを証拠に、甘い痺れが全身を支配していた。
 唇がわななく。初めての感覚だった。
 湿ったタオル地が、爪の先を、関節を、指と指の間を、じっとりと這う。オレンジ色の夢の名残に脅かされてなどいない場所まで、清められていく。
「……は」
 吐いた息が熱を帯びていた。頬が、体が熱かった。そんな私の様子を見て、彼女の口元が満足げな色を浮かべる。そうしてようやく、おしぼりをテーブルに置いた。彼女は、やや上目使いで私を見ている。彼女の瞳には、揺らめくキャンドルの灯と、私だけが映っていた。きっと私の目も、同じ。
「ねえ」
 滑らかな手のひらが、私の手の甲を撫でた。再び、ぞ、と微弱な電流を流されたような痺れが私を襲う。
「こうしてあなたの前には私がいて、私の前にあなたがいる。あなたは百合の香りに惹かれた。私はあなたの目に惹かれた――これ以上、私たちに理由が必要かしら」
 目が眩んだ。同時に心臓が早鐘を打つ。
(私は、弱い)
 強くなんてなかった。ただ、群れることすらできなかっただけなのだ。私のいるべき場所は、ここではないと自分自身に言い聞かせ、どこかに、誰かに、救いを求めていただけだったのかもしれない。だから私は、暗闇のような街の中で、香り高く咲く百合に心を奪われた。
「私たち、今日初めて会ったのに、おかしい……でしょうか」
 じんと痺れ、蕩ける頭で、抗う。常識だとか、道徳だとか、思いつく限りのものに。そんなことに、もはや意味なんてないけれど。
 彼女は何も言わなかった。
 ただ、変わらぬ微笑を浮かべたまま、形の良い唇を、私の手の甲に軽くあてた。
 揺れる灯り。静かなキス。
 そっと唇が離れてゆく。小さな赤い花弁を残して。そこには確かに、細い糸が繋がっていた。
「おかしくなんてないわ。だって、シンデレラは、初めて出会った王子とたった一晩で恋に落ちたのよ」
 ――私のこれまで生きてきた世界なんて、本当にちっぽけだった。そこから抜け出したばかりの私が、この街で出来ることなんて、きっとまだなかっただろう。でも、それでも今は、彼女のためならばどんなことだって出来る……そんな気さえする。これは、私がこども故の、ただの強がりだろうか?
 私は頭を左右に振って、浮かんできた考えを打ち消した。
 グラスをとり、その中身をぐっと飲み干す。
 幾分かぬるくなってしまったそれが、とろりと私の喉を流れていく。体の内から、弾けるような甘さに浸った。ふわり、漂う百合の香りを強く意識する。
 そうして再び私は、妖しい夢に囚われた。
 舞踏会に足を運んだシンデレラも、きっと、私と同じような夢を見ていただろう。
(ああ、この夢が、長く続きますように)
 冬の街で見つけた、冷たい風の中で凛と咲く百合の花に、いつまでも寄り添っていたいと、私は願った。

(了)

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