にわかぱんだ好きに興味ありません。＃１
「ねぇ、篠沢君って動物行動学が専攻だったよね？」
数えるのも億劫になるほど、何度も耳にした言葉。研究資料の書籍に目を通していた最中だっただけに、突如として現れた女性の台詞は、余計に篠沢の苛立ちを誘った。
心中では小さく舌打ちをしつつも、
「そうだけど」
表面上ではそれを悟られることのないように、短く答える。
大学院の第二講堂。その最後列、窓際。
この大学院で動物行動学を専攻ている篠沢朝希は、この席が密かなお気に入りだった。
窓の外には古い大木が聳えていて、講堂内にやわらかな影を作り出す。少しだけ窓を開ければ、その大木によって生み出された微風が体を包み込む。
講堂の中でもとりわけこの席だけが、素晴らしい心地よさをもたらしてくれるのだ。
「……なんだけどぉ、それでぇ……」
耳障りな、空気の振動。
先ほど現れた女性の存在を、嫌々ながらも数十秒ぶりに認識する。
名も知らぬ女子学生。場を弁える配慮の欠片も持ち合わせていないのか、胸元の広く開いた丈の短いワンピースを身に着けている。指には派手な色のリング。自身の女を強調するように、机に肘をつき、前傾姿勢で篠沢を上目遣いに覗き込む。
篠沢は、女の媚びた態度こそ悪であると信じて疑わない。だから世間でいう『イマドキノオンナノコ』に、全く興味がなかったし、むしろ嫌悪感さえ抱いていた。勿論、それに属する友人などいない。つまりのところ、現在篠沢にアプローチをかけているこの女性は知人であるはずもなく、視界に入れたことがあるかすら怪しい。
似たような状況を、篠沢は過去に数回経験している。全ての誘いを断っているというのに、何故こうも次から次へと懲りない輩が寄ってくるものなのか。 それは篠沢の最近の悩みの種の一つで、なにかに呪われているのかもしれないと本気で考えたこともあった。
うつにならないうちに開放されたいものだ。
それが篠沢の切実な願いだった。
「ていうかぁ、動物好きなのぉ？ 私も好きなのよねぇ。猫とか犬とかぁ」
が、その願い空しく女性が口を閉ざすことはない。
頭の奥が、ズキズキと痛んだ。
そもそも彼女は自分がどのような意図で言葉を紡いでいるのか、自ら理解しているのだろうか。それとも最近はこんな端的な喋り方が流行しているのだろうか。
どちらにしろ篠沢には到底理解し得ない領域であったし、かといってそれが理解できるような思考回路が欲しいとは、ほんの少しも思わなかった。
「あ、あと」
なんだ、まだ何かあるのか。
いい加減にしてくれ。心の中で大きく溜息をつく。
「パンダとかもかわいいよねぇ」
途端、空気が凍った。
篠沢が放っていた嫌悪に満ちた気が、一瞬にして拒絶に変わる。空気の読めない女性でもそれぐらいは感じ取ることができるのか、目の前の男の急激な変化に気づき、びくりと肩を震わせた。
何の事情も知らなかったとはいえ、この女は篠沢の不可侵の部分に触れてしまった。それはもう変えようのない事実であるし、例え彼女が、その不可侵部が何だったのかに気付き、謝罪したとしても、篠沢の怒りは収まらないだろう。 ──勿論わざわざ警告してやるほど、篠沢も冷静ではない。
ガタン。
静かに席を立つつもりが、湧き上がる怒りからか講堂中が振り向くほどの音をたててしまった。室内にいたほとんどもの者が篠沢に視線を寄せる。
──しまった。
思ってはみたが、喉まで出かかった言葉を飲み込めるわけもない。そんな思慮深さは、篠沢の絶対領域を侵された瞬間から消え失せている。
「あのさ」
初めて合わせる視線。厚く塗りたくった化粧がさらに怒りを誘う。
「え、あ、なに？」
これまで反応のなかった篠沢から声をかけられ驚いたのか、呆けたように女が返事をした。
この女はきっと何も解ってはいないのだろう。そしてこれからも一生気付かないのだ。
最大限の皮肉を込めて。
「僕は霊長目ヒト科の雌に、興味ないから」
彼女に贈る、心からの捨て台詞。
けれどその皮肉すらも、理解できないのだろう。
愚かだ、と篠沢は思う。
机上に広げていた資料を小脇に抱え、篠沢は足早に講堂を去った。
真夏の空気に満ちた廊下に出てすぐに、そういえばこの後の講義を受けるつもりでいたのを思い出す。しかしまたあの場に戻るわけにもいかず、しょうなしにとぼとぼと歩きだす。
人通りのない廊下を行く背が哀しい。
篠沢はがっくりと肩を落とした。
＊＊＊＊＊
「で、そのまま研究室に来たってワケ？」
デスクに向かってなにか書き記しながら、男は豪快に笑った。
逆井真之。篠沢が所属する辻研究室の室長であり、篠沢と同じく動物行動学を学んでいる。
どちらかといえば華奢な体型の篠沢に比べて遥かに体格がよく、研究者というよりスポーツマンと呼ぶほうが相応しい気さえする程だ。
「お前はパンダのこととなると人が変わっちまうからなぁ」
逆井はデスクチェアを回転させ、ドアの前に立ちつくしていた篠沢のほうを振り返った。
短く刈った髪。羽織った白衣は世辞にも似合っているとはいえない。
それよりもさらに似合わないことといえば、彼の研究対象がウサギだということだろうか。
「そんなに好きでもないくせに、人の興味をひこうとしてパンダ好きを騙るなんて、許せません」
不貞腐れたように篠沢は漏らす。
彼の研究対象はいうまでもない。
『哺乳網食肉目ジャイアントパンダ科に属する白黒の動物』
二十五歳にもなる成人男子が、自宅ではパンダのドキュメンタリー番組を繰り返し鑑賞し、感動の涙を流しているなど、それこそ先ほどの女性を始めとする篠沢に興味を持った人間は、誰しも想像だにしないだろう。
「お前のパンダ狂ぶりを知ってたら、その女の子も近づいてこなかっただろうに」
「そりゃそうです」
どうやら本人に多少は自覚があるらしい。
呆れたように溜息混じりに答えると、篠沢は自身のデスクに座った。
広い事務用デスク上には、これまでに掻き集めた研究資料が山の如く積み上げられている。雪崩をおこさないように、その中の一冊をそっと手に取った。
付箋の付いたページを捲れば、すぐに篠沢のお目当てに辿りつく。
目に痛いほどの、はっきりとしたモノクロカラーのコントラスト。黒い毛の中に隠された丸い目。申し訳程度に付いている小さな尻尾。篠沢には、全てが可愛らしく思える。
動物園で初めてパンダを見た日から、篠沢はすっかりこの生き物の虜なのだ。
「今度からは、白衣の前を開けとけよ、お前」
図鑑のパンダに陶酔する男に、逆井はにやりと口元を歪ませて言った。
「……発言の意図が分かりませんが」
「服。明らかに歩く広告塔じゃねぇか」
すっかり妄想の世界に旅立っていた篠沢も、その言葉には眉を潜める。指摘されたとおりに、自身の白衣の釦を外してみる。
薄い黒地のタートルネック。
周囲からは、見ているだけで暑苦しいと苦情が出ることもしばしばだ。
しかしタートルネックとはいえ、白衣を脱いで見れば何のことはない。袖が短いのだから別段暑くもないわけである。
さらには表面にパンダのプリントが施されており、篠沢のお気に入りの一着となっている。ちなみに中国物産展で千円で購入したものだ。
「……これのどこが広告ですか」
篠沢の一言に、目を丸くする男が一人。
まったくもって信じられないといった様子で、
「それ、本気で言ってんのか？」
恐る恐る訊けば。
「は？ 逆井室長こそ、頭おかしくなったんじゃないんですか？」
逆に反感を買う始末。
静まり返る研究室。窓の外は夏の日差し。
デスクの上に飾ってあったパンダのぬいぐるみが、コテンと転げて、床に落ちた。