陽炎

にわかぱんだ好きに興味ありません。#2



 先日の一件以来、結局篠沢の白衣は、合わせをとめずにだらしなく開け放たれたままだ。
 あの後、逆井が『とりあえずやればわかるから』としつこく薦めるものだから、篠沢は半信半疑ながらも行動に移すことにした。
 一日経ち、三日経ち、今日で丸一週間が過ぎようとしている。
 ──どうやら、逆井のいっていた広告とやらは、本当に効き目があるらしい。
 あれからというもの、篠沢は女性から声をかけられることはおろか、僅かな視線すら感じることがなかった。
 同じ学部の友人には、
「見かけによらず可愛い趣味してるんだな」
 笑顔で肩を叩かれることもあったが。
 しかしそれも今回の行動故に、自身のことをより一層理解してくれたからだろう。
 素晴らしい友人を持ったものだ、と篠沢は上機嫌だった。
 これで篠沢の邪魔となるものはなくなったわけである。
 静まり返ったキャンパス内に、蝉の合唱が溢れかえる。開け放たれた正面玄関から、暑い夏の空気を連れて、それは篠沢の元まで届いてきた。
 室内にいても、その鳴き声が耳に入るだけで、熱線にじりじりと灼かれているよう。
 ジュワジュワと枯れた声で夏をうたう様はどうにも苛立ちを誘う。しかしそれは、たった一週間の命の輝き。そう思うと、怒鳴りつけてやりたい気持ちも、広く青い空に溶けるように消えていった。

「室長」
 熱の篭る窮屈な室内。南向きの窓からは真直ぐに日差しが差し込んでいる。
 デスクに向かう二人の間に流れる沈黙。早朝から続く重い空気に限界を感じたのは篠沢だった。
「あ、お前喋ったから負けな」
「……もとから勝負なんてしてませんけど」
 故意に口を閉ざしていたつもりもないだろうが、逆井も内心沈黙に堪えられなかったのだろう。
 篠沢の開口一番のたった一言に、嬉々として冗談で返した。
「なんだ、ノリ悪いな。俺に冷たくしてもクーラーは直らんぞ」
 二人が所属する辻研究室。大学院側からは、南棟四階の空き部屋を割り当てられていた。
 そこは長期間にわたって使用されておらず、研究室の面々が足を踏み入れた瞬間、埃のブリザードが侵入者を襲った。ほんの四ヶ月前のことだ
 勿論現在では――主に篠崎一人の手によって――綺麗に掃除され、塵ひとつ落ちていない。けれども、どうやらその溜まりに溜まった埃が原因で、大切なクーラーが壊れてしまったらしい。
 その問題が判明したのが二週間前のこと。
「クーラーか……。教授、いつ帰ってくるんでしょうね」
「現実逃避はよせ。一昨日届いた葉書に書いてあっただろ」
 この研究室は、教授である辻喜八郎が気に入った人材を集めて作ったもので、辻本人が筆頭者となっている。次いで助教授の蒔田耕作が籍を置き、さらに院生である逆井と篠沢が在籍している。
 逆井が室長を名乗っているのは、留守がちの教授から研究室の代表代理を命じられているからだ。実際は代表代理といっても特段すべきこともなく、既に肩書きだけの存在に成り下がっているが。

 辻が不在なことは、今に始まったことではない。
 彼の研究は『熱帯雨林の独自生態系』を専門にしており、その筋の第一人者でもある。しがない院生の二人には知る由もないが、学会でも名の知れた学者だ。
 そんな辻が、つい一年前に結婚をした。今年45歳になる彼に対し、訊けば相手は21歳になったばかりだという。逆井達も一度対面する機会があったのだが、どちらかといえば地味な部類に入る辻には勿体無いくらい可憐な女性だったことには、二人ともが揃って驚愕した。
 しかしそれ以上に周囲を驚かせたのは、彼女が趣味とするもの。
 辻喜八郎の妻、辻由依子。
 趣味は、『原住民と友達になること』
 喜八郎との出会いは、南米のとある密林だったという。
 彼女との出会い以降、二人は連れ立って頻繁に海外へ行くようになった。
 しかし何度目かの出発の際に、喜八郎は言ったのだ。
「どうもね、荷物が多くて。蒔田君、これ運んでくれるかい? アフリカまで」
 由依子と喜八郎は、互いの目的のために連れ立っているだけではない。いつの間にか、旅行も兼ねてのフライトになっていたらしい。
 旅行となると荷物も多い。喜八郎は、蒔田を荷物持ちとして強制連行してしまった。
 こうして辻研究室は、逆井と篠沢の両名を残すのみとなってしまっている。

 旅立ってしまった辻から、日本に残る二人に一枚の葉書が届いたのは、逆井の言うとおり二日前。
 表面は何の変哲もない。研究室宛の旨が書かれている。送り主の欄は、「辻 イン ジャングル」などとふざけた内容になっていたが、それは今に始まったことではないので、逆井も篠沢もあえて触れないのが暗黙の了解になっていた。
 しかし問題はその裏面。ぺらりと指先でそれを捲ると、まず飛び込んでくるのが鬱蒼とした森林の深緑。次いで葉書の中央には、笑顔で寄り添う辻夫妻。そしてこれが原住民なのだろうか、夫妻を取り囲むようにして槍を構えた男たちが、その黒い肌によく映える白い歯をむき出しにして、満面の笑みを浮かべていた。
 さらに葉書の端にたった一言。
『しばらく帰りません』
 それだけ記されていた。
 研究室の設備は、基本的に教授の許可なく修理交換はできないことになっている。
 つまりその一言で、研究室で涼みながら論文に取り組むという二人の希望は、潰えてしまったのだ。
「……日本の気候は、パンダに優しくないです」
 篠沢がぽつりと漏らす。
「それを言うならウサギにだって優しくねぇ」
 そして沈黙。
「そういえばウサギ、好きでしたね」
「……ああ」
 互いに背を向けたままでの応答。哀愁漂う白衣越しの背に、じわりと汗が滲む。
 篠沢がふと、デスク上に陳列されている陶器製のパンダを手に取った。裏返せば、パンダの腹の辺りにはプラスチックの丸い蓋。指先で器用にそれを開けると、数枚の小銭が軽い金属音とともに篠沢の掌に落ちた。
「飲み物でも買ってきます」
 小銭を握りしめ、そのまま席をたつ。身に着けていた白衣をデスクチェアに掛けると、未だデスクに向かってペンを走らせている逆井に声をかけた。
「何か飲むなら奢りますけど」
「お前……良い奴だな。じゃあお言葉に甘えて」
 逆井が喜色満面で、篠沢を振り返る。しかし、
「あ、ただし種類は選べません。僕の独断により決定しますので、あしからず」
 いつにもない爽やか笑顔で篠沢が告げると、途端に逆井は顔を青くした。
 それに気づきつつも、篠沢は何食わぬ顔で研究室のドアに手をかける。
 廊下に出、静かにドアを閉める瞬間、室内の逆井が
「せめて、冷たいやつに……」と呟いた。
 二十六歳の男の、本気の懇願。
 人通りのない廊下で、篠沢は思わず声を出して笑った。

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