月読堂のドアベルは鳴らない

 翌朝早く、月読とは顔を合わせないまま店を出た。休日の彼は昼前まで自室から出てこないことも多いので、さほど珍しいことでもない。

 御加美はまず実家へとバイクを走らせ、家族の様子を伺った。出勤前の両親と、登校準備に追われる弟たちに変わりがないことを確認だけしてから、すぐに実家をあとにする。長居はしない。家族のことは大事に思っているし、後ろめたいことがあるわけでもないが、生活基盤がすっかり月読堂に移ったからか、自分の家なのに他所のような居心地の悪さを、御加美自身が感じるようになってしまったのだ。

 実家を出ると、昨晩地図にマークした場所へと向かう。一時間ほどの道程だ。目的地へ近付くほどに、民家が減っていく。林道の入り口には、民家はおろか右も左も青く繁った木々で覆われていた。

 林道に沿ってゆっくりとバイクを走らせる。舗装はすぐに砂利道へと変わった。オフロード仕様のタイヤはそこを難なく進んでいく。十分もしないうちに、それも途切れた。正面には国有地である旨の記された看板が立つ。奥は草が繁ってはいるが、人ひとり通れる幅だけ、僅かに草丈が低くなっている。野営が趣味の御加美にとっては、それだけで充分立派な道だ。

 バイクを停め、荷物を背負う。下見のため重量は軽い。山は近いが低い場所を探すつもりなので、身に付けているのもライダーブーツとジーンズ、上はライダージャケットに薄手のレザーグローブと軽装だ。跳ねた枝から目を保護するために、普段使用している丸眼鏡をかけた。

 躊躇なく草むらを掻き分け、進んでいく。間伐のされていない森はほの暗い。込み合った木々の隙間から落ちる陽光を眩しく感じるほどだ。それでも、眼鏡レンズに入った薄いグレーが緩和してくれる分、目は楽だった。

 暫く歩くと、水の流れる音が聞こえてくる。沢が近いのだろう。水辺は野営地としては格好のポイントだ。歩を進めるにつれ、音も近くなる。そのうちに、道のすぐ脇に沢が現れた。水量は少ないが、周辺には角の取れた小さな石が多く転がり河原を形成している。

 御加美は荷のサイドポケットから赤いビニール紐を取り出し、手近な木に結びつけた。

 木のそばから沢へと降りる。水が跳ね、ぱしゃ、と飛沫が散った。

 河原を見渡す。ひとり用のテントを広げるだけのスペースは確保できそうだ。道はすぐそばにあるため、急な雨で増水してもすぐに避難できるだろう。条件でいえば、次回の野営地をこの場所に決めてしまっても何の問題もない。だのに、奇妙な落ちつかなさを覚える。

 ここではない。何故かそう感じたのだ。

 御加美は、スマートフォンを取り出した。地図アプリを開くと、現在地が青い丸で表示される。

「近い……」

 画面に表示された地図の端に、赤い旗。昨晩、月読が指した場所だ。御加美のいる場所からは、沢を登った方向にあたる。さほど離れてはいないようだった。

 目線で沢の上流を辿る。森はより深く暗くなっていく。奥の茂みが、微かに音をたてて揺れた。心臓が、ど、と跳ねる。

「ッは! ビビってんなよ、柄でもねぇ」

 吐き捨て、己を奮い立たせる。恐れる必要などない。自身を脅かすものなど、ありはしないのだから。

 ――本当に?

 ふと、月読の顔を思い出す。昨晩、食卓で見せた微笑。ぞ、と背中に悪寒が走った。

「……行けっつーのかよ、くそ」

 重い足を、上流へと進めていく。

 時折、沢に足が浸かる。ブーツ越しに、水の冷たさが感じられた。

 流れに逆らい歩き続ける。さほど長い時間ではない。だが、全身の筋肉を酷使したあとのように気怠かった。

 それは唐突に、御加美の視界の中心に現れた。

 沢から少し上がった場所に、黒い塊。うぞうぞと蠢く何か。

 息を飲む。幸いにも、それとのあいだにはまだ距離があった。

 眼鏡を頭の方へずらし、本来の色で対象を捉える。視力が著しく低いわけではないが、それでも暗い場所で少し離れたものを見ると、多少ぼやけてしまう。僅かに目を細める。

 ひとつの塊と思われたものは、複数の動物だった。毛色からして、恐らくは狸だろうと、御加美は察した。そこで狸らが何をしているのかも。

 山の中で一ヶ所に複数の動物が集まっているのだから、目的はひとつしかない。『食事』だ。

 山中で野営することを好む御加美だが、野生動物の食事風景をこれまで見たことはない。だが、実際目にしたところで、特段嫌悪感が湧くこともなかった。それは、雑食の野生動物が貪るものは、同じく野性動物の死骸で違いないと確信していたからだ。食い散らかされた動物の死骸だけなら、これまで数えきれないほど目にしてきた。目の前の光景も、それと何ら変わりない、と。――だから、安堵した。何の疑いもなく。

 御加美の気配に気付いたのか、狸が周囲の茂みに散り散りに飛び込んでいった。

 その場に、『餌』と御加美だけが残される。

 そうなって初めて、御加美はそれに強い違和感を覚えた。

 動物の死骸にしては体毛がない。食い散らかされ、ほとんど原型を留めていない肉と骨になってはいるが、それにしても妙だ。周辺に散らばる黒いビニル片、そしてその一部であろうものが、肉と骨の下に敷かれている。

「おいおい……勘弁してくれ」

 近付いてはいけない。頭の中で警鐘が鳴る。だが、御加美の足は勝手に動いていた。それに向かって。

 頭の一部分が麻痺したようだった。思考と行動が一致しない。

 同様のことが、以前にもあった。

 御加美の末弟が行方不明になった際のことだ。たまたま知り合った月読が、探し物があるならと鏡を視た。そしてある場所を告げられ、半信半疑のまま御加美はそこへ向かったのだ。近くまで来たとき、突然身体が操られたような感覚に陥った。そして月読が示した場所で、御加美は弟を見つけたのだ。

 ――あの時と今。あまりに状況が似すぎているのではないか。

 では、この先にあるものは。

 背中に冷たい汗の感触。

 ブーツの底が、枯れた枝葉を踏みしめる音。

 それとの距離が徐々に縮まる。

『探し物をしているんです』

 昨日の女の顔が思い浮かぶ。

 土のにおいに混じって、微かな腐臭が鼻を掠めた。

 敷かれているのは、元々黒のビニル袋だったのだろう。はっきりとそう判別できるほどの距離。

 大きく破れた袋から覗くのは、赤黒く変色した肉と白い骨、萎びた皮――それは恐らく、かつて御加美の肌と近い色をしていたはずだ。

 そばには、赤いパンプスが一足、落ちていた。

 

「月読!」

「ああ、おかえりなさい。御加美くん」

 御加美が店に戻ったのは、すっかり日が暮れてしまってからだ。

 月読はカウンターの中で椅子に掛けていた。青白い顔をして帰宅した御加美を見ても、普段と変わらない微笑を向けてくる。その表情に、御加美から舌打ちが漏れた。

「お前、あそこに何があるのか知ってたな? だからキャンプ地なんて嘘ついて俺に行かせたのか」

「嘘? 私はただ『良さそうな場所』と言ったまでですよ」

 カウンター越しに詰め寄るが、月読は悪びれもしない。それどころか、御加美から目を逸らし、手にした布で何かを磨き始める始末だ。

「――その調子だと、見つかったみたいですね。良いもの」

「良いもの! はっ、あれが? っざけんな、マジで。足だぞ、人の足! 死体見ちまうわ、警察に事情聴取されるわ、最っ悪だ」

 山中で発見したものの正体を理解した御加美は、すぐに警察に通報した。状況から、御加美が犯人扱いされることはなかった。それでも何もない山中にひとりでいたことの説明を求められ、あれやこれやと取り繕い、心底疲弊した。あの山に入った理由が、月読に勧められたからだとは話せなかった。言えば、月読が疑われることになるのは明白だ。それは御加美にとって本意ではない。

 しかし、だからといって、事情を把握したうえで、御加美を山に向かわせたことに対する怒りが収まったわけではない。

 御加美が散々に憤っているあいだ、月読は手にしたものを磨いているだけだった。

「いいじゃないですか、人助けですよ。彼女、喜んでましたし」

 御加美が大方言い尽くした頃、月読はようやく腰を上げた。布を椅子の背にかける。手に持っていたのは、白銅鏡だ。昨日はやや黒ずんでいたが、彼が磨いたためか、すっかり艶を取り戻していた。綺麗な円形の銀色は、満月のように妖しく輝いている。

「彼女って」

「昨日のお客様ですよ。今日の昼間、飲み物の代金を持ってきてくださいました。あなたにも『ありがとう』と仰ってましたよ」

 御加美は彼の言葉が理解できなかった。否、頭が理解を拒んでいたという方が正しいか。

 人助け? 昨日の女性が喜んでいた? ――一体、何に対して?

 謝礼の言葉は――昨日、飲み物を出したから?

『私、探し物をしているんです』

 昨晩の幻聴が、頭の中で甦る。

「おいおい……昨日の子は……生きてただろ?」

 御加美はゆっくりと問うた。

「御加美くん」

 月読がカウンター越しに、御加美をまっすぐに見つめてきた。銀色の眼鏡の奥に、闇がある。足元がふらつく。小さな闇に、深く落ちていくような錯覚。

「あなたは彼女の足、見ました?」

 は、と我に返った瞬間、全身が一気に粟立った。

「これ、昨日の代金です」

 右腕を取られ、開かせられた手のひらに、硬貨らしきものを握らされる。

「あと裏口なんですけど、明日業者に塞いでもらいますので、もう出入りはできませんよ。ついでに入り口のベルも、新しいものに換えてもらいましょう」

「何で、急に」

 呆然と立ち尽くすしかない御加美に対し、月読の口調は軽い。

「それが、裏の通りで女性の死体が見つかったそうなんです。物騒ですから、防犯もしっかりしておかないと」

 物騒、と口にするには程遠い、爽やかな表情だった。

「その死体には――」

 御加美は、視線を落とした。固い感触を内包した手のひらを、ゆっくりと開いていく。

 その真ん中には、五百円硬貨が一枚。表面は、所々赤黒く汚れている。

「足がなかった……のか?」

「さあ……。御加美くんは、どう思いますか?」

 御加美の問いに、さらなる問いかけで返してきた月読の顔を、御加美は見ることができなかった。ただ、汚れた硬貨をぼんやりと眺めながら思うのだ。

 これからも、喫茶月読堂のドアベルが鳴ることはないのだろう、と。

(了)

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