偽星に願いを

 すべてを悪い夢にしてしまいたかった。
『――悪い。それだけは、無理だ』
 しかし彼の声は確かに耳の奥にこびりついていて、その残響が僕の胸を鋭く何度も切りつけている。
 鈍重な足取りで、一体どこをどう歩いてきたのか。僕は人通りの少ない、レンガ敷きの狭い路地に迷い込んでいた。
 ――そもそも、どこから来たのだったか。
 ――何のために、こうして歩いていたのだったか。
 もやがかかったように、頭の中がはっきりとせず、記憶が酷く曖昧だ。
 額を手で押さえる。
しかし、身体は僕の意思とは関係なしに、どこかへと向かっているようだった。
 しばらく路地を歩くと、足は突然ぴたりと歩みを止めた。
「ここは……」
 古ぼけた木製の扉。路地と同じレンガ造りの外壁。ガラス窓からは、温かな橙色の明かりが漏れている。
 窓のそばには電光看板が設置してあるが、店名とおぼしき文字は、掠れて読み取ることができない。ただ、カップらしき絵がうっすらと見えているから、恐らく喫茶店なのだろうと想像はついた。
「いらっしゃいませ」
 え、と思わず口から声が漏れる。
 瞬間、芳醇な焙煎香が鼻腔を満たす。
 目の前に、白いシャツと黒いサロンを巻いた男が立っていた。
 男の背後に広がるのは、路地ではなく、まぎれもなく喫茶店の店内だ。
 僕は一体いつ扉を開け、中に入ったのだろう。考えても、路地を歩いていた時と同様に、何も思い出すことができない。
 ただ、どうしてかこの店を出ようという気にはなれなかった。同時に、出てはいけない気もしていた。
 天井から下がった、金属製のカモメのモビール。
 壁際の棚に置かれた、色褪せた天球儀。
 レトロな調度品で整えられた店内のあちこちに、様々な雑貨が飾られている。
「お客様、お好きなお席にどうぞ」
 白いシャツの男は、どうやらこの店の店員らしい。
 促され、店内を見やる。
 常連風の老紳士が、カウンターでカップを傾けている。他に客はいないようだ。
 モビールの下の席に座る。頭上で揺れるカモメの模造品が、キィと鳴く。
「当店のメニューでございます」
 テーブルに革表紙の冊子が広げられた。
 クリーム色の紙面上に、横書きでメニューが書かれている――らしい。しかし僕には、内容を判別することができなかった。書かれているものすべてが、ぼんやりとその形を崩していたからだ。
「すみません、あの……これ、滲んでしまっているみたいで」
 立ち去ろうとした店員を呼び止める。
 彼はちらと振り返ると、
「大変申し訳ありません。少々お待ちください」
 微笑を浮かべ、メニューを残したままカウンターへと向かった。
 ふと見上げた木製の壁には、くすんだ金属フレームの丸い掛け時計。消えてしまったのか、文字盤の頂点に『12』だけが残っている。時計の針は、九時十分を示しているが、午前なのか午後なのか、そもそもその時間が合っているのか? それすらも分からない。
 海上を舞えない哀れなカモメが、棚の上に飾られた偽物の星々を見つめている。
「お待たせいたしました」
 ぼうっと店内を眺めていると、店員が戻ってきた。しかし、テーブルに置いたのは代わりのメニュー表ではない。
「え、あの、僕、注文はまだ……」
 置かれたのは、一切れのケーキだった。
 飾りのない黒い皿に載せられた、円筒形の黄味の強いスポンジ。それを覆うたっぷりの生クリーム。シンプルな装いを華やかに彩るのは、ケーキや皿に散りばめられている、星型をした薄紫色の小ぶりな花だ。
 テーブルの上に、僕は小さな夜空を幻視した。
「メニューの文字が滲んでおりましたのは」
 紙ナフキンを敷き、フォークを載せながら、店員がちらと視線を寄越した。冬の海のような複雑な青灰色の虹彩に、思わず目を奪われる。
「――失礼ながら、お客様の望みが定まっていらっしゃらないためかと」
「僕の、望み……?」
 彼の言葉を反芻すると、酷い眩暈がした。
 濃いコーヒーの匂いに混じって、微かに潮の香を感じたような気がした。
「古来より、人々は空に煌めく星々に願いを託し、また星の中に過去を視、未来を視、導きとしておりました。店内に本物の星をご用意することはできかねますが……こちらを」
 滔々と語った店員は、指先を綺麗にそろえた手で、テーブルの上をそっと指し示し、
「ペンタスのケーキでございます」
 穏やかに笑んだ。細められた目は優しげで、見ているこちらの心まで落ち着かせてくれる。
「ペンタスの花言葉は『希望は叶う』――食べ終わる頃には、きっとメニューの文字も見えるようになることと存じます」
 まるで操られたように、僕の右手がフォークを掴んだ。銀色のそれで、小さな星が載るように、ケーキを一口大に切り分けた。
「こちらは当店からのサービスでございます。ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」
 フォークで刺した夜空のかけらを、口に入れる。
 スポンジのほのかな甘さ。
 のったりとコクのある生クリーム。
 噛みしめたペンタスの花弁は……ほんの少し、苦い。
 三つの違う味が混ざり合って、喉を下っていく。
 焙煎香の中に、僅かに漂う海の匂い。

    *

 波よ、止まれ。
 大切なものをかき消すそれを、僕は酷く煩わしく感じた。籠りがちな彼の声を、一言たりとも聞き逃すことはできないというのに。
「それ、本当なのか」
 心臓の脈動が早い。
 頭上で優雅に旋回する、数羽のカモメ。
 その鳴き声が、潮騒と鼓動の音に混じり、ノイズとなって、僕の脳内を支配する。
 聞き返した僕に、彼は小さく頷いた。
「ああ……。黙っていて、悪かったな。欠員が出て――急な辞令だったんだ。昨日まで、準備や引き継ぎに追われてた」
 ばつが悪そうに、彼は視線を逸らす。ジャケットの襟を左手で弄ぶのは、言葉を選ぶ際の彼の癖だ。
 平日昼間ということもあり、海沿いの遊歩道にひとけは少ない。僕と彼の待ち合わせは、いつもこの場所だ。何か思い入れがあるわけでもなく、単純に互いの家の中間地点がここだという理由だった。
 彼とは高校の頃からの同級生だ。同じ大学へ進学し、社会人になってからは勤め先こそ違うが、時間を合わせて月に数度は会うような仲だった。
「もう、きみに会えなくなる」
 意図せず地の底を這うような声が口から零れる。
 彼は、ふ、と微笑した。
「一生会えなくなるわけじゃないだろ。たかだか一万キロの距離で、俺たちの仲はなかったことになるのか?」
 ――たかだか。
 胸が破裂しそうだった。彼にとって僕はその程度の存在だっただろうか。十年近い時を共に過ごしてきて、この関係性の中に特別なものを見出してきたのは自分だけなのだと思い知らされる。
「でも……直接きみの声を聴けない、顔も見られない。同じ街に暮らして、別の職場に勤めるだけの今とは違う」
 声が掠れた。
 思わず一歩、二歩、彼の方へとにじり寄る。
 目の前で彼の表情が硬くなっていくのが分かった。
「……おかしいことを。まるで別れた恋人にでも縋ってるみたいだぞ」
「そう、なのかもしれない」
 自嘲気味に吐き捨てる。
 カモメたちが、別れ別れになって飛んでいく。
 悲しげな鳴き声が、波の音を残して遠ざかる。
 鼓動の速さだけが、僕を急き立てていた。
 ふ、と彼と視線がぶつかる。一度は逸らした視線を彼が僕へと戻してくれた、その事実が堪らなく嬉しくて切なくてしかたなかった。
「……おい」
 彼が酷く顔を強張らせる。
 ――その表情の裏にあるのは、恐らく彼にとっては最悪の、そして僕にとっては最良の予感だ。
「僕は、ずっと」
「やめろ、言うなッ」
 珍しく声を荒らげ、彼が僕の腕を掴んだ。
 最悪の予感が現実にならないよう、必死に止めてくれる彼のことを、堪らなく愛しく思う。
 だが、堰を切ったように溢れ出る言葉を、もはや僕自身ですら、抑えることはできなかった。
「きみのことが――」
 震える言葉と共に、涙が溢れ出た。
 空にカモメはもういない。
 潮騒が、耳に煩い。

   *

 右手に軽い衝撃を感じて、反射的に目を見開いた。
 視界に映るのは灰色の海ではなく、木製のテーブルセットが並ぶ喫茶店の店内だ。
 フォークを握った手が僅かに痛む。テーブルの端にぶつけてしまったらしい。
「お怪我はございませんか」
 テーブルを挟んで向かいに立つ店員が、僅かに表情を曇らせている。それを空笑いで曖昧にやりすごした。
 皿の上のケーキに、再びフォークを刺し入れる。
 すぐにそれを、食べきらなければならない気がしていた。
 店員は、佇んだままこちらの様子を窺っている。
 ケーキをまた一切れ、口に含む。
 噛みしめた薄紫の星々がほどけ、甘さの中に滲むほろ苦さが、僕に現実を突きつける。
 形を失ったケーキが胃に落ちると同時に、胸が内から圧迫されるような心地がした。
 酷く不快で、あまりに切ない感覚に、ぼろぼろと涙が流れ落ち、テーブルを濡らした。
 それでも、フォークを動かし続ける。三口目、四口目――ペンタスのほろ苦さがすっかり塩味に置き換わった頃、僕はようやくケーキを食べ終わった。
「お客様。ご注文は、お決まりになりましたか」
 僕がフォークを置くと、穏やかな調子で声をかけられる。どこか懐かしい微笑を浮かべた店員が、ふ、と自身のシャツの襟に触れた。
 その仕草の意味を、僕は誰よりもよく知っている。
「僕は……」
 頭上でまだ揺れている金属製のカモメが鳴く。
 天球儀は、ただ静かに、星々のあるべき場所を示している。
 カウンターに座っていた老紳士が、店員に軽く手を上げて挨拶をしながら、店を出ていった。ドアベルが鳴る。
 僕も店を出る際には、あのドアベルを鳴らすだろうか。
「――すみません」
 がさついた声が出た。口腔内が酷く渇いている。砂漠みたいな喉で、出もしない唾液を嚥下した。
「はい」
 店員の表情は崩れない。きっともう、僕の注文を急かすこともないだろう。
 テーブルに置かれたままにされている冊子に視線を落とす。紙面の文字は、もうはっきりと認識できる。そこに書かれているのが、メニューではないことも。
 僕は大きくひとつ、息を吸った。
「―――」

   *

 薄い曇の向こうから、うっすらと太陽の光が地上に届く。
 潮風が頬を撫でた。波が護岸に打ちつけ、僅かに舞い散る海の残滓が、磯の香を運んでくる。
 二羽のカモメが、海の上で戯れるように飛んでいく。曇り空に溶けてしまいそうなその姿。
 大きく呼吸をすれば、海辺特有の濃密なざらついた湿度が、僕の肺を満たす。
 まぎれもなく、これは現実だった。
 僕の目の前には、親友である彼が立っている。
 今日は彼からの久々の呼び出しで、いつもの待ち合わせ場所へと赴いたのだ。
 彼は僕の目をしっかりと見据えて、そして、ふ、と微笑した。
「はは、一生会えなくなるわけじゃないだろ。たかだか一万キロの距離で、俺たちの仲はなかったことになるのか?」
 彼の言葉を聞いた瞬間、口の中いっぱいに、ほろ苦い味が広がった。
「え、」
 思わず、声が出る。
「どうした?」
 怪訝そうに彼が尋ねてきた。小さく頭を振って、
「ああ、いや……」
 返答を濁す。
 僅かな苦みは、既に舌の上から消えていた。どこか懐かしいあの味を、僕は一体どこで口にしたのだろう。
 無意識的に唇に触れるが、それで何かが思い出されることもなかった。
「……そう、だな」
 覚えていないことなど、考えてもしかたがない。
 そう切り捨てて、僕も彼に向けて笑顔を作ってみせる。
「たかだか一万キロ、だ」
「だろ?」
 その言葉に、彼は気を良くしたようだった。子供のように顔をくしゃりとさせて、僕の肩を力強く叩いた。
 す、と憑き物が落ちたように、胸がすく心地がした。身体がこんなに軽いものだったなんて、僕はこれまで知らなかった。
「時々会いに行ってもいいかな。旅行がてら」
 思いつきに過ぎない提案ではあったが、しかし本心でもあった。
 彼とはもう十年以上の付き合いなのだ。暮らす場所が遠く離れようが、それが一体何だというのだ。連絡の手段はいくらだってある。家庭を持っているわけでもなし、時間はいくらでも自由が利く。
 だから、彼との関係を断つ必要など、どこにもないのだ。
「もちろん。大歓迎だ」
 彼がまた数度、肩を叩いてくる。
 ほんの僅か、胸の内を針で突かれたような痛みがあった。
 不思議に思いながら、その違和感を拭うように手のひらで軽く胸を払う。
「……ありがとう」
 口にした礼は、どことなくしっくりとこない。だが、胸の違和感ごと、ぐっと飲み込んだ。それらは、決して彼の前では吐き出してはいけないものだという直感があった。
「それじゃあ、またな」
「うん……。また」
 彼はまだ準備があるのだと、慌しく僕の前から去っていった。
 小さくなっていく背中を見送る僕の元に、潮の香に混じって、微かにコーヒーの匂いが届く。
 近くに新しくカフェができていたのを、ここに来る途中に見かけたことを思い出す。きっとそこから香ってきているのだろう。帰りに立ち寄ってみるのもいいかもしれない。
 空の雲が割れ、波立つ海に、光の梯子が架かった。
 戯れ遊ぶカモメたちは、その輝きの向こうへと。

(了)

       
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