月読堂のドアベルは鳴らない
喫茶月読堂のドアベルは鳴らない。繁華街に類する立地ではあるが、大通りに面していないため一見客はほとんど入らないし、珍しく来店者があっても、あまりに活躍できないそれは、すっかり錆び付いてしまっているのだ。
そもそも鳴るはずもない代物をいつまでもぶら下げている。つまりここは、その程度の店であった。
金魚鉢を逆さにしたようなガラスシェードのペンダントライトから、室内に落ちる暖色の光。テーブルセットやインテリアは、『カフェ』というよりは店名通り『喫茶』という言葉が相応しいレトロな品が揃う。カウンターの隅に蓄音機が置かれてはいるが、ケースを被せられたままなうえ、うっすら埃が積もってすらいる。
「あー、外あっつ、夏かっての」
錆の目立つ金属製のドアが軋みながら開く。ドアベルがついた客用の出入り口ではなく、カウンターの脇にある裏口だ。
「月読、クーラー入れろ、クーラー」
太い声とともに現れたのは両手にレジ袋を提げた体格の良い男。アップにして固められたほぼ金色のパーマヘアは、まるでライオンだ。目元を飾るのはデミブラウンの丸形眼鏡。レンズは薄いグレーが入り、男の纏う威圧感を増長させている。
二段目までボタンの外された白シャツ。雑に折り返された袖は、金のアームバンドによって落下を免れている。反面、下半身を包む黒いパンツと揃いのサロンに乱れはない。
「おかえりなさい、御加美くん。埃を被っても構わなければ、つけましょうか」
御加美とは違う、穏やかな男声。カウンターの奥、二階へ続く階段下のスペースから、細身の男が顔を覗かせた。色素の薄い肌、闇色の髪と瞳。それを照らす細い三日月のようなシルバーメタルの眼鏡フレーム。服装は御加美と同じだが、こちらはシャツもきっちりと着込み、黒いリボンタイを着けている。
「毎日暇してんだから、掃除くらいしろっつの」
小さく舌打ちしながら、御加美がカウンターに入ってくる。月読は椅子に掛けたままだ。手には文庫本。目線を御加美に寄越しもしない。
「私も忙しいんですよ」
「読書とカトラリー磨きでか?」
呆れた調子で訊きながらしゃがみこむ。
「よくご存知じゃないですか」
悪びれもしない男に、御加美の口から溜め息がこぼれる。
「そんなんだから客が寄りつかねぇんだろうが」
レジ袋の中身をカウンター下の冷蔵庫へと移していく。牛乳、バターとチーズ、パック入りのアサリに海老。狭い庫内は、それだけで半分ほどが埋まってしまった。
「大体、店なんてやらなくてもアンタならもっと別の――」
「御加美くん」
名前を呼ぶ声の調子が変わる。見上げれば、月読はいつの間にか、営業用の笑顔を貼り付けてカウンターに立っていた。
「お客様です」
ちらと目配せされ、慌てて御加美も立ち上がる。
「……あ、ああ。いらっしゃい……ませ?」
BGMも流れていない店内にも関わらず、既にその客は静かに座っていた。裏口からもっとも近い、端のカウンター席だ。
緩くウェーブしたのブラウンショートボブの女性。アシンメトリーネックの白いカットソーに、シンプルなシングルハートのシルバーネックレス。大人びていながらも溌剌とした外見とは裏腹に、表情は暗い。
注文は、と開きかけた御加美の口が、言葉を飲み込む。今、彼女に声をかけていい雰囲気ではないと察したのだ。何しろ、当の女性客は唇を引き結んで、テーブルの上で俯きがちに視線を揺らしているだけ。先に応対をした月読も、注文をとる様子がない。
暫し、沈黙が流れた。重く、停滞した空気が、店内に充満している。時間そのものが止まっているのではないかと、御加美が疑うほどに。
「――御加美くん」
呼ばれ、身体中に一気に血液が巡る感覚があった。は、と小さく声が漏れると同時に、肺に空気が取り込まれる。そうなってようやく、自身が呼吸を止めていたことに御加美は気が付いた。
「何か、甘くて温かい飲み物をお出ししてください」
「……わかった」
仕事、と意識すると、途端手足が動きだす。
冷蔵庫にしまったばかりの牛乳を取り出し、ミルクピッチャーに注ぐ。エスプレッソマシンのスチーマーにかけると、勢い良く吹き出した蒸気がたちまちにふんわりとしたスチームミルクを作りあげる。
カップウォーマーから温まったカップをひとつ。中にはチョコシロップを。そこにスチームミルクを三分の一ほど加えてしっかりと混ぜ、シロップを溶かしてやる。
「あの、私、探し物をしているんです」
「探し物、ですか」
「はい」
御加美抜きで話が進んでいるのを背中で確認しつつ、残りのミルクをゆっくりとカップに注ぐ。
「差し支えなければ、何をお探しか伺っても?」
「それが…………わからなくなってしまって」
ミルクの細やかな泡をチョコシロップとココアパウダーで飾り付けたところで、
「はァ?」
御加美は思わず呆れた声を漏らしてしまった。仕事をするうちに、重苦しく感じていた空気のことなどすっかり忘れて元の調子だ。
「失礼ですよ、御加美くん。――つまりお客様は、どこで無くなったかわからない何かをお探しでいらっしゃる……ということですか?」
「はい」
「部分的な記憶喪失、でしょうか。警察では、探してもらえませんか?」
女性は首を左右に振った。
「それは多分、私にとって大事なものなんです。だからそれがないと、私、どこへもいけなくて……」
「なんだ、なぞなぞかァ?」
月読の横から、どうぞ、と女性の前にチョコレートドリンクを置く。小さく会釈した彼女と視線が合った。
顔色が悪いな、と御加美は思う。唇は凍えたような紫色だ。肌もどことなくくすんでおり、傍目には分かりにくいが小さい切り傷のようなものがあちこちについていた。
――もしかすると、彼女は何か重大な事件に巻き込まれてしまっているのではないか?
「――アレはどうなんだ? 月読……さん」
彼女の境遇を考えるうち、そう口にしていた。
「アレって……?」
女性が問う。
「なんか……占い? みてぇな。俺もそれで、このひとに大事な探し物を見つけてもらったことがあんだよ」
説明しながら、内心失敗したと御加美は気が気ではなかった。女性に告げた事柄に一切の嘘はないし、口止めをされているわけでもない。しかし月読に許可も得ずに話をしてしまったことで、彼に何か不都合があるかもしれないと思ったのだ。
恐る恐る、横目で月読の様子を窺う。穏やかな笑顔は崩れていない。彼が視線で御加美を見上げる。ふ、と僅かに口角が上がるのを、御加美は見た。それを確認して、ようやく安堵に胸を撫で下ろす。
「まあ、そんな大層なものでもないのですが」
「あの……お願いできますか……?」
女性が控えめな声色で、しかしすがるような目で訴える。月読が頷いた。
「わかりました。では少し視てみましょうか」
言って、カウンター奥の棚を探る。カトラリーが収納されているそこから、片手に余る大きさの何かを出してきた。
「それは?」
カウンターの上に置かれたのは、円形の金属板だ。厚みは一センチほど。表面には、植物をモチーフとした繊細な模様の彫り細工。黒っぽくくすんだ色は、如何にも歴史と重量を感じさせる。
「まそかがみ。白銅の鏡と書きます。古代から儀式に用いられてきたもので、現代では神社のご神体として祀られているものを目にする機会があるかもしれませんね。この鏡自体は、私の家に古くからあるものです」
月読の指が、鏡の表面を撫でる。
「これは、装飾があるほうが裏なんですよ。表は――」
徐に返された面は、装飾のあった裏側とは違って銀色に輝き、全く凹凸がない。丹念に磨かれているのだろう。艶やかで、まさに鏡そのものだ。
「綺麗でしょう? まそかがみという名には、真に澄んだ鏡という字をあてることもあるんです。流石に現代の鏡には劣りますが……それでも、よく映りますよ」
銀縁眼鏡の奥、月読の黒い瞳が、光沢のある鏡面を映しだす。
それはまるで小さな闇夜に月がかかったようだった。
「では、ふたりとも目を閉じてください」
鏡を手元に戻すと、月読は言った。
「俺もかよ」
「ええ。御加美くんに見られていると視えるものも視えませんから」
女性は先に瞼を閉じた。それを確認してから、御加美も渋々目を瞑る。
瞼の裏、完全な闇とは言い難い黒に、照明の残像がちらつく。
視界を遮れば、途端に聴覚が過敏になった。
店の外、少し離れた大通りを行き交う車の走行音。電球が明かりを放つ際の、微かな虫鳴り。普段なら気にも留めない音が渦巻き、御加美の頭の中を占拠した。
「はい、もう開けて結構です」
声をかけられ、目を開ける。不明瞭な世界が、ゆっくりと輪郭を取り戻していく。
「……いな、い?」
カウンターの上に置かれたカップの中身は半分ほどに減っていた。それに口をつけたであろう女性の姿はない。音もなく、消えてしまっていた。
「裏口からお帰りになりましたよ」
「はあ? 占いの途中で?」
訝しげに尋ねる。
月読は鏡を元の場所へと戻していた。その表面は、占いをする前に目にした時より黒ずんでいる。
「呼び出しがあったみたいですね」
「ふうん……」
釈然としないものの、目を開けていた月読が言うのであれば、御加美は信じるしかない。彼は冗談や誤魔化しはあるものの、嘘はつかない男であると身をもって知っているからだ。
「って、代金!」
「いいじゃないですか。困ってるみたいでしたし 、一杯くらいサービスしても」
営業スマイルを向けられ、僅かな苛立ちを覚える。御加美は彼のこの表情があまり好きではない。暗にこれ以上の深入りを禁じられている気がするからだ。かといって、彼の懐にまで入り込みたいというわけではない。ただ、全く信用のおけない人物だと思われているようで不快だった。
「ほんっとになあ、いい加減にしろよ月読。慈善事業じゃねえんだ。またろくでもない客が入ってこねえように、あの裏口今すぐ打ち付けたほうがいいんじゃねえか」
「でも、私たちの出入りが不便になりますよ」
「ほとんどこの建物から出ない奴がよく言うぜ」
「はは、確かに」
うまくはぐらかされたような気はしていた。だが、言及するほどのことでもないだろうと、それ以上考えることはやめた。
営業時間中、御加美は店内の掃除に勤しんだ。これからの季節、クーラーなしでは堪らない。月読は当然のように、手伝いもせず座って読書に耽っていた。
数時間経った頃、
「さあて、今日はもう店仕舞いにしましょう」
本にしおりを挟んで閉じると、月読がようやく顔をあげた。
「あ? 閉店時間はまだだろ」
店の壁に掛けられた時計の針は午後五時過ぎを指している。閉店まであと一時間弱。とはいえカフェタイムにすら客が入らなかった店に、夕飯時の来店など到底望めやしないのだが。
「そうですね。でも御加美くん、私何だかお腹がすいてしまって」
「……もう永遠に店仕舞いにしちまえ」
深い溜め息。漏らした皮肉が彼に聞こえたかどうか、御加美には知れない。
月読は読みかけの文庫本だけを片手に、階段へと向かう。
「あ、今日は洋食の気分です」
途中、御加美にひらひらと手を振ってみせる。
「へーへー、オーナー様の仰る通りに」
御加美が憮然と返事をすれば、満足そうに微笑し、二階へと上がっていった。
ひとり残された店内は、異様に広く感じられる。月読は先に上がったが、御加美は戸締まりや片付けをしなくてはならなかった。
視界の端に、裏口の扉。ふ、と女性客のことを思い起こす。音もなく現れ、そして唐突に消えた女性。
彼女は『裏口』から帰ったと月読が話した。座っていた席も裏口に最も近いカウンター席だったため、御加美も『彼女は裏口から店に入ってきた』のだと信じて疑わなかった。
御加美はカウンターから出ると、鉄扉の前に歩み寄った。
ノブへと手を伸ばす。金属の冷たい感触。ぐ、と手首を捻り、それを回す。微かな手応え。そうしてゆっくりと、手前へと引く。
悲鳴に似た金属の軋み。
裏通り特有の、ほのかに冷たく汚泥が絡んだような臭気が、御加美の肌に、鼻腔に、べたりと触れた。
御加美は四人兄弟の長男だ。末の弟が産まれたのは、御加美が実家を離れたあとで、歳も二十近く離れている。勤めもあり、実家へはあまり顔を出せなかったが、それでも御加美は幼い弟を溺愛していた。
一年前だ。六歳になった末の弟が行方不明であると、父親から連絡が入ったのは。
警察と家族で方々探した。御加美に至っては仕事を辞めてまで捜索に加わった。しかし発見には至らなかった。
二週間、ろくに眠らず探し回った。もはやどこを探せばいいのか判断もつかなくなっていた御加美が、ふらふらと訪れた先で出会ったのが月読だ。
月読との出会いから僅か数時間で、弟は発見された。行ったことも聞いたこともない街で、だ。
月読は、視ただけだ。銀の鏡を。それだけで、見ず知らずの人間の居場所を言い当てた。
そのカラクリは御加美には解らない。だが、月読が恩人であることは間違いない。
職を辞していた御加美は、月読の誘いで、彼が経営する喫茶店で雇われることとなった。住み込みで、彼の生活一切を面倒見ることを条件に。
「明日の休みはどこかへ?」
喫茶月読堂の二階が、二人の住居だ。
ダイニングテーブルには、魚介と野菜がたっぷり入った冷製クラムチャウダーを中心にバケットとサラダが並ぶ。スプーンですくったスープを口に運ぶ合間に、月読は向かい合わせに座る御加美に視線を寄越した。
「あー……」
御加美は少し思案してから、生野菜をフォークで雑に掻き込んだ。咀嚼し、飲み込んでから、一呼吸置く。
「実家寄ってから、次の野営の下見でもすっかな」
野営――単独キャンプは彼の趣味ではあるが、元から組まれた予定ではない。単なる口実だ。ただ一時、この場所から離れるための。
「そうですか。実は知人から良さそうな場所があると聞いたんですが」
「へえ、アウトドア趣味の……というか連絡取り合ってるヤツいたんだな」
スープボウルを片手に、心底意外そうに目を丸くする。
何しろ、月読はほぼ外出しない。彼が外に出ている姿を御加美が見たのは、初対面の時くらいなものだ。それに加え、この情報化社会に生きていながら、スマートフォンはおろか携帯電話すら持っていない。御加美が知る限り、外部からの個人的な連絡といえば月に十数通の郵便物のみだった。
「失礼な」
こちらはこちらで、心外だ、と僅かに眉をひそめる。厚めに切られたバケットが口に運ばれ、小気味良い音をたてて噛み千切られた。
「冗談だって。で、どこにあるって?」
「ちょっと待ってくださいね――」
言って、暫し無言で残りの料理を片付けていく。それから食器をテーブルの端に寄せ、あらじめ準備しておいたらしい地図を広げた。どうやら隣市のものらしい。
「この辺、ですね。恐らく」
「恐らくってなんだよ」
月読が指差したのは、隣市の外れにある森林。地図の表記では、そばにある標高の低い山の裾まで、この森の中を道路が通っている。
「でもまあ、バイクで一時間半くらいか。日帰りで下見するには距離的にもよさそうだな。さんきゅ、ちょっと見てくるわ」
スマートフォンの地図アプリを開き、彼が指した場所をタップする。画面上に目的地を示す赤い旗が立った。
「ええ、是非そうしてください。良いものが見つかるといいのですが」
地図を筒状に丸めた月読の顔に、笑顔が貼り付いていた。
御加美の心臓が、大きく不穏な脈を打つ。月読の表情が、普段自分へと向けられるものとは違うと気付いたからだ。店のカウンターに立つ際の、所謂営業スマイルに近い。不快感以上に、得体の知れぬ恐怖をかきたてられた。
「ごちそうさまでした。今日も美味しい食事をありがとうございます」
「お、おう」
御加美の動揺をよそに、月読は何食わぬ顔で席を立つ。
「では、私は部屋に戻ります。明日は朝食は結構ですから、くれぐれも気を付けて出かけてくださいね。弟くんにもよろしくお伝えください」
「……わかった。おやすみ」
「おやすみなさい。御加美くん」
そうして何事もなかったかのように、食卓を去っていった。
ひとり残され、脱力したように椅子の背にもたれかかる。酷く身体が重い。このまま眠ってしまいたいとさえ思う。
天井を仰いで目を閉じた。瞼の裏側から漏れ透ける、蛍光灯の淡い光。
――静かだ。何の音もしない。ぞっとするほどに。
『私、探し物をしているんです』
「――っ!?」
全身が痙攣したように跳ねる。膝が当たったテーブルが揺れ、陶器のぶつかる音がした。
部屋を見渡す。誰かがいるはずもない。当然だ。この建物には御加美と月読の二人しか暮らしていない。だが、御加美は確かに聞いた。昼間の女の声だ。一瞬眠ってしまって見た夢の中で聞いたのか、或いは――。どうであれ、御加美に判別するすべはない。
深く溜め息をつく。ちら、とテーブルを見やった。二人分の食器が当然のように残されている。そこにある確かな現実が、僅かな安堵を御加美に与えたのだった。
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