終わる夏と終わらないもの

 正直、露天屋台で売られている食べ物に、あまり良い印象はない。粉物であればまだしも、イカ焼きなんて、冷蔵庫もない野外で一体どんな保管をされているか分かったものじゃない。保冷材と共にクーラーボックスに入れておいたとしても、開け閉めを繰り返すだろうし、何時間にもわたって夏の空気の下に晒しておくのだから、そのうち温もりもするだろう。焼いてタレを塗れば問題ない、ということなのかもしれないが、日常的な感覚のままでは、進んで食べようという気にはならないだろう。

 しかし、そんな感覚すらも狂わせてしまうのが、祭りという独特の空気なのかもしれない。

 和楽器による調べ。吊るされた提灯からこぼれる橙色の灯り。屋台の店主の威勢のいい売り口上。辺りに漂うのは、炙られたタレのにおい、はじけるザラメの甘い香り、そしてしっとりと湿り気を孕んだ夏の空気だ。そして靴底を通して感じる石畳の硬さ。それらが絶妙に混じり合い、この場所に一夜限りの非日常空間を生み出している。

 そんな中で食べるイカ焼きは、イカの保存方法だとか、衛生管理だとか、そんな無粋な考えが一気に吹き飛んでしまうほど美味かった。

「美味しいね!」

 神社の社殿に続く石段の端に腰を下ろし、イカ焼きを食べていると、あさひが顔を覗き込んできて言った。恐らく、屋台の食材の取り扱いなんて考えたことがないであろうあさひは、にこにこと満面の笑みを浮かべている。

 俺はその言葉に「そうだな」と応えて頷いた。嘘ではない。普段であればどう感じたかは分からないが、今は確かに、そう思っていた。

 イカ焼きの後、あさひが、たこ焼き、リンゴ飴、かき氷と平らげたところで、腕時計を確認する。時刻はもう八時を回っている。花火は確か八時半からだったはずだ。

「あさひ、もう時間ねえぞ」

 告げて、左腕をあさひに見せると、水口と一条窪が横から覗き込んでくる。

「本当だ。……もう食べられないね? あさひくん」

 そう口にする水口は、どこかほっとしたような様子だ。きっと放っておけば、あさひがいつまでも食べていそうだったからだろう。俺はイカ焼きの他は食べていないし、水口と一条窪も、全てを食べたわけじゃない。あさひは既に散々食べたというのに、それでもまだ物足りなそうな顔で俺を見つめている。

「フランク……」

「花火見るんだろ」

「フランクぅ……」

 あさひが再び呟く。その目が心なしか潤んでいる。……泣くほどフランクが食べたいのか?

「もう食べない方がいいよ。ね? 田辺くんが言うように、花火がもう始まるし……」

 元よりあさひの暴食を望まない水口が、必死に説得している。

 一条窪はといえば、またスケッチブックに鉛筆を走らせていた。ちらちらと送られる視線の先には、あさひと水口。

「あさひ」

「ん」

「ヨーヨーは? 金魚は? 射的は?」

 俯いたあさひに、矢継ぎ早に言葉をぶつけた。

「食べ物屋台以外もまわるんだろ? 花火までに済ませるぞ」

 あさひを促してから、俺は先頭に立って再び屋台の列へと向かう。

 何も、変わらないじゃないか。

 歩きながら思う。

 あさひの様子が変だと何度も感じたのは、ただの思い過ごしだったのだろうか。

 夏休みに入ってからずっと顔を合わせていなかったのだし、電話で話すのも、長期休暇中に外で会うのも初めてだった。もしかすると、それらによって生じた些細な違和感だったのかもしれない。

 自然と安堵の息がこぼれる。そして、どきりとした。

 これじゃあ、まるで俺があさひのことを心配しているみたいじゃないか。

「耕ちゃ――わっ」

 ぴたりと足を止めると、背中にあさひがぶつかってくる。ちらと振り返り、様子を窺う。あさひもこちらを窺いながら、訝しげに首を捻っていた。

「気のせいか」

「え、何が?」

「……別に」

 呟いて、先程までいた石段の辺りに視線をやる。

 スケッチブックに絵を描き続ける一条窪に、水口が何か話しかけているようだ。少し距離があるせいか、彼らの表情はよく見えない。

 ここから声を張って、ふたりを呼ぶことは容易い。しかし、もう親に手を引かれるような子供ではないのだし、何より祭り会場自体も、たった百メートルほどしかない。少し離れたとしても、すぐに見つけられるだろう。

「で、何するか決めたか? もう三十分もないから、全部は無理だぞ」

「んー……」

 ようやくフランクのことは諦めがついたらしいあさひは、しばらく思案してから、

「金魚!」

 大きな声で、一言。ここが祭りの賑わいの中でなければ、たちまちに周囲の視線を集めただろう。

「おーおー、金魚な」

 神社参道の脇に並んだ屋台を見渡し、金魚すくいの文字を探す。食べ物屋台と石段の往復で何度も通っていたから、それはあっさり見つかった。

「金魚ー!」

 あさひも同じく金魚すくいの屋台を発見したらしく、そこへ向かって駆けていき、屋台の前でしゃがみこんだ。あさひ以外に、今は客はないようだ。

 暇を持て余すように、折り畳み椅子に座ったままタバコを吸っていた初老の男が、あさひに気付いて、足下に置いたコーヒーの缶に、火のついた吸い殻を押しつけた。

 あさひと店主の間には、四角い二十センチほどの深さがある、プラスチック製の浅い水槽が置かれていた。

 そこには水が半分ほど張られており、赤、橙、白、黒、或いはそれらの混ざった斑模様の金魚たちが(それを本物の金魚だと思っているのは、恐らく子供とあさひぐらいだろう)尾を揺らしながら優雅に泳いでいる。容器の端には、チューブが刺さったエアーポンプが突っ込まれていて、そこからぶくぶくと小さな気泡が吹き出し、それがポンプを動かすモーター音と合わさると、さながらそこだけ小さな水族館のようだ。

 さらに、頭上に吊された裸電球の橙色の灯りが水面に反射し、きらきらと輝いている様は、夕焼けに染まる海を思わせる。

「おじさん、一回ね!」

「あいよ。三百円ね」

「はいはーい。三百円……っと」

 あさひはハーフパンツの尻ポケットから薄っぺらい財布を取り出し、小銭入れ部分を覗いて指先を差し入れた。かちかち、金属と金属が触れ合う。しかし、しばらく待っても彼は代金を出そうとしない。

 あさひは財布の中を見つめて項垂れている。

「まさかとは思うが……」

 屋台で売られているものは、どれも高い。イカ焼きは一番高い身の部分を食べた。あれは五百円。その後たこ焼き。これもたしか五百円。りんご飴、かき氷は四百円。合計、千八百円。

あさひはアルバイトをしていない。必要な時に必要なだけ小遣いを与えられるシステムだと言っていたことがある。今日だっていくらか貰ってきたのだろう。あれも食べたいこれも食べたいと張り切っていたから、それなりに小遣いを弾んでもらったのだと思っていたが。

「金、もうねえの?」

「ううっ……」

 俺の言葉に顔を上げ、あさひは悲しそうに顔を歪ませる。どうやら図星らしい。

「一枚足りないよ、耕ちゃん……」

「お前なあ、たかだか二千円の手持ちで無計画に食べたりするからそうなるんだろ」

「無計画じゃないよ! 食べたい順番に食べたんだよ!」

「そういう意味じゃないっての」

「ううー金魚ー……。金魚鉢も用意してきたのに……」

「そこまで準備しといて、まったく………。はー、もう、分かったって。ほら」

 屋台の前で声を大にして嘆くあさひを、店主が物言いたげに見ているのに気付いていた俺は、財布から百円を取り出し、しゃがみこんだままのあさひに握らせる。

「こ、耕ちゃん……これはっ」

 大げさに言って、両手の指先で摘んだ百円玉を、空に向かって掲げた。銀色の硬貨と、あさひの目が輝いている。

「これで三百円だろ」

「ありがとう耕ちゃん! 優しい! 男前!」

「だー、もう、くっつくな。暑いっての」

 足元にまとわりつくあさひを引き剥がしながら、俺は店主に「一回」と告げる。プラスチックの枠に薄紙が張られたポイが差し出され、あさひはそれと交換するように代金を支払った。

「よーっし、やるぞぅ!」

「三百円分すくえよー」

 頭上から声援を送ると、

「もちろん! 耕ちゃんにも百円分の金魚、分けてあげるね!」

 戻ってきた威勢の良い返事に、俺は不安にならずにはいられなかった。

 そして数分後。

 水の上に浮いたブリキの椀。そこには僅かに水が入れられていて、ゆらりゆらり、不安定に揺れている。あさひの右手に、蛍光緑色の縁取りが鮮やかなポイ。張られた薄紙の真ん中は大きく裂け、そこからぽたぽたと水が滴っている。

「……まあ、こんなことだろうと思ってたけどな」

「どうして……なんで……ちゃんとすくったのに……金魚……ううう……」

 案の定、あさひは三百円分どころか一匹もすくえなかった。サービスで貰った一匹の赤い金魚が入った透明な袋を手に提げ、すっかり肩を落としている。

「まあ、一匹貰えたからいいだろ。ほらいくぞ」

 腕時計を見る。八時十五分。意外と時間を食ってしまった。どこで花火を観るつもりなのかは知らないが、そこまでの移動時間も必要だろうから、そろそろここを離れなくてはいけない。

 屋台の前から立ち去ろうとするが、あさひは動かない。提げた袋の中で泳ぐ金魚を、じっと見つめている。

「あさ――」

「一匹じゃあ」

 呼ぼうとすると、それを遮られる。

 あさひは視線を金魚から俺へと移した。その表情が、くしゃりと歪められている。

 ああ、泣いてしまう。

そう思った。

「寂しいよ、耕ちゃん」

「ーーっ」

 息が詰まる。

 胸の中を、鉛筆でぐちゃぐちゃと乱雑に黒く塗りつぶされていくような気分だった。

 これが無意識なのだから、本当に始末が悪い。

「あー……」

 頭をがしがしと掻く。そしてまた屋台の前に戻ると、あさひを押しどけて、金魚水槽の前にしゃがんだ。財布から取り出した銀色の硬貨を三枚、店主に差し出す。

 つくづく、俺も甘い。これじゃあ、まるで保護者だ。しかも、かなり過保護の。

「……一回」

「はいよ、一回ね」

 ポイを受け取るのを、あさひはぽかんとして見ている。

「耕ちゃ――」

「別に、お前のためにやってるわけじゃねえから」

 水の上に浮いた椀をひとつ、手元に引き寄せる。

 ポイの角度は、急でも、水平に近くてもいけない。金魚は持ち上げるのではなく、滑らせるように扱う。紙の上にのせた金魚は出来るだけ低い位置で椀に移す……らしい。金魚すくいをやったことはないが。

「田辺くん、金魚すくいやるの?」

「へえ。田辺が、ねえ……」

 背後で、水口と一条窪の声。タイミングの悪いことに、今になって合流してきたらしい。きっと一条窪は、またすべてお見通しとばかりに、にい、と嫌な笑いを浮かべていることだろう。

 想像して、小さく舌打ちをする。恐らく三人には聞こえていない。

「あ、あのね、僕が金魚をーー」

 そこにあさひが混じって会話が始まる。今の俺には、かえってその方が都合がよかった。見られていると意識すれば気が散ってしまう。

 俺はポイを握る指先に全神経を集中させ、橙色の光を反射する水の中を見つめた。

 どん。空気の膨張。

 ひるり、ひるり。空へ昇っていく光。

 ぱぁん。青の、赤の、白の、緑の、金の、あらゆる色の破裂。

 色は放物線状に、或いは滝のように散る。

 ぱらぱらぱら。音の、光の雨。その残滓が夜空に吸い込まれるように、霧散。

「いいね、すごくいい。最高だよ、田辺」

 さぁあ、さぁあ。紙の上を、勢いよく鉛筆が走る音が、花火の合間に耳に届いた。

 一条窪が普段になく興奮した様子で言う。

「あー……もう、放っといてくれ頼むから」

 両手で頭を抱え、唸るように応える。

 彼の現在の被写体は、俺だ。見慣れたスケッチブックの表紙すら、今は見たくない。ページを捲る音が何度も聞こえた。一体どれだけ俺の滑稽な姿を描けば彼の気が済むのだろうか。

 金魚すくいでは、結局俺の成果もゼロだった。一度の失敗では諦めきれず、三度もチャレンジしたが、その度にポイに張られた薄紙は無惨に破れた。その間、僅か五分である。その惨めさと恥ずかしさといったら、花火の打ち上げが始まった今でも、顔の火照りが冷めないほどだ。

「あの、田辺くんと一条窪くんも、花火、観ようよ。綺麗だよ」

 水口が気を遣って、声をかけてくる。目が合い、何となく居たたまれない気分になり、視線を逸した。顔が熱い。手扇で自分に向けて風を送る。汗が首筋を伝い落ちた。

「俺は観てるよ、田辺越しにね」

 淡々と一条窪が口にした。

「末代まで恨むぞ、一条窪」

 俺の横に陣取った一条窪を、ぎろりと睨みつける。木製の階段に腰を降ろした俺の斜め後ろに同じように座っている彼は、俺の言葉を受け流し、手を動かしつづけている。

 俺の前には、あさひと水口が並んで腰を降ろしている。あさひの左手には、水の入った透明なビニール袋。薄暗い視界の中でも、その水面がゆらめいているのが分かる。

 屋台の群を離れてから、花火を観るために訪れたのは、先程までいた石段のさらに上、神社の社殿だ。祭り会場からほど近いのに、社殿の周囲には俺たち以外には誰もいない。あさひが言うには、花火が打ち上げられるのは近くの河原で、花火が打ち上がる時間になると、みなそちらに移動してしまうらしい。神社の周囲には木が生い茂っているため、ここから花火が見えるとは誰も思わないのかもしれない。実際は、花火は木々の合間から、綺麗にその姿を現している。

 体の奥底をびりびりと痺れさせる空気の振動。

 顔を上げれば、夜空を彩る大輪の光の花。

 神社の脇の草むらで、花火の音に負けじと鳴いているのは、季節よりも一足早く活動を始めた秋の虫だ。

 ちりりりり。どん。ひるり、ぱぁん。ぱら、ぱら。

 夏が、終わる。

 ふとそう思った。その感覚は、数時間前、シャワーを浴びながら感じたものとよく似ている。

 視線を落として、水口とあさひの背を見つめる。背後では、一条窪が鉛筆を走らせる気配。

 彼らと過ごす、最初で最後の夏が、終わっていく。

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