終わる夏と終わらないもの

 閑静な住宅街の奥から聞こえる、竹笛の音色、そして太鼓の振動。スピーカーから流れているのか、それとも実際に演奏されているものなのかは分からない。しかし和楽器が奏でる流れる曲に、さらに多くの見物客の足音、屋台の店主の威勢のいい売り口上が加わり、直線に伸びる神社の参道を賑わせていた。

 屋台が並ぶ参道の入口よりも、さらに手前。車道を一本挟んだ向かい側に建つ石造りの鳥居に背中を預け、少し遠巻きにその賑わいを見ながら、俺はひとつ、溜息をついた。

 結局、来てしまった。

 シャワーを浴びた俺は、すぐに服を着替え、母親が帰宅するのを待ってから、それと入れ違いに家を出た。通学するのと同じ順路で歩き、電車に揺られて三十分。神社の場所は知らなかったが、やはり祭りということで、同じ駅で降りた中に、浴衣を着た女性が複数おり、その後を追うことで難なく辿り着くことができた。シャワーを浴びたばかりだというのに、既に汗をかいている。日差しは幾分和らいでいるが、それでもやはり、肌にじりじりと灼けるような感覚があった。

 しかし、勢いで来てしまったものの、そもそも誘いは断っているのだし、ここで鉢合わせてしまったら、気まずいのではないか――。

 そしてまた、ひとつ、溜息。

 ここに来て、自分はどうするつもりだったのだろうか。一度断った誘いだというのに。歓迎されるわけがない。そもそも、あさひが何時にここに来るのかさえ知らない。……やはり、帰った方がいいのではないか。あさひも、俺にはもう来て欲しくないと思っているかも――

「あれ、耕ちゃん?」

 不意に声がした。電話越しに聞いたものより、ずっとクリアだ。

 声の方に視線をやると、やはりそこにいたのはあさひだった。明るいグリーンのTシャツにハーフパンツ、足元はサンダルという、いかにも『ちょっとそこまで』な格好だ。家はかなり近所なのだろう。

「来てくれたんだ!」

 表情をぱっと輝かせたあさひの声が、明らかに喜色を帯びて跳ねる。元々幼く見えるその顔が、より子供っぽく、俺の目に映った。

 そこにいたのは、普段のあさひだ。学校で会う時と何ひとつ変わらない。電話口で聞いた声を思い出す。俺が誘いを断ったから、がっかりさせてしまったのだと思っていたが、案外そうでもなかったらしい。

「あ、あさ――って、うわ、水口みずくち……と、一条窪いちじょうくぼ

 鳥居に隠れて見えなかったが、あさひの後ろから、二人が顔を出した。あさひが言っていた〈三人〉――ひとりはもちろんあさひ、そして残りのふたりが、この一条窪貴美たかよしと水口せいだ。

 水口はあさひと同じくらいの背丈なので、体をずらして控えめにこちらを覗いているが、一条窪はあさひより頭ひとつ分以上背が高いため、あさひの後ろから、俺のことを見下ろしている。その胸の前に携えられているのは、開かれたスケッチブックだ。彼は常にスケッチブックと鉛筆を携帯していて、いつも何かしら絵を描いている。

「だから、来たんだろう?」

 にい、と口端を歪め、一条窪が俺にだけ通じる皮肉をぶつけてくる。

 言い返そうと口を開きかけるが、彼の目線が既にスケッチブックに落ちていることに気付いて、やめた。それに、こうやって皮肉を言うのも、彼にとっては単なる挨拶代わりなのだ。

「……よー、水口、久々。あさひもな」

 彼らの前で、あさひとの電話口でのことを話すわけにもいかず、とりあえずあさひと水口に、差し障りのない言葉をかける。

「うん、久しぶりだね、田辺くん。今日は何か用事があるから来れないって聞いたけど……いいの?」

「は? 用事……って」

 俺はそんなこと、一言も口にしていない。暑いし、ただ面倒だと思ったから、断っただけだ。ちら、とあさひを見る。あさひは、俺から僅かに視線をそらしていた。やはり電話口で話した時に感じたように、今日のあさひはどこか変だ。

「ああ、そうそう。家でちょっと、な。でも妹がどうしてもイカ焼き食いたいって言うから、さっさと用事片付けてきたってわけ」

 適当に話を合わせると、水口は「そうなんだ」と納得したように小さく頷いた。あさひは驚いたように目を丸くしていたが、理由も分からないあさひの些細な嘘を、ふたりの前で暴いても仕方がない。

 しかし、あさひと交わしたその一瞬の視線を、一条窪は目ざとく見つけたらしい。早速スケッチブックへと鉛筆を走らせている。紙の上に、いくつもの線が素早く引かれる音が、祭囃子に混じる。

「……描いてんじゃねえよ」

 そんな一条窪に、きつい視線を送る。

「単なるクロッキーだよ。細かくは描き込めないから大丈夫。普段は見られない貴重な距離感だしね」

 俺のことだけを描いているのかと思えば、どうやら俺とあさひを描いているらしい。もしかしたら、一条窪も、今日のあさひがどこかおかしいことに気付いているのかもしれない。何しろ、彼は俺たちのことを観察するのが趣味のようなものだから。

「あー、まあ、なんだ。そういうわけで、あさひ、俺も一緒でいいか?」

 俺が尋ねると、あさひは「もちろん」と嬉しそうに笑った。

 クロッキーを続ける一条窪は、とりあえず放っておくことにする。こちらが何を言ってもマイペースに描き続けるから、四人でいても大体三人のあとから彼が黙ってついてくるのがお決まりのパターンだ。

 不意に、一条窪と目が合う。彼はぴたりと、その手を止めていた。俺が肩をすくめてみせると、一条窪は口元に微笑を浮かべて、再びスケッチブックへと目線を落し、鉛筆を走らせた。

「それで、どこを見る気なんだ?」

「はいっ! 花火!」

 俺の問いに、あさひが右手を挙げて答える。

「花火は何時からなの?」

「八時半!」

 水口が訊くと、あさひが間髪入れずに言った。

 左腕にはめた腕時計に目をやる。現在時刻は六時半。花火まではあと二時間もある。花火開始まで座って待つには長すぎるだろう。

「……花火の他は?」

「金魚すくい! あとはヨーヨーと射的とー」

「何も食べないの?」

「食べるよー。まずりんご飴でしょ。イカ焼きに、たこ焼きと、フランクも食べたいしー……あ、あとかき氷も!」

 ひとり賑やかなあさひに、水口の顔が心配そうにひそめられる。

「……そ、そんなに食べるの? おなか壊さない? 大丈夫かな……」

「だーいじょうぶだよ、せっちゃん!」

 あさひは、どん、と力強く、拳で胸を叩いてみせた。その仕草に、余計に不安を煽られたのか、水口は「うーん」と渋る。

「ま、あさひらしくていいんじゃない」

 視線を寄越さずに、一条窪が言う。何がどうあさひらしいのか疑問だが、それを一条窪に尋ねても答えらしい答えは返ってこないだろうし、さらに、祭りを満喫しようとしているあさひを諌めたところで諦めるとも思えない。つまりここは一条窪の言うように『あさひらしい』という言葉で片付けるのが手っ取り早い。それに、ここで二時間という時間を潰すには、どのみち出店を回るくらいしか手段がないのだ。

 しかし生真面目な水口だけはいまだ納得いかないのか、うんうんと唸っている。暴飲暴食で体調を崩すのではないかと心配しているのだろう。きっと、あさひに言って聞かせても無理だと分かりつつ。

 俺はといえば、あさひの体調よりも、金が足りるかどうかの方が心配だった。

「なら、先に何か食うか。ヨーヨーだの金魚だの持って物食うのは邪魔くさいだろ」

「そっか、じゃあそうしよ! まずはあそこのイカ焼きに突撃だー」

 俺が提案すると、あさひはすかさず同意した。そして早速参道に並ぶ屋台の群へと向かって駆け出した。

「あ、あさひくん、待って」

 その背を、水口が追う。

 ふたりの背を見送ると、どっと肩から力が抜けた。一度誘いを断った申し訳なさと、それにもかかわらずここに来たことを弁解するために嘘をついたせいで、多少心苦しくあったのだ。

「イカ、いいんだ?」

「……は?」

 一条窪に訊かれたが、意味が分からず、自然と眉根に皺が寄る。

 彼は既に、絵を描くのをやめていた。胸元に携えられたスケッチブックを綴じている螺旋状の金具から下がった紐の先に、結びつけられた鉛筆がゆらゆらと揺れている。

「妹さんのイカ」

 言い直す口元には、不敵な笑み。その表情にむっとしながらも、気付いているくせに、とは、口に出せなかった。

「…………帰り際に買うわ」

「そ。まあそれがいいんじゃない」

 軽く受け流す一条窪に、

「うっぜえの」

 悪態をつき、小さく舌打ちをする。一条窪は、そんな俺の様子も気にも止めず、ただ笑っていた。

 陽が傾き、鳥居の影が長く、地面に落ちる。

 祭り客が随分と増えてきたようだ。

「おーい、早くー」

 雑踏に紛れて、あさひの呼び声。

 俺と一条窪は、視線も交わさず、あさひと水口の元へと向かった。

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