監視

「ひ」

 こぼれた悲鳴を、口に腕を押し当て止めた。

 それはいた。

 透明な壁の向こうに、立っていた。

 そう、『立って』いた。死んでいたはずのものが。

 白く濁った虚ろな目で、僕を見ている。

 やはりそれは人間だった。そして男だった。そして間違いなく今も『死人』だった。横たわっていた時と変わらず、腹が裂けている。はみ出た内蔵は既に乾きはじめているようで、表面にこびりついた血が剥がれて白い床を汚していた。そこからは先程はよく見えなかったが、顔や首、胸に、引っ掻き傷のようなものが無数についていた。皮膚はあちこちで剥がれ、血が滲み、ぼろぼろだ。

「アォアアォォゥウオォォァアアアア」

 低い唸り声が、部屋中に響いた。壁越しだというのに、こちら側の空気までビリビリと震えたのがわかった。死体が大きくあけた口には歯がほとんど残っていなかった。真っ黒なヘドロのようなものが、口の中には溜っているようだった。唸り声を何度も発しながら、それを床に撒き散らしている。

 僕は声も出さず、そして腕を口に押し当てたまま、だらだらと嘔吐していた。腕と口の僅かなすき間から、吐瀉物が溢れて衣服や書類を汚したが、そんなことを気にしている余裕なんてなかった。胃液混じりのそれは鼻からもこぼれ出している。つんとした痛みが鼻や喉の奥に感じられた。気付けば涙が流れていた。顔を涙と吐瀉物でぐちゃぐちゃにしながらも、僕は死体――被験体を見ていた。逃げ出したくても逃げられないのは分かっていた。だから、それを見ているしかなかった。声を殺し、身動きひとつせずに。

「ォォオオ……アゥ……アアゥゥ……」

 死体はそのうち、きょろきょろと周囲を見渡し始めた。

 そしておもむろに、

「アォゥゥアウゥゥ!」

 叫びをあげながら、左腕を掻きむしり始めた。もともと皮膚の剥がれていた腕からは、あっという間に血が滴り始める。それでも被験体は掻きむしり続けた。ぷちぷちと何かが切れるような音が続き、やがて傷口から骨が覗くほどになった。そこでやっと手をとめて、短く「ウォゥ」と吠えた。

 僕はホッと肩をなでおろした。そして書類に書かれていた『自傷癖』の意味をようやく理解することができた。赤い字で強調されていただけのことはある、衝撃的な光景だった。けれどその前に受けた衝撃の方が大きかったせいか、さほど動揺せずにすんだようだ。これも慣れだろうか。本当に慣れとは恐ろしいものだと、改めて感じた。

 けれど、安堵していられるのも僅かな時間だった。

 バン、という衝突音。目の前に広がる赤、赤、赤。

 透明だったケースの壁が、突然真っ赤に染まっていた。

 一体何が起こったのか。あまりに一瞬の出来事で、僕は理解できないでいた。

 すると再び壁に何かがあたり、大きな音がした。被験体はしきりに吠え猛っている。

 数度それが続き、ようやく被験体が、左腕を振り回すようにして壁にぶつけているのだと認識できた頃には、すでにその左腕はちぎれて床に転がっていた。壁を赤く染めたのは、傷口から噴き出した血なのだろう。

 腕がなくなっても特に気にした様子もなく、被験体はさらに額を壁にぶつけ始めた。

 壁に付着していた血液も、だらだらと流れ落ち、また透明な元の姿に戻った。

 そこへ繰り返し額がぶつけられる。

 一体この被験体は、何故こうも自傷に走るのだろう。

 僕はぼんやりとそう思った。

 何か辛いことがあったのだろうか。死してなお、自らの身体を傷付け続けるなんて、悲しすぎるじゃないか。そもそも、何故被験体は死んだのだろう。いや、死んでいないのかもしれない。けれど内臓を垂らしながら長時間生きられるとも思えない。そもそも、ここまでくると人間なのかもあやしい。書類に記載された通り、姿形は人間の男のようでも、本当は別の何かなのだろうか。

 僕の心配をいらぬお世話と言わんばかりに、被験体はひたすら額を打ち付けている。

 どれくらいその光景を見ていただろうか。

 ぴし、という小さな音が、耳に届いた。

 最初は気のせいだろうと思っていたが、それは額が壁にあたるごとに、どんどんはっきりとした音になっていく。

 やがて音は目に見える形でその姿を現した。

 透明なケースの壁に、亀裂が入っている。

 しかもそれは、衝撃が加わるたびに広がっていくではないか。

 ――壊れる!

 途端、頭の中で死への恐怖が沸き上がった。

 ここにきてようやく、この目の前の生き物が、人間ではない得体の知れぬ化け物であることをはっきりと認識する。そして同時に、先程この化け物に同情をかけた自分自身を恨めしく思った。

 書類に書かれていた一文が脳裏を過る。

『注意事項を守らないと、身の安全は保証されません』

 最初に少し声を出してしまったせいなのか? 嘔吐してしまったのがいけなかったのか? 目を閉じたから?

 もう一度書類を確認したくても、そのためには目線をひざの上に落とさなければならない。それはとても出来るはずもなかった。今目を逸せば死に繋がることは、この目の前の光景を見れば誰でも分かるはずだ。

 全身から血の気が引いていくのが分かる。

 身体が震えた。

 股間や尻が生ぬるい。失禁してしまったようだが、それを気にしている余裕などない。

 弾けるような音と共に、目の前の壁に大きな穴があいた。透明な破片が、床に散らばる。化け物が、素足でそれを踏みつける。カチャ、とオモチャのような音がした。

 僕は口に押し当てた腕に思いっきり歯を立てた。こうでもしないと、声を漏らしてしまいそうだった。

 化け物が距離を詰める。

 左腕の傷口からは、いまだ血がだらだらと流れていた。腹から垂れ下がったねじれた紐状の臓物が揺れる。

 二メートル……一メートル……。

 そして傷ひとつない右腕が伸ばされる。僕に向かって。

 ああ、死ぬ。

 吐瀉物と血にまみれて、僕はこの化け物に殺されてしまうのだ。

 ぱん。

 それは菓子パンの袋を手で叩き潰した時のような、あっさりと乾いた破裂音だった。

 僕の目の前で、化け物の頭が粉々に弾けた。四方八方の壁に一瞬で飛散した肉片や骨片は、僕の身体には降り注いでこなかった。僕の数十センチ上、あるいは数十センチ手前で、それらは食い止められたのだ。僕はあの化け物と同じ透明なケースの中に座っていたようだった。

 部屋中にブザーの音が鳴り響く。

『実験が終了しました』

 僕は弾かれたように椅子から転がり落ち、乾いた吐瀉物で異様な匂いのする口を大きくあけ、声にならない叫びをあげた。

 ケースの中で転がっている僕をよそに、真っ白な防護服を全身に纏った人々が部屋に入ってきて、化け物の死体をビニールシートで包み、あっという間にどこかに運び去っていった。それと入れ替わりに、街で出会ったあの白衣を着た眼鏡の男がやって来て、僕のそばに立った。

「お疲れ様です」

 にこりともせずに、男はいった。相変わらず、眼鏡の奥の瞳は冷たい。

「はあ……、まあ」

 怒鳴りつける気力もなく、適当に相槌を打つ。

 いや、もう怒る必要なんてないのだ。何せ『体力に自信のない方や内向的な方でもOKな日給十万円日払いの仕事』はもう終わったのだ。少し休憩させてもらって、金だけ貰えさえすれば帰ることができる。

「あの」

「はい?」

「あの化け物は、何なんですか」

 僕は男に尋ねた。教えて貰えるとも思わなかったが、あんな不気味なものを見せられては、やはり気になるのが人の性だ。

「化け物ではありません」

 変わらぬ調子で男は言った。僕は上半身を起こし、再び尋ねる。

「じゃあ、やっぱり人間……」

「いえ、違います。あれは被験体です」

「ふぅん……」

 納得する答えが返ってくるはずなんてない。それは分かってはいたが、それにしても『被験体』なんて曖昧な言葉で濁されるのも何だか腹立たしかった。そもそも、何の実験だったのかすら、ずっと監視していた僕には全く分からなかった。無理矢理連れてこられてきたにも関わらず、おかしげな実験に立ち会わされ、身の危険を感じるような思いをしたのだ。全てでなくていい。少しぐらい、情報を教えてくれたっていいじゃあないか。

「それでは、別室へ移りましょう。休憩して頂いた後、給金をお渡ししますよ」

 男は言いながら、僕の上に覆い被さっていた透明なケースを持ち上げる。意外なほどに軽々と取り去られたそれは、部屋の隅に無造作に置かれた。

 ようやく立ち上がることが出来た僕は、思いっきり両腕を突き出し、伸びをする。

 ああ、自由とは何と素晴らしいことか。

 この辛い経験を糧に、これからはどんな仕事でも頑張れる気がする。これ以上にハードな仕事なんて、恐らく一般社会には存在しないだろう。

 白衣の男が部屋の出口へと向かい、僕もそれに続いた。

「ああ」

「うわっ」

 急に男が立ち止まり、僕はその白い背にぶつかってしまった。よろよろと数歩後ずさる。

「言い忘れていました」

 男が初めてにっこりと笑った。レンズの向こうで細められた目と柔らかく綻んだ口元から、その感情のほどが窺える。

「本日付で正式雇用となりますので」

 それだけ言い残し、男は踵を返す。そしてどことなく軽い足取りで、ひとり部屋を出ていった。

 声を出して拒否する間も与えられなかった。

 ここに連れてこられた時と同様、僕に選択肢はないらしい。

「え、えええ……」

 急激に全身を脱力感が包み込む。僕は、へなへなとその場に座り込んだ。

 一体、僕のどこに適正が認められたというのだろう。嘔吐したのに。目を閉じたのに。少し声を出したのに。注意事項をまともに守れなかったというのに。

 そこまで考えて、だらしなく開けっ放しだった口から、ああ、と声が漏れた。

 適正とは『実験終了まで死なないでいられること』だったのかもしれない。

 ここで死ぬか、正規雇用。きっと、十万円を握りしめて無事帰宅なんてことは、最初から出来ないようになっていたのだ。

(……営業の仕事、もう少し、頑張っておけばよかったなあ)

 ところどころが肉片で汚れた白い部屋の中で、僕は今更ながらそう思った。

(了)

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