有意義な食事、そして無慈悲な現実
気もそぞろ、というのはこういうことをいうのだろう。海田は、手にした箸の先からテーブルの上へと転がり落ちた昆布巻きを、反対の手で口に放り込みながらそう感じていた。
クリスマスを過ぎた辺りから、自身の落ち着かなさを自覚はしていたのだ。ただそれは、年末特有の世間の気忙しさに飲まれているに過ぎないのだと思っていた。いや、思い込もうとしていた。しかし、正月三日も終わろうとしている今に至っても一向に落ち着きを取り戻す気配のない心境では、海田の半ば無理矢理の思い込みも、さすがに間違いであったと認めざるを得ない。
海田はちらと横目に玄関扉を見やった。三が日の夜半に人が訪ねてくる予定も、そもそも自宅アパートに招くほどに親しい友人もいない。大学入学と共に入居したこの部屋に入れたのはこれまでたったひとりだけだ。その人も、海田が呼ばない限りここへは来ない。
溜め息がこぼれる。視線をテーブルに落とせば、お重に入った色とりどりの正月料理。帰省しないと伝えた実家から送られてきたそれらは、一人分には少々多すぎる。どうやら彼の母親は、海田が友人らと年末年始を過ごすのだと勘違いしているようだ。
そうであれば、どれだけ良かったか。
テーブルを囲んで、望んだ人物と特別な食事を共にできれば、これ以上の幸福はないだろうに。
黙々と箸を進める。酒は嗜まないので、濃い味付けの料理を白飯と共に咀嚼し、喉に流し込む。この調子では、すぐに腹は満たされてしまうだろう。
それに、元旦からずっと同じ献立が続いているのだ。食指だってさすがに鈍くなる。かといって、わざわざ母親が作り、重箱に綺麗に詰め込んで送ってきたそれらを冷蔵庫にしまいこんで、そしらぬ顔で別のものを食べるというのも、海田にとっては耐えがたいことだった。
こつ、と不意に小さく音が鳴る。玄関からだ。音はたった一回聞こえたきり。ドアの軋みであったのかもしれない。例えそれが本当にノックであったとしても、夜間連絡なしの訪問など、無視したところで何の支障もないだろう。
「どちら様でしょうか?」
だが、考えるより先に、海田は玄関扉の向こう側に声をかけていた。
微かに外から風の音。合わせるように、部屋の窓ガラスがカタカタと揺れた。
「あー……、真木、なんだけど」
聞き慣れた気怠げな声色に、心臓が跳ねた。
反射的にノブに手をかける。
「……ッ」
勢いよく開放されたドアに動じる様子もなく、彼はそこに立っていた。ブルゾンを着込んでいるが、寒さのせいにしては顔色が不健康的に青白い。
しかし、海田にその意味を思考する余裕はなかった。
「呼ばれてねえのに、その――」
視線を泳がせながら、ばつが悪そうに口ごもる訪問者を、海田は勢いまかせに抱き締めた。
「先輩、真木先輩……!」
海田は彼――真木が自らの意思でここを訪ねてきた事実に、酷く感動していた。
真木とは、単なる先輩後輩という間柄ではない。性的関係を持つと同時に、海田は彼の受動的な性格を利用し、精神的に支配している。だから真木は、海田に指示されない限りこの場所を訪れることはないはずだった。
かといって、来訪を特段禁じているわけでもない。ただ、彼にとって、ここは必要以上に訪れる場所でないことは確かだ。
けれど、現実に真木はこうして自らの意思で海田の前に立っている。
玄関先で抱きつかれているというのに何の反応も示さない男の背を、さらにきつく掻き抱く。密着した互いの胸の間で、海田の心臓が一方的に存在を主張している。
それを意識すると、海田の頭は急速に冷静さを取り戻していった。
「ああ、ごめんなさい。興奮してしまって、つい――さあ、上がってください」
素早く体を離し、苦笑で表情を誤魔化す。真木は慣れた様子でのったりと部屋へと足を踏み入れていく。
「まさか、先輩から来てくれるなんて思いませんでした……本当に嬉しい、ありがとうございます」
彼から目を逸らす理由を求めるように、ドアを閉める。口にした言葉に嘘はないが、自分勝手な幸福からいまだ抜け出しきれない心臓が、ちりちりと痛んだ。
「別に、礼なんて」
ぽつり呟く真木に、海田はようやく違和感を覚える。見慣れたはずの彼の背が、今日は幾分か小さく見えるのだ。それに、足取りもいつも以上に重い。酒に酔っているふうでもないのに、少しふらついてもいる。
「……真木先輩? 大丈夫ですか? 体調が悪いんじゃ――」
「違う」
否定する声にすら力がない。
「でも……」
気遣いを重ねようとしたところで、はたと気付く。彼の視線が、普段とは違いたった一ヶ所にのみ向けられていることに。
もしかしたら。そんな推測の域ではない。これはもはや確信だった。
「良かったら……いえ、先輩、ここで僕と一緒に食事しましょう」
選択肢は与えない。ここで彼を無駄に迷わせる必要は一切ない。
普段所在なさげに部屋中をさ迷う真木の目線が今、注がれているのはテーブルの上。そこには食べかけの正月料理がある。
「いいのか?」
僅かに明るさが灯る声に、海田は胸を撫で下ろした。
恐らく、真木は極度に空腹なのだろう。海田の部屋に自ら足を向けたのも、ここであれば僅かでも腹を満たす何か、或いは空腹を忘れさせるものが与えられると踏んだに違いない。
――馬鹿らしい。
安堵と同時に、内心自嘲する。
感情で動くような男ではないのだ、真木は。勿論、海田もそれを理解している。だからこそ有り得ない期待をしてしまった自分自身が腹立たしかった。
「僕が、先輩と一緒に食べたいから言っているんです。良いも悪いもないですよ」
表情を繕い、そしらぬ顔で言ってのける。
「……わかった」
真木は珍しく素直な返事を寄越して頷いた。ずるい、と海田は思う。相互利益のためだけの割りきった関係でいなければならないのに、彼が時折見せる他意のない(とみえる)従順さに触れる度、思い違いをしそうになる。それはあまりに虚しい自惚れだった。
ひとりには多すぎた料理は、ふたりでつつけばすぐ空になった。とはいえ、平らげたのは主に真木の方だ。黙々と箸を進める姿から、やはりかなりの空腹状態であったことが窺えた。
「年末バイトで忙しくて」
椅子がわりのベッドに掛け、食後のコーヒーに口をつけながら、真木は聞かれもしていないことをぽつぽつと喋り始めた。
「金、下ろし損ねた。コンビニのATMも止まんのな。元々手持ちもほとんどなかったし……マジで最悪だった」
深く溜め息を吐いて、その代わりとばかりにカップの残りを一気に飲み干す。
「年末から? それじゃあ、その間は何を食べて?」
驚き聞き返せば、真木は淡々と「水」と答えた。
「水って……」
右手で軽く頭を抱える。彼がこれまでにも何度か丸一日食事をとらなかったことがあるのを海田は知っていたが、さすがに年末年始のこの数日間を水で過ごしているとは思いもよらなかった。
「次から、こういう時はすぐ僕に電話してください。絶対に。いいですね」
「……ああ」
海田の念押しに、酷く怠そうな相槌が返ってくる。真木はカップをテーブルに戻した手で、眉間から鼻筋にかけてをゆるゆると擦った。
あまりにも無防備な姿に、海田は堪らずその手首を掴む。そしてそのまま、真木の身体をベッドに横たえた。ゆっくりと為される行為に対して抵抗はない。
「でも、倒れる前に僕のところに来てくれて良かったです」
真木の顔を覗き込めば、珍しく視線が合った。思わず口許を緩めると、ふいと目を逸らされる。いつものことだ。
「痩せましたね」
手首に指を這わせる。そこは先月触れた時よりも、明らかに細い。
「食ってないから」
一体何日間食べなければここまで痩せてしまえるのだろうか。思いはすれど、海田はついぞ訊くことができなかった。二人の関係性が、それを阻んだ。
海田は、真木の唇にキスをした。ほんの少し触れるだけのキスだ。
「真木先輩、疲れたでしょう」
食事もとらず痩せた身体で、恐らくバイト帰りの足でこのアパートまで歩いて来たのだろう。相当な疲労があったはずだ。部屋に上がった際に彼がふらついていたことを、海田は思い出す。
「少し眠ってください」
真木だけを寝かせたまま、海田はベッドの端に腰をおろした。
「それで、起きたら改めて……続きをしましょう」
指先で、ベッドに落ちた黒い髪をそっと撫でる。真木の瞳が、どろりと焦点を失う。どこも見ていない目が、ちらと海田の方を向いた。そうしてそのまま、ゆっくりと瞼が落ちていく。
「おやすみなさい、真木先輩。――良い夢を」
閉じた瞼に、海田はもう一度キスを落とした。
悪夢を見ればいい。
言葉とは裏腹に、心の中でそう呟いた。自分が、真木の夢の中に現れられたならいい。それは、彼にとっては間違いなく悪夢であろう。
現実だけでなく、夢の中でさえもこのひとを縛りたいと、海田は切に願った。両者とも、決して叶わぬ願いであると知りつつも。
(了)