その柳の下に[六章]

 

「先生は、私には、そのようなこと、一言も」

「元々柳の養子には、私がなるはずでしたから……公言することには、引け目があったのかもしれません。ですから建前上は、書生ということにしたのでしょう。あなたのことで、先生は悩んでおいでのようでしたから、告げることも憚られたのかもしれません」

「奥様や祖母の件ですか」

「それもあるでしょう。ですがそれ以上にあなた自身に対してだと思います。ですが、私はあなたを東京に送ってから、すぐに大連へ赴きましたから、以降のことは一切知り得ません。

 今だから告白しますが、大連行きは、先生に命じられたのですよ。もしかすると、私の報復を恐れていらっしゃったのかもしれません。私がそのようなこと、するはずもないというのに、先生は、私を信じてはくださらなかった。先生のために、柳の家のために、この命を尽くす覚悟であったというのに。……――私は!」

 固く握られた拳が畳を打つ。重いその音に私の心臓は、ど、と跳ね、文机に強か肘をぶつけた。

「先生への、あなたへの憎しみをのみこの胸に抱いて、ひとり海を渡ったのです! 私の心を蔑ろにする先生が許せなかった! ある日突然、先生の寵愛を一身に受けることになったあなたのことが、憎くて堪らなかった! 一体何度、大連へ向かう船の甲板から海へ飛び込んだ方が楽だと考えたことか……」

 打ちつけた肘以上に、胸が重く痛んだ。西山が両の瞳に明らかな憎悪を滲ませて、その視線でもって私の心臓を、潰さんばかりに鷲掴みにしていた。

 切れ味の悪い皮肉によって、今更に彼が傷付くことなどなかったのだと思い知らされる。もっと以前、言葉もろくに交わさぬ頃から、私の存在自体が彼を苦しめていたなんて、一体どうして想像できようか。

「驚きましたか? 私がこのような人間で。私は子供だったのですよ。孤児院にいた頃、おじいさまを独り占めしようとしたあの頃と、まるで変わっていなかった。どうしたら、あなたに代わって、再び先生が私に目を向けてくれるようになるか? そもそも、何故あなたが愛されたのか? そればかり考えて、大連での日々を過ごしました。

 先生があなたに宛てて書いた小説。今思えば、あれを自分の鞄の中に潜ませたのも、本当は、あなたに嫉妬するあまりの、それこそ子供の悪戯のようなものだったのかもしれません。

 大連から戻った際、すぐに先生にお尋ねするつもりだったのです。あの方の本心を。ですが、帰国した足で直接お伺いした屋敷で、私は先生よりも先に、あなたと再会してしまった……。予想外のことではありました。しかし当時も申しました通り、あの場で偶然あなたに再会できたことは、私の人生に於いて、本当に幸いなことだったと思うのです」

「私を、恨んでおられたのに?」

「そうですね、私は確かに、順二郎さん、あなたをずっと恨んでいた。けれど、あなたと話しているうちに、気が変わったのです。そして『嵐中記』をお返しした際、もはや私に出る幕はないのだと、ついに悟るに至りました」

「どうして」

「あなたが、幸福そうでしたから。私には……先生があなたを大切になさっていることが、一目で解ったのです。私がかつてそうであったように、あなたも、柳の家から離れることなど、望んでいないのだと。それが解りながら、他人の幸福を壊すことなど、私には、とてもできませんでした。

 ですので、先生と私の関係についても、あなたには決して話すべきではないと――結局、こうしてお話することになってしまったのは、残念ですが――小説だけを、お返したのです。あなたには本当に、申し訳ないことをしました」

 彼は正座のまま、私に向かって深く頭を下げた。

「どうか頭を上げてください。西山さんは何も悪くないのですから」

 彼の肩に手を伸ばし、上体を起こさせる。哀願に歪むその表情の中には、親に許しを請う子の怯えた目。彼が本当に謝罪をしたかったのは、きっと私ではないのだろう。

「あなたは私に何もしていない。そうでしょう。たかだか、持ち物をひとつ、隠しただけ。私はあれを、元より失くしたものと考えていたのですから、手元に戻ればそれだけで良かったのです。

 あなたの心をそのように乱したのも、全て、何も知らぬままのうのうと先生の元で暮らしおおせていた、私の罪です。私が、先生を誑かした。私の無意識に潜む魔が、格子窓の内側から、外にいた柳先生を誘惑せしめてしまったことが、過ちの始まりだったのです――」

「罪などと!」

 西山が声を張り上げる。彼の肩に触れていた私の手が、今度は彼の手によって、きつく掴まれた。着物の袖の上から、私の肉付きの薄い手首を、五指が食む。怒りに揺れる瞳が、私を場に縛り付けていた。

「罪などと……そのようなものは、誤魔化しではないのですか」

 一転、掠れた声。彼は膝立ちに擦り寄り、手首を掴んだまま縋るように、私との距離を詰めた。

「秦野さんがどれだけあなたを心配していたか。あなたには解らないのですか。『順二郎を救ってくれ』彼の手紙に、そう記されていたのですよ? あなたが、先生の死に、いまだ責任を感じていると」

「そんなこと……そんなことは、私だって、痛いほどに、解っています。ですが実際、先生の死は私の責任であることは明白ではないですか。先生は、私を奥様の身代わりにしておられた。それなのに、私は先生の望むように振る舞えなかった……先生を、何度も裏切ったのです。だから、先生はお亡くなりになった。私のせいでなく、一体誰のせいだというのです」

 身代わりという言葉を口にすると、胸が詰まるような心地がした。そうだ、私は身代わりでしかなかった。爪紅も、交わした接吻も、この身に受け入れた柳自身も、奥方の代わりに与えられたものに過ぎないのだ。あくまでも、それは私の『役割』でなければならないのである。そのためにも、私が胸中に抱えているものは、最期の瞬間まで、罪でなくてはならなかった。

「身代わりですって? あなたが奥様の?」

 西山は呆れ混じりに言い放つと、私から身を離した。

 暫く黙ったままでいた彼が、ふと傍らのトランクを開ける。

 トランクの中は、意外にも殆どものが入っていない。しかし、彼が底板の下に手を潜らせると、そこからは大量の紙束が現れた。目の前に差し出された僅かに褪せた白地の紙に、薄褐色のマス目が並んでいた。連なる四角が、セピヤ色の文字で埋まっている。

「これを読んでも、先生にとってあなたが奥様の身代わりだったと……あなた自身に罪があると、言えますか」

 原稿用紙の束を受け取る。それに指が触れた途端、紙同士が擦れ合う微かな音で、自分の手が小さく震えていることに気付いた。

「『嵐中記』……」

 一行目に懐かしい筆跡で記された文字を読み上げる。同じ題名の作品を、既に私は知っていた。

 集落の禁忌を犯して鎮守の森に足を踏み入れた少年が、神の怒りによる嵐に見舞われながらも、生きて森からの脱出を試みる――という幻想冒険譚。未完に終わっていたはずのそれは、私が生家の納屋で暮らしていた時に柳から贈られ、そして柳邸を出る際、故意に部屋に残してきたはずのものだ。

「西山さん、『嵐中記』は、もう」

 この物語の存在は、もはや私にとっては辛苦にほかならない。紙面から目を逸らしつつ、それを彼へとゆっくり突き返す。だが西山は、小さく首を左右に振るだけで、受け取る素振りをみせなかった。

「あなたには、これを読む義務がある。自らの罪こそが先生の死の原因だと思い続けているのなら、尚更」

 真っ直ぐに向けられたその眼差しが、彼の言葉に不思議な強い力を纏わせていた。耳から、目から、流れ込んでくる西山の意思に、私はついに原稿用紙へと視線を落としたのだった。

 

『――神の唸りと叱責の声が、激しい雨音すら掻き消していた。頭上高く聳える木々の向こう、その漆黒の空から、真っ白な稲妻が幾筋もひっきりなしに駆け下りてくる。眩い光は少年の頭上で必ず脇に逸れていき、やや離れたところの木々を無残に切り裂く。その轟音や烈震に怯えたり、逃れようとしたりする様子は、少年にはない。ただ、ぴっしりと背を伸ばしたまま、牛歩の如き足取りで、先の見えない森を進んでいく。

 一見堂々たる後ろ姿だが、しかしその表情はといえば、裏腹である。血の気の失せた頬は、幾日も断食したと見えるほどに痩せ衰えていた。着物に染み込んだ泥水のようにどろりと濁った瞳に光を与えることができるのは、今や雷光のみ。紫色の唇が形作る乾いた微笑は、まるで少年である彼に老齢の男性の表皮を被せたかのように、べったりとそこに張り付いていた――』

 

 冒頭にざっと目を通しただけでも、自分が知っている『嵐中記』の続編であるとは、俄かに信じがたい内容がそこには記されていた。

 元々の『嵐中記』は、少年が苦難に立ち向かい、生を渇望し、死の恐怖を乗り越えていくという筋が、子供向けの平易な言葉で記されたものであったのだ。だが、この手元にある作品の中では、生の予感は微塵も現れていない。文章も平易とは言い難く、陰気だ。それどころか、憔悴しきった緩慢な足取りで歩き続ける少年の様子から窺い知れるのは、ただただ諦念ばかりである。

 少年が禁忌を破って踏み入れたのは、神に護られた鎮守の森だ。その中で少年が見せている一連の様子は、まるで断罪の時を待つ咎人のようでもあった。

 彼は、彷徨の末、自身が犯した罪の重さを自覚するに至ったのであろうか。そうであれば、もはやこの先、少年を待つものはひとつしかない。

 これではもはや続編というより、同様の題材を取った全く別の作品だ。私の手は、原稿用紙を数枚捲ったところで止まってしまった。

 だが、その短い中にも、気になる表現があった。それは、周囲の状況と比べると不自然な、ぴんと伸びた少年の背筋。そして、それとは真逆の悲哀を含んだ表情だ。これらがどうしても、私の中で、生前の柳の姿と重なってしまうのである。

 もしかすると、この偶然とは思えぬ一致こそ、つまりは『嵐中記』という作品が示そうとしているものの本質なのではないのか。私には、そう感じられてならなかった。そして、それを『答え』であるとするならば、作品が事実、柳肇本人によって書かれたものであるという確固たる前提が必要だ。筆跡でさえ、別の誰かがよく似せて書いたということが、万に一つもあるかもしれない。

 突然目の前に現れたこの確信に近い真実を、西山の言葉が見事に裏切ってくれることを、私は内心願わずにはいられなかった。ここで明らかにされようとしている真実は、かつて私が「知りたい」と切望しながらも、蓋をし、封じ込めた、柳肇という男の本質だからである。

 私は、罪人であり続けるべきなのだ。そして罪人に許される唯一は、後悔の念を持ったまま死んでいくことであろう。

「……本当に、これを、柳先生が?」

 だからこそ、私は問うた。問わねばならなかった。この『嵐中記』から私自身が感じ取ってしまったものを、他者からの否定で以て、覆す必要があった。

 しかし、西山は表情を崩さずに、首を小さく縦に振った。そうして数拍の後「間違いありません」と、はっきり肯定したのである。

「これは、先生の御遺体の傍に、遺書と共に置かれていたものですから。……恐らくあの方も、あなたと同じ、ありもしない罪に苦しめられておられたのでしょう」

 更に続けて投げられた言葉は、稲妻となって私の頭を打った。身体から力が抜け、傍の文机に支えを求める。心臓が、激しく熱く脈打ち、あたかも私を急かしているように感じられる。気付かぬうちに手のひらでさすっていた右脚が、仄かに温かみを持っていた。

「遺書には、何か」

 体内を巡り始めた、どこか懐かしい熱に後押しされるように訊く。

「葬儀に関することの他は、それまでの私の処遇に関する謝罪です。さらに罪滅ぼしとして、柳家の遺産をすべて私に相続させる旨が記されていました」

「では西山さんは」

「今は、柳と」

 安堵の息がこぼれた。一度は横道に逸れてしまった西山の人生が、紆余曲折を経てようやく、元より彼に約束されていた正当な形を取り戻したのだ。そう考えると、彼が時折浮かべる柔和な微笑も、これこそが彼本来の表情なのだと納得がいった。

 西山は、トランクから、さらに一封の封筒を取り出した。中から抜き出されたのは、折り畳まれた紙片だ。どうやら二枚ほどある。

 広げたそれを、彼はこちらへと差し出した。原稿用紙を膝の上に置き、便箋と思しきそれを受け取る。

「先生の遺書には、署名の後、一言書き添えがあるのです」

 紙の上に規則正しく並んだ薄灰色の縦罫線。その狭間に、墨を用いて書かれた文字が、微塵の乱れもなく整列している。その様は、戦地に赴いていく兵士の隊列に似ていた。そしてそれは同時に、私の頭の中で、書斎で机に向かっていた柳の背に繋がる。

 整然と連なった文字で記された署名の後、それ以前の文章とは異なる小さな文字で記された、極短い一文。

『唯一つ、順二郎のことだけは、どうかどうか、宜しく頼む』

 そこに用いられているのは墨ではなく、悔恨と悲哀の中に懐古と罪悪の念を混ぜ込んだような、セピヤ色のインキだ。さらに、この短い文を構成する一文字一文字は、すべてが滲んでいる。特にそれぞれの文字の一画目に当る部分には、インキが玉型になって染みていた。歪ながらも丸みを帯びたそれは、最期の夜の、柳へと重なっていく。

「もしあなたが奥様の身代わりだったとしたら……自らの死後も、これほどにまで気掛かりにされることがありましょうか」

 ああ、と声が漏れた。署名前後における筆致と文字色の異なりが、丸いインキ溜まりが、私の手を、足を、心を、ついに現実へと、深く打ち付けた。

 柳にとって単なる身代わりに過ぎないという想定は、他でもない、自らの本音に対するあまりにも稚拙な隠れ蓑であったのだ。もはや、いかなる理由を呈しようとも、真実から逃れることなどできない。

「先生――義父は、どうしても、あなたを養子にはできなかった。かといって、あなたを手放すこともできなかった。そこには、確かに少なからず義理もあったのかもしれません。ですが、それ以上に、義父があなたに対して抱いていたものがあった。それは、あなたが抱えているものと同じ、ありもしない罪だったのだと、私は確信しています。そしてこの罪が、あなたを苦しめると考えたからこそ、義父は自ら死を選んだのでしょう」

 西川の目が、静かに私を見据えている。

「私が先生を誑かしたのだと、昔、父は言いました。井上さんは、私を魔性だと。やはり、私が先生を惑わせてしまったのですね。……少年の好奇をくすぐった、鎮守の森のように」

 そう返すと、彼は「いえ」と、便箋を握った私の右手を取った。その大きな手のひらは、冬の日の陽射しのように柔らかく、そして酷く懐かしい。

「魔性の放つ毒は、どこまでも甘く美しいだけです。そこに僅かほどでも苦味や辛みなど感じられるはずもない。

 そもそも、神の護る森などというものは、人間が勝手に作り出したまやかしに過ぎません。それに纏わる禁忌を破ったからといって、どうして死で贖わねばならない程の罪が生まれましょうか。

 ……順二郎さん。自身を追い詰めるのは、もう止めにしましょう。義父が望んでいたのは、死してなお、あなたを縛ることではないのですよ」

 西山は曖昧に微笑すると、私の手に自身のそれを重ねたまま、じっと口を噤んだ。

 不意に、体内を迸る圧倒的な熱の流れを感じた。木が、根から吸い上げた水を細い枝々にまで行き渡らせる如く、その熱は、私の中を満たしていき、そうして、胸の奥いまだ残されていた空虚な部分を埋めていく。その様が、確かに認められたのだ。

 溢れた熱が身体の外へと流れ出し、頬を濡らす。それを拭った自らの指は、すっかり乾き果てていて、硬くなっていた。弾力のある若い肌は、気にも留めぬ間に失われてしまっていた。幼い頃、私の不安を拭ってくれたあの懐かしい指先も、こうやって年齢を重ねていったのか。

 今の私は、出会った当時の柳と、丁度同じ年頃だ。

(先生、柳先生)

 心の中で、縋るようにそのひとを呼ぶ。彼はもういない。だが、今になってようやく、一切の煩悶や心痛もないままに、柳肇というひとの傍に寄り添えているような気がしていた。

「……ありがとうございます、西山さん。本当に、今更、こんなことを口にするなど……先生に、何と詫びてよいか解りませんが、義理とはいえ、ご子息のあなたの前で、私の、ありもしない罪を告白させてくださいますか」

 西山が、ゆっくりと、大きく頷く。そして引き戻した手を、正座した膝の上に置いた。元々良い姿勢を、さらに整え、彼は私と改めて向き合った。

 頬を濡らす滴を、袖で拭う。それから私も、胸を張って、彼を真っ直ぐに見据えた。

「私は……、私は、永い間、柳先生のことを……、心の底より、愛しておりました」

「ええ。ええ……。義父もあなたを、ずっと愛しておられます」

 その存在に気付いていながらも、決して表に出してはならないと、お互い、自分自身に言い聞かせてきた感情。言葉にしてみれば、それは春の陽射しより暖かく、夏の香より濃密で、秋の風よりも切なく、冬の夜より静かだった。

「もっと早く、先生のお傍で過ごしている間に、このことをお伝えできればよかった。そうすれば、先生も――」

 口にしかけた私を「いいえ」と西山が遮る。

「柳の家から解放されてなお、あなたが義父のことを考えてくださるだけで、義父はきっと、嬉しく思うことでしょう」

 告げて、西山はまた微笑を浮かべる。私の口元が、それに呼応するように自然と綻んだ。

 窓の外から射し込む陽光が、着物越しの背に、夏とは思えぬ柔らかな温かさを伝えてくる。太陽の、長く伸ばした両手に抱きすくめられている心地だ。どうやら風向きも変わってきたらしい。

 その多くを知らぬまま長く住み続けてきた東京という街が放つ、鼻につく都会的な夏のにおいは、涼しい微風によって軽やかに浚われていく。それに煽られて、膝上に置いた原稿用紙の束が、幾枚か、はらりと畳の上に落ちた気配がした。窓の外からは、これまでは気付かなかった風鈴の音が、どこからか小さく聞こえてくる。

 その何れにも、もはや私の罪を責めたてるものはない。ここにはただ、穏やかな夏の夕だけが存在しているばかりだ。

 旧盆は過ぎた。秋の彼岸も、そう遠くない。

 

(了)

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