名無しのウサギは如何に啼く

 誠司の家で数日ほど生活すると、それまでの暮らしが、確かに飼育に過ぎなかったのだと、彼は思い知った。
 食事は、全員で食卓に座って。風呂で使えるのは温かい湯で、間違ってもホースで水をかけられるようなことはない。ひとりずつ、部屋だって与えられている。
 あまりに恵まれた境遇に、彼は戸惑わずにはいられなかった。半獣――人間に従属する存在として、誠司に対して、何も為していないのに。そんな考えが、どうしても彼の中からは消えない。
 時折誠司に視線で訴えるも、彼の心内を知ってか知らずか、誠司はただ静かに微笑んでは、彼の頭をそっと撫でるばかりだった。
 もどかしい思いを抱えつつ、そのやり場に困っているあいだに、誠司の家で暮らし始めて一ヶ月が経過。この頃になると、彼も少しは共同生活の勝手を掴みつつあった。
 他の半獣たちと言葉を交わすことはできない。それでも、一日の生活パターンから、次に何をするべきなのかを察して、先回りして準備をするなど、彼なりに気を回した。
 日中、誠司はほぼ毎日留守にしている。そのため、誠司に対して何かをしたいという思いはなかなか消化することができず、気後れは少なからずあった。それでも他の半獣たちとは、家事の手伝いを通して親しくなれたため、初対面の頃に比べれば、随分と気持ちは楽だ。
 この日、夕方過ぎになって、外出先の誠司から連絡が入った。電話に出たグレによれば、帰宅が遅くなるので、先に食事をして休むようにとのことらしい。
 誠司のいない食卓は、とても静かだ。五人でさっさと食事を済ませ、片付けに移る。今日の彼は、洗われた食器を布巾で乾拭きする係だ。
 異様に、手が滑る。食器を握る指先が覚束ない。布巾を持つ手にも力が入らず、さすがの彼自身も、おかしい、と気付く。
「新入り、どしたの? 顔が赤いよ」
 隣で食器を拭いていたクーが、顔を覗き込んできた。いつもはピンと立った黒い両耳が、しょんぼりと折れている。
「熱があるんじゃないか」
 食器を洗いながら、横目にグレがちらと視線を寄越し、彼の顔色を確認した。
 言われてみれば、身体が熱いような気もする。
「ちょっと、何? 風邪? 手伝いなんていいから寝たら? ツキに感染っちゃうでしょ」
 テーブルを拭いていたミケが手を止め、後ろから会話に割って入ってきた。その大袈裟な調子に、
「……ミケ」
 ツキが物言いたげに呟く。
「――いいから、もう」
 彼が手にしていた布巾が、ミケによって奪われる。濡れた皿だけが左手に残り、困惑していると、
「ほら、さっさと食器置いて部屋行きなよ。新入りが倒れたら、僕らが誠司に怒られるンだから」
 苛立ちをあからさまに出したミケが、彼の手から皿も奪った。手ぶらになった彼の肩がそっと叩かれる。振り返ると、ツキが静かに、彼の部屋の方を指差していた。
 ありがとう、と彼は言った。声には出なかったけれど。去り際に頭を下げると、クーが「ゆっくり寝てね」と手を振ってくる。明るく振る舞ってくれてはいるが、その両耳はまだ項垂れたままだ。自分よりずっと小さい少年に、気を遣わせてしまっていると思うと、酷く心苦しく、情けなくもあった。
 早く眠って、早く治そう。彼は、共に暮らす仲間に感謝しつつ、自室へと向かった。

 一度はベッドに潜り込んで眠ったものの、彼はすぐに目を覚ました。熱を持った身体が怠い。乾いた喉が、張りついて不快だった。
 水でも飲めば落ち着くだろうと、ベッドから抜け出す。リビングはすでに無人で、常夜灯の薄暗いオレンジ色に包まれていた。
 キッチンの流しで汲んだ水を飲み干す。渇きはすぐに癒えた。しかし、寒くもないのにコップを握る手が震えている。――何かが変だ。手の震えもだが、それ以上に、下腹の奥で、ぐずぐずとした熱の滞留を感じ、彼は戸惑わずにはいられなかった。
 この感覚には覚えがある。元飼い主から飲まされた薬によって、強制的に発情させられた時の感覚にかなり近い。ただそれと違って不快感が伴われないのは、現在の状態が、無理矢理引き起こされたものではないからか。しかし、発情によって、かつて触れていた枯れた指先を、身体が勝手に求めてしまうのを、彼の意識は止めることができない。好む好まざるに関わらず、長い時間をかけて、彼の身体はそういうふうに躾られてしまっていた。
 意識すれば余計に怠くなる身体を、リビングのソファに沈める。自室に戻るのも億劫だった。そのまま横たわり、ちらと手を見る。いまだ震えの残るそれ。おもむろに口許に運び、左親指をきつく噛む。かつて元飼い主に幾度も痛めつけられるたび、涙を流し、苦痛に喘いでいた。
 そして今、自らを傷つけながら、彼は今更ながらに思う。いきすぎた快楽も、苛烈な痛みも、すべては現実からの逃避なのではないか、と。
 ――だとすれば、元飼い主も?
 すぐに強く指を噛み直す。まぶたをきつく瞑った。もしそれが、彼の杞憂でなかったとしても、もはや終わったことだ。惨めに死んだ人間に寄り添おうとしたところで、何もかもが遅い。
「どうしたの、眠れない?」
 唐突に降ってきた声。反射的に半身を起こす。
 ソファのそばに、誠司がしゃがみこんでいた。常夜灯の下でも、明らかに表情を曇らせているのが判る。
「指、痛むよ」
 誠司の指先が、彼の唇の端に触れた。その僅かな隙間から、誠司の指が彼の口腔内に侵入する。固く噛み締めた歯列を割られ、唾液に濡れたふたりの指が、するりと口外へと抜け落ちた。
 同時に、脱力。彼の身体が傾き、意図せず誠司に抱き留められる。
 ど、と一際大きな脈動を、彼は感じた。身体の内側が燃えているようだ。誠司だけを映した視界が滲む。唇に触れる自身の吐息が、呼吸以上の意味を持ち始めていた。誠司の胸にすがる腕は、完全に無意識の所業だ。
「もしかして……発情期?」
 誠司が呟く。指摘された途端、酷い罪悪感が彼を襲う。
 自分は一体、何をしていた?
 す、と血の気が引いていく。慌てて誠司の身体を押し返すが、いつのまにか誠司の腕が腰に回されていて、身動きがとれない。
「大丈夫、落ち着いて、怖いことはしないよ。大丈夫、大丈夫……」
 誠司が、彼の身体をそっと抱きしめた。きつくもなく、かといって逃げ出せるほど弱くもない。そうして、耳の生え際から背中までを、ゆっくりとした手つきで撫でられる。
 本能が呼び起こした熱とはまた違う、酷く心地好いぬくもりが、胸に宿る。
「せ……じ、さん……」
 聞き慣れない声。思わず誠司の顔を見る。誠司も目を丸くして、彼を見ていた。
「きみ、声が」
「ぁ……」
 指摘され、思わず唇に触れる。
「せいじ、さ……ん、せいじさん……!」
 はらり、はらり、声が溢れた。苦痛に苛まれて漏れた悲鳴でも、吐き気を催すような嬌声でもない。彼自身ですら忘れていた音の響きに、涙が零れる。
 背中に回された腕に強く力が込められた。
「きみは、悪くない。発情期も半獣なら当然のことだ。……だから、このあとぼくが何をしても、それは全部『処理』――だから、気に病むことはないんだよ。いいね?」
 長い耳の内側、体毛の薄い部分を、誠司の指がそっとくじる。彼の下腹から甘い痺れが広がっていく。
 彼が小さく頷くと、
「いい子。……さあ、おいで。すぐに楽にしてあげる」
 目尻に誠司の唇が落とされる。身体の中から蕩けていくような感覚。
 目の前の厚く温かい胸板に、彼はうっとりと自身を預けた。
 
 明くる朝、隣で眠る誠司が目を覚ます前に、彼はベッドを抜け出した。身体は軽い。昨晩は籠っていた熱も、今は感じられない。
 朝食の準備のために、キッチンへと向かう。既に他の四人は起きていて、テーブルに料理を並べていた。
 おはよう、と、口にしたつもりがやはり声にはならない。昨晩が特別だったのだろう。それでも、四人は彼の様子に気がついて口々に挨拶をしてくる。
 グレが手招きで彼を呼ぶ。近寄ると、椅子を引かれ、そのまま席に座らせられた。
 テーブルの上には、深みのある器に盛られたリゾットがひとり分。しかし、他の席の前には、トーストやハムエッグが並べられている。
 何故、と首を捻ってグレに視線をやると、
「胃に優しいものを食べるといい。寝不足だろう?」
 そう、背中を叩かれた。
 発言の意図がまるで解らず、困惑していると、今度はミケが大きくわざとらしい溜め息を漏らした。
「はー、お熱いことで。昨晩はお楽しみでしたねェ?」
 ミケの言葉で、彼はようやく、誠司とのことを指摘されているのだと気付く。意識した途端、顔が真っ赤に染まる。
「えっ、何、何の話?」
 クーが無邪気に彼の顔を覗き込んでくる。ツキがそんなクーの両肩に手を置いて、小さく首を左右に振った。
「クーは……知らなくていい……」
 ふうん? とクーは特段それ以上踏み込んでくることとはなかった。その代わりに、何か別のことを思い付いたらしく、パッと表情を変える。
「あ、ねえねえ、ところで新入りは、いつまで新入りなの? 名前は?」
「それは誠司が決めることだ」
「そうそ、センスのない名前をね」
「……わかりやすくて、いいと思うが」
 彼を取り囲み、それぞれが口にしていると、
「おはよう。みんな早いなあ」
 背後から、誠司の声がした。
 どきりとして、身体が強張る。昨晩のことが思い起こされ、どういう顔をして接すればいいのか判らない。それでも顔を合わせないのもおかしい気がして、おずおずと身体を捩って後ろを振り返った。
「――おはよう」
 視線が合い、誠司が柔らかく笑む。
「お……は、よう」
 掠れたような声が、彼の口から自然と零れる。
 胸の中から全身へ、じわりと暖かいものが広がっていくのを、彼は確かに感じていた。

(了)

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